机の上に、一冊の本が置かれていました。
表紙は少し古く、
角はやわらかく丸くなっていて、
何度も開かれてきたことがわかります。
その本のそばに、
黒猫が一匹、静かに座っていました。
黒猫は文字を読めるわけではありません。
けれど、
ページのにおいも、
紙をめくる音も、
本を読んでいる人の静かな呼吸も、
ちゃんと知っていました。
部屋には、午後の光が入っていました。
窓の外では、
風が少しだけ木の葉を揺らしています。
本のページが、
ふわりと一枚だけ動きました。
黒猫はそれを見て、
小さく首をかしげました。
まるで本の中から、
誰かがそっと話しかけてきたようでした。
「ここから先へ、おいで」
そんな声が聞こえた気がして、
黒猫は前足を本のそばに置きました。
ページには、
遠い森のことが書かれていました。
月明かりの道。
小さな家。
眠らない時計。
そして、
黒い猫を待っている誰か。
もちろん、黒猫には文字は読めません。
それでも不思議なことに、
そのページの上には、
どこか懐かしい景色が広がっているように見えました。
黒猫は本の上に乗ることはしませんでした。
ただ、そばに丸くなって、
じっとその本を見つめていました。
本を読むということは、
どこかへ行くことなのかもしれません。
椅子に座ったままでも、
部屋の中にいても、
心だけは遠くへ歩いていける。
黒猫はそれを、
人間より少し早く知っていたのかもしれません。
やがて日が傾き、
部屋の中が夕方の色に変わりました。
本の影が長く伸び、
黒猫のしっぽにそっと重なります。
黒猫は目を細めました。
本はまだ開いたままです。
物語は終わっていません。
けれど、
今日のところは、
ここまででいいのです。
続きはまた、
明日の光の中で読めばいい。
黒猫は本のそばで丸くなり、
小さな寝息を立てはじめました。
その寝顔は、
もう本の中の森を歩いているようでした。
机の上には、一冊の本。
そのそばには、黒猫。
何も起きていないようで、
本当は小さな物語が、
静かに始まっていたのでした。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます
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