一、畦道の入口
十月の終わりの朝は、空気がうすく澄んでいる。
田んぼの稲刈りはもう済んでいて、刈り株が整列したまま、やわらかな陽を受けていた。その縁をなぞるように、一本の畦道がのびている。
道の両側では、アキノエノコログサが揺れていた。
細い茎の先に、ふわふわした穂をつけた草である。猫じゃらしと呼んだほうが、しっくりくる人も多いと思う。夏のあいだは緑だった穂が、秋になると金色を帯びて、朝の光に透けるようになる。
風が吹くたびに、穂が一斉に同じ方向へ頭を下げる。そして風がやむと、ゆっくり起き上がる。
その繰り返しを、わたしはしばらく立ったまま眺めていた。
二、黒い影
畦道の少し先に、黒いものが座っていた。
最初は、誰かが置いていった丸い石かと思った。けれど、風に揺れる穂の向こうで、その石の端がぴくりと動いた。
黒猫だった。
艶のある毛並みで、背筋をまっすぐ伸ばして座っている。金色の目だけが、こちらをじっと見ていた。逃げる気配はない。かといって近寄ってくる様子もない。ただ、そこにいる。畦道の主のような顔で。
「おはようさん」
思わず、声が出た。
黒猫は返事の代わりに、ゆっくりとまばたきをした。
猫のゆっくりしたまばたきは、「敵ではないよ」という合図だと聞いたことがある。わたしも真似をして、ゆっくり目を閉じて、開けた。
すると黒猫は、すっと立ち上がって、畦道を歩きはじめた。
三、ついていく
ついてこい、と言われた気がした。
もちろん気のせいである。猫がそんなことを言うはずがない。けれど、急ぐ用事もない朝だった。わたしは黒猫の少し後ろを、同じ速さで歩くことにした。
畦道は、思っていたより長かった。
足もとでは、草の露がズボンの裾を少しずつ濡らしていく。冷たいはずなのに、不思議と嫌ではなかった。遠くでモズが鳴いている。どこかの家から、味噌汁の匂いがうっすら流れてくる。
黒猫の尻尾が、ぴんと立っていた。
その尻尾の先が、道ばたのアキノエノコログサの穂に触れるたび、穂がふわりと揺れる。猫と猫じゃらしが挨拶を交わしているみたいで、見ているだけで口もとがゆるんだ。
四、水の音
しばらく歩くと、水の音が聞こえてきた。
畦道のわきに、小さな用水路が流れていた。水は透きとおっていて、底の小石まで数えられそうなほどだった。刈り取りを終えた田んぼから、最後の水が静かに抜けていく。その音が、さらさらと、一定の調子で続いている。
黒猫は用水路のふちで立ち止まって、水面をのぞきこんだ。
わたしも隣にしゃがんで、一緒にのぞいてみた。
水面には、空が映っていた。薄い雲と、青と、畦道に揺れる金色の穂。そこに黒猫の影と、わたしの影が並んでいる。
ふだんの暮らしでは、自分の顔をこんなにゆっくり眺めることはない。画面の中ばかり見ている目が、ここではただの水を見ている。それだけで、肩のあたりから力が抜けていった。
五、ひなたの時間
用水路を過ぎたところに、ちょうどいい高さの石があった。
黒猫はひょいと飛び乗って、前足をそろえて座った。朝の陽がいちばんよく当たる場所である。毛並みが日に温められて、黒がほんのり茶色く透けて見えた。
わたしは石の横の草の上に、腰を下ろした。
ポケットには、缶のお茶が入っていた。出がけに自動販売機で買ったものだ。プルタブを開けると、湯気がふわっと立った。ひと口飲む。ぬくもりが喉をとおって、胸の真ん中に落ちていく。
十月の終わりの、ひなたのお茶。
これ以上に贅沢なものが、そうたくさんあるとは思えなかった。
黒猫は目を細めて、うとうとしはじめていた。
風が吹く。アキノエノコログサが揺れる。猫の耳が、風の方向にちょっとだけ動く。
誰も何も話さない。けれど、静かさが少しも寂しくなかった。
六、帰り道
どれくらい、そうしていただろう。
気がつくと、陽は少し高くなっていた。そろそろ帰らなければならない時間である。
立ち上がると、黒猫が薄く目を開けた。
「ほな、また」
そう言うと、黒猫はあくびをひとつして、また目を閉じた。引き止めるでもなく、見送るでもなく。それがこの猫らしくて、わたしは笑ってしまった。
来た道を戻る。
振り返ると、石の上の黒い影は、小さくなっても金色の穂の中にちゃんと浮かんでいた。
畦道には、アキノエノコログサが変わらず揺れている。わたしが歩くたびに、足もとの穂がそっと触れていった。
おわりに
忙しい毎日の中で、「癒される」ことを探しに出かけるのは、案外むずかしい。
けれど、探しに行かなくても、すでにそこにあるものがある。風に揺れる草や、水の音や、ひなたの石の上でまるくなる猫。秋の畦道には、そういうものが何も言わずに並んでいる。
もし、気持ちが少し疲れている日があったら、近くの田んぼ道まで歩いてみてほしい。
アキノエノコログサは、きっと今日も揺れている。
黒猫がいるかどうかは、会ってみてのお楽しみである。
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