その朝、海は白かった。
空と海の境目がどこにあるのか、いくら目をこらしてもわからない。薄い雲がひとつの大きな布のように空を覆っていて、その布の色がそのまま水面にも映っている。青でも灰色でもなく、牛乳をほんの少しだけ水で割ったような、やわらかな白だった。
バスを降りたのは、終点のひとつ手前の小さな停留所だった。特に目的があったわけではない。駅のホームで電車を待っているとき、ふと「今日は海が見たい」と思っただけだ。そう思った理由は、自分でもうまく説明できない。
潮の匂いをたどって細い路地を抜けると、道はふいに途切れて、目の前に岸壁が現れた。
コンクリートの岸壁は、長い年月で角が丸くなっている。ところどころに藻の緑がにじみ、錆びた係留用の鉄の輪が、ぽつりぽつりと並んでいた。波は高くない。岸にぶつかるたびに、ちゃぷ、と小さな音を立てるだけだ。
その音のほかには、何も聞こえなかった。
遠くで鳴いているはずのかもめの声も、今朝は雲に吸いこまれてしまったのか、ひとつも届いてこない。沖には、小さな船が一艘だけ、動いているのかいないのかわからない速さで浮かんでいた。
歩いていくと、岸壁のいちばん先に、黒い影があった。
最初は、誰かが置き忘れた帽子か、丸めた上着かと思った。けれど近づくにつれて、それがゆっくりと呼吸をしているのがわかった。
黒猫だった。
岸壁の端ぎりぎりのところに、背筋をすっと伸ばして座っている。前足を揃え、尻尾を体に沿わせて、まっすぐ海のほうを向いていた。毛並みは艶やかで、薄曇りの白い光の中で、そこだけ墨を落としたようにくっきりと浮かんでいる。
私は少し離れた場所で足を止めた。
近づきすぎてはいけない気がしたのだ。この猫は、この時間のこの場所に、ちゃんと用事があってここにいる。そんな佇まいだった。
黒猫は、私に気づいているのかいないのか、振り返らなかった。耳だけが、ほんのわずかにこちらへ傾いた。それでじゅうぶんだった。「いてもいいよ」と言われたような気がして、私は岸壁の途中にあった低い杭に、そっと腰を下ろした。
しばらく、猫と私と海だけの時間が流れた。
波がひとつ寄せるたびに、白い水面の模様が少しだけ変わる。雲の切れ目から、ごくうすい光がもれて、海の一部だけがぼんやりと明るくなる。そしてまた、すうっと元の白に戻っていく。
黒猫は、その変化をひとつも見逃すまいとするように、じっと海を見つめていた。まばたきが、ゆっくりと、とてもゆっくりと繰り返される。
ふと、自分の肩に力が入っていたことに気がついた。
ここへ来る前の私は、ずっと何かを急いでいた。やらなければいけないこと、返さなければいけない連絡、考えなければいけない先のこと。頭の中にはいつも小さな時計の音が鳴っていて、それが止まる瞬間を、ずいぶん長いあいだ忘れていた。
その時計の音が、いつのまにか聞こえなくなっている。
代わりに聞こえるのは、波の音と、自分の呼吸の音だけだった。
吸って、吐く。吸って、吐く。
黒猫の背中の上下と、いつのまにか同じリズムになっていた。
どれくらい時間がたっただろう。雲が少しだけ薄くなって、海の白がほんのりと明るさを増した。そのとき、黒猫がすっと立ち上がった。
体をうんと伸ばして、前足を前に出し、背中を丸くしてから、ゆるやかに力を抜く。それから私のほうへ、初めて顔を向けた。
金色の目だった。
薄曇りの白い世界の中で、その目だけが小さな灯りのように光っていた。猫は私をじっと見て、ひとつだけ、短く「なあ」と鳴いた。
挨拶だったのか、お礼だったのか、それとも、ただの気まぐれだったのか。私にはわからない。けれど、その声は不思議なほど胸の奥にすとんと落ちて、そこにあたたかいものを残していった。
黒猫は岸壁を軽やかに歩いて、錆びた鉄の輪のあいだをすり抜け、路地のほうへ消えていった。尻尾の先が、最後にひとつだけ揺れて、見えなくなった。
私はまだ、杭に座ったまま、白い海を見ていた。
沖の小さな船は、さっきより少しだけ遠くへ進んでいた。動いていたのだ、とそのとき初めてわかった。気づかないほどゆっくりと、でも確かに、前へ。
立ち上がると、膝にうっすらと潮の湿り気がついていた。その冷たさが、なぜだか心地よかった。
帰りのバスを待つあいだ、私はもう一度だけ振り返った。薄曇りの空の下、白い海は変わらず静かに広がっていて、岸壁には誰もいなかった。それでも、あの黒い影がまだそこに座っているような気がして、しばらく目が離せなかった。
急がなくてもいい日というのは、きっと、こういう朝のことを言うのだと思う。
白い海と、静かな岸壁と、ひとつの黒い影。それだけで、心はちゃんとほどけていく。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
PR
コータのAmazonページへ
コータのAIイラスト、Xページへ
コータのユーチューブページへ
よろしければ、
のぞいてみてください









