秋の朝は、音が少ない。
その町のはずれには、小さな丘があった。バス停から細い坂道を十五分ほど歩くと、急に視界がひらける。丘いちめんに、蕎麦の花が咲いているのだ。
白い花は、遠くから見ると霧のようだった。近づくと、ひとつひとつが星の欠片のように小さく、細い赤みを帯びた茎の先で、風が吹くたびにかすかに揺れていた。
美咲は、その丘に来るのが三年ぶりだった。
祖母の家が近くにあった。子どもの頃、夏と秋の休みには必ず預けられて、この丘で遊んだ。祖母が亡くなってからは、足が遠のいていた。仕事が忙しい、という言い訳はいくらでも見つかった。
けれど今朝、ふと思い立って、始発に近い電車に乗った。理由は自分でもよくわからない。ただ、胸のどこかが少しだけ疲れていて、白い花の景色が、無性に見たくなった。
坂道を上がりきったところで、美咲は足を止めた。
「……ああ」
声が、勝手にこぼれた。
蕎麦の花は、記憶のなかよりもずっと静かに、ずっとたくさん、そこにあった。空は高く澄んでいて、うすい雲が刷毛で払ったように流れている。遠くの山の稜線がくっきりと見えた。空気は冷たく、乾いていて、吸いこむと胸の奥まで洗われるようだった。
丘の真ん中に、一本だけ細い道が通っている。農作業のために踏み固められた土の道だ。美咲はその道をゆっくり歩きはじめた。
靴の底で、土が小さく鳴る。花のあいだを渡る風が、頬をなでていく。
しばらく行くと、道のわきに古い切り株があった。祖母がよく腰かけて、水筒のお茶を飲んでいた場所だ。
そこに、黒い猫がいた。
切り株の上で、ちょこんと座っている。体はしなやかで小さく、毛並みは朝の光を吸いこんで、深い夜のように黒かった。ただ、その目だけが、秋の陽を映して澄んだ金色に光っていた。
美咲が立ち止まると、猫もこちらを見た。逃げる気配はない。じっと、見つめ返してくる。
「……こんにちは」
小さく声をかけると、猫は返事のかわりに、ゆっくりとまばたきをした。
猫のまばたきは、「怖くないよ」の合図だと、どこかで聞いたことがある。美咲も真似をして、ゆっくり目を閉じて、開けた。
黒猫は満足したように、前足をそろえて、背筋をすっと伸ばした。
美咲は、切り株の隣に、そっと腰を下ろした。
風が吹いた。蕎麦の花がいっせいに揺れて、白い波が丘の端から端まで走っていく。さわさわ、さわさわ、と、細かな音がした。それは波の音に似ていて、でも海よりもずっとやさしかった。
猫は、その風の中で、目を細めている。
黒い毛が風になびいて、白い花の海の中に、そこだけ墨を落としたような、美しい影を作っていた。
「あなた、ここの子?」
猫は答えない。かわりに、しっぽの先をぴくりと動かした。
美咲は、ふっと笑った。
そういえば、祖母もよく、こんなふうに猫に話しかけていた。庭に来る野良猫に、「今日は寒いねえ」「ごはん食べたかい」と、当たり前のように声をかけていた。猫は返事をしないのに、祖母は満足そうだった。
「話しかけるのはね、返事がほしいからじゃないんだよ」
いつだったか、祖母がそう言っていたのを思い出した。
「ここにいるよ、って、伝えたいだけなんだよ」
あのときは、意味がよくわからなかった。
けれど今、白い花の丘で、黒猫の隣に座っていると、少しだけわかる気がした。
誰かに、何かに、ただ「ここにいるよ」と伝える。それだけで、心の中にたまっていたものが、ほどけていくことがある。
美咲は、ゆっくり息を吐いた。
肩のあたりが、ふっと軽くなった。
どれくらいそうしていただろう。
太陽が少し高くなり、花の白さが、いっそう眩しくなってきた頃、黒猫がすっと立ち上がった。切り株から降りて、美咲の足もとに、しなやかに身を寄せる。
ふわり、と、あたたかい毛が足首に触れた。
「……ありがとう」
思わず、そう言っていた。
猫は喉の奥で、ごろごろと小さく鳴いた。その音は、遠くの風の音に溶けて、丘の空気の一部になった。
やがて猫は、花のあいだの細い道を、ゆっくり歩いていった。黒い背中が、白い花の中で揺れて、揺れて、少しずつ小さくなっていく。
途中で一度だけ、振り返った。金色の目が、ちらりと光る。
それから、何事もなかったように、蕎麦畑の向こうへ消えていった。
美咲は、しばらくその方向を見つめていた。
不思議と、寂しくはなかった。
ポケットから、鞄に入れてきた水筒を取り出す。蓋を開けると、あたたかいほうじ茶の香りが、ふわりと立ちのぼった。
ひとくち飲むと、体の芯までじんわり温まった。
「おばあちゃん」
白い花に向かって、小さく呼びかけてみる。
「また、来るね」
風が、そっと頬をなでた。
返事のかわりのように、蕎麦の花がさわさわと揺れた。
帰りの坂道を下りながら、美咲は何度か振り返った。丘はもう、遠くで白く光る小さな雲のように見えた。
あの丘は、きっと来年の秋も、再来年の秋も、変わらず白い花を咲かせるのだろう。そして、あの黒猫も、どこかで金色の目を細めながら、風に吹かれているのだろう。
そう思うと、明日からの毎日が、ほんの少しだけ、やさしく見えた。
秋の空は、どこまでも高く、澄んでいた。
蕎麦の花は、遠くから見ると、白い霧のように静かです。
忙しい毎日の中で、ふと立ち止まりたくなったとき、そんな景色がそっと背中を押してくれることがあります。
あなたの心にも、そっと寄り添ってくれる、小さな黒猫のような存在が見つかりますように。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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