近所を散歩していると、いつも同じ場所で同じ猫に出会う。
家から歩いて十分ほどのところに、小さな川が流れている。大きな川ではない。幅は三メートルもないくらいで、コンクリートの護岸に挟まれて、静かに水が流れているだけの、名前も知らない川だ。そこに、これまた小さな橋がかかっている。人がすれ違うのがやっとの幅で、欄干はところどころ塗装が剥げていて、下から見上げると鉄骨がむき出しになっている場所もある。誰が名付けたわけでもないのだろうが、この橋には特に名前もついていないようだった。
その橋の真ん中あたりに、黒猫がよく座っている。
最初に会ったのは、たしか去年の秋の終わりごろだったと思う。夕方、少し肌寒くなってきた時間帯に、橋の欄干の下、日向のわずかに残っている場所にちょこんと座っていた。真っ黒な毛並みで、目だけが薄い緑色をしていて、こちらをじっと見ていた。逃げるでもなく、近寄ってくるでもなく、ただそこにいた。
不思議なもので、それから何度もその橋を通るたびに、猫はだいたい同じ場所にいる。雨の日はさすがに見かけないが、晴れた日や曇りの日には、高い確率でそこにいる。まるで橋の一部のように、当たり前の顔をして座っている。
最近では、少し慣れてきたのか、目が合うと小さく鳴くようになった。近づいても以前ほど警戒しない。とはいえ、触らせてくれるほどの距離にはまだなっていない。二メートルくらいの距離を保ちながら、お互いに様子をうかがう、そんな関係が続いている。
飼い猫なのか、それとも誰かが世話をしている地域猫なのか、はっきりとはわからない。首輪はしていない。でも毛並みはつやつやしていて、痩せている様子もないので、誰かがちゃんとご飯をあげているのだろうと思う。橋のたもとにある古い家の猫かもしれない。あるいは、あの橋そのものが、猫にとっての縄張りの中心なのかもしれない。
橋というのは、考えてみると不思議な場所だ。こちら側でもなく、あちら側でもない。どちらの土地にも属さない、宙ぶらりんの場所。人間にとっては、ただ通り過ぎるための通路でしかないけれど、猫にとってはそこが定位置になっている。誰のものでもない場所だからこそ、誰にも追い出されずに、自分の場所として選べるのかもしれない。そんなことを、橋の上で香箱座りをしている猫を眺めながら考えたりする。
季節は巡って、今はもう夏に近づいている。橋の下の川には、以前より水量が増えて、流れの音も少し大きくなった気がする。猫は相変わらず、暑い日には橋の下の日陰を選んで座っている。賢いものだ。
特に用事があるわけでもないのに、私はときどき遠回りをして、その橋を通る道を選んでしまう。猫がいるかどうか、それだけを確かめるために。いた日は、なんとなく得をした気分になるし、いなかった日は、少しだけ物足りない気持ちになる。たかが猫、されど猫。会えるかどうかもわからない、名前もつけていない黒猫のために、わざわざ道を選んでしまう自分がおかしくもあり、でも悪くない習慣だなとも思う。
今日は橋の真ん中で、香箱座りのまま、ゆっくりと欠伸をしていた。目が合うと、少しだけ鳴いて、また前足に顔を埋めた。それだけのことなのに、なんだか一日の終わりに、ちょっとした報酬をもらったような気持ちになる。
名前をつけてみようかと、何度か考えたことがある。でも結局、まだつけていない。名前をつけてしまうと、なんだか自分の猫のような気がしてしまいそうで、それはそれで違う気がするからだ。あの子は、橋の猫のままでいい。私はただの通りすがりで、たまに挨拶をする関係。それくらいの距離感が、案外心地よかったりする。
明日も、あの橋を渡るだろう。黒猫がいてもいなくても、きっとまた同じ道を選んでしまう気がする。
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