2026年10月8日木曜日

癒される秋の宵闇と黒猫の瞳に映る一番星

癒される秋の宵闇と黒猫の瞳に映る一番星

 秋の夕暮れは、驚くほど早く終わる。

さっきまで茜色に染まっていた空が、気がつけば群青に溶けていた。坂の上の古い家の縁側には、柿の実の甘い匂いと、土の冷たさを帯びた風が流れてくる。昼間の暖かさはもう残っていない。

縁側の端に、一匹の黒猫が座っていた。

名前は「ヨイ」という。宵闇の「宵」だ。今は亡き祖母がつけた名前で、夕方になるとどこからともなく帰ってきて、必ずこの縁側に座るからだった。

「今日も来たのね」

私は湯呑みを両手で包み、ヨイの隣に腰を下ろした。ヨイは振り向かない。ただ、尻尾の先をほんの少しだけ揺らした。挨拶のつもりなのだろう。

遠くの家々に、ぽつり、ぽつりと灯りがともっていく。台所の窓、玄関の軒先、誰かの帰りを待つ小さな橙色。鈴虫の声が草むらから細く立ちのぼり、やがて夜の静けさに染み込んでいった。

この秋、私はずっと疲れていた。

大きな出来事があったわけではない。ただ、小さな「ちゃんとしなきゃ」が少しずつ積もって、いつの間にか肩が上がったまま下りなくなっていた。夜になっても、頭の中ではまだ今日の続きが回っている。

だからこの縁側で、何も考えずに座る時間が、いつしか一日でいちばん大切なものになっていた。

「ねえ、ヨイ。あなたは何を見てるの」

答えはもちろんない。けれど、ヨイの視線の先を追って顔を上げたとき、私は思わず息をのんだ。

藍色の空の、まだ薄明かりの残る端っこに、ひとつだけ星が光っていた。

一番星だ。

誰よりも先に夜を見つけて、「ここにいるよ」と小さく灯る星。

私はそっとヨイの顔をのぞきこんだ。

金色にも琥珀色にも見える、まんまるな瞳。その黒い真ん中に、小さな小さな光が映っていた。空のあの星が、ヨイの瞳の奥にもちゃんとあった。

空に一つ、瞳に一つ。

同じ星が、二つの場所で静かに瞬いている。

「……きれいだね」

声に出すと、胸の奥でかたく結ばれていたものが、ふっとほどけた気がした。

思えば、今日は一度も空を見上げていなかった。朝は足元ばかり見て駅へ急ぎ、昼は画面ばかり見つめ、帰り道はうつむいて歩いた。こんなに近くに、こんなに美しい星があったのに。

ヨイは毎日、見ていたのだろう。私が下を向いている間も、夕暮れの終わりに、ひとりで空を見上げていたのだ。

風が少し強くなって、庭の隅でススキがさわさわと揺れた。肩をすくめた私の足元に、ヨイがすっと寄ってくる。それから、何も言わずに私の膝の上に乗った。

重みと、あたたかさ。

とくん、とくん、と小さな鼓動が掌に伝わってくる。ヨイののどが、ごろごろと低く鳴りはじめた。

湯呑みのお茶は、もうぬるくなっている。けれど、不思議と寒くはなかった。

夜はゆっくりと深まっていく。一番星の隣に、ひとつ、またひとつと、小さな星が顔を出しはじめた。にぎやかになっていく空の下で、私とヨイは、ただ静かに座っている。

何かを頑張らなくてもいい夜がある。
何者かにならなくてもいい時間がある。

黒猫の瞳に映る星を見つめながら、私はそう思った。

やがてヨイは目を細め、まぶたの向こうに星を隠した。眠ったのだろう。膝の上のぬくもりが、少しだけ重くなる。

私は動かないまま、もう一度空を見上げた。

一番星は変わらず、そこにあった。

宵闇は優しく、秋の夜は静かで、膝の上には小さな黒い宇宙がある。

それだけで、今日という一日は、じゅうぶんに愛おしかった。


忙しい毎日の中でも、ふと空を見上げる一瞬を持てたら、それだけで心の景色は少し変わるのかもしれません。今夜、もし空が晴れていたら、窓の外の一番星を探してみてください。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


癒される茜色の空と塀の上でのびをする三毛猫

癒される茜色の空と塀の上でのびをする三毛猫

 夕方五時を告げるチャイムが、遠くの空に溶けていった。

駅からの帰り道、私はいつもより少しだけ遠回りをした。理由は特にない。ただ、今日はまっすぐ帰りたくなかったのだ。会議が長引いて、言いたいことを半分飲み込んで、気づけば肩のあたりが石のように固くなっていた。

細い路地に入ると、空が急に広くなった。

茜色だった。

西の端からゆっくりと広がった橙が、上へ行くほど薄紅に、さらにその上で淡い紫に溶けている。電線も、屋根瓦も、古い郵便受けも、みんな同じ色の光をまとって、一日の終わりを静かに受け入れているように見えた。

ふと、足が止まった。

古い石の塀の上に、三毛猫がいた。

白と黒とオレンジの模様が、夕焼けの光をうけてほんのりと金色に縁取られている。猫は丸くなって前脚をそろえていたが、私の足音に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。琥珀色の目が、一度だけ私を見た。

それから、猫はおもむろに立ち上がった。

前脚をぐうっと前に伸ばし、背中をしなやかに反らせ、お尻を高く持ち上げる。しっぽの先までぴんと力を込めて、まるで体じゅうの凝りを一本の線にして空へ放つような、それは見事なのびだった。

私は思わず、自分の肩に手をやった。

石のように固かったはずの場所が、ほんの少しだけ、ほどけた気がした。

猫はのびを終えると、何事もなかったように前脚を舐め、茜色の空を見上げた。急ぐ様子はない。誰かに褒められたいわけでも、何かを成し遂げたわけでもない。ただ、夕暮れの塀の上で、自分のからだをのびのびとさせているだけだ。

それなのに、その姿はなぜだか、とても満ち足りて見えた。

私はそっとカバンを肩から下ろし、塀の前にしゃがんだ。猫は逃げなかった。目を細めて、しっぽの先をゆらりと一度だけ揺らす。「まあ、そこにいてもいいよ」とでも言うように。

どこかの家から、夕飯の支度の音が聞こえてくる。包丁がまな板を打つ軽い音。味噌汁の湯気のにおい。自転車のベルが、遠くで小さく鳴った。

空の茜は、少しずつ深くなっていく。

今日言えなかった言葉のことを、私は考えた。けれど、不思議と胸は重くならなかった。言えなかった日があってもいい。のびをする時間さえあれば、また明日、少しだけ違う自分で歩き出せる。そんな気がした。

やがて猫は、塀の上をとん、とん、と軽やかに歩き出した。三色の背中が、茜色の光の中をゆっくりと遠ざかっていく。角を曲がる直前、猫はちらりとこちらを振り返り、短く「にゃ」と鳴いた。

それが「おつかれさま」に聞こえたのは、きっと私の勝手な思い込みだろう。

けれど、勝手な思い込みでいい。

私は立ち上がって、カバンを持ち直した。肩は、さっきよりずっと軽かった。

茜色の空は、まだそこにあった。明日も、あさっても、きっとこの空は同じように町を包んでくれる。

そう思いながら、私は家に向かって歩き出した。ゆっくりと、塀の上の猫のように、急がずに。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


秋のお地蔵さんの前に供えられた一輪のコスモスと黒猫

秋のお地蔵さんの前に供えられた一輪のコスモスと黒猫

 峠へ向かう細い道の脇に、小さなお地蔵さんが立っている。

苔むした石の肩には、長い年月が薄く積もっていた。赤い前掛けは雨と日差しに洗われて、いつのまにか桜色よりも淡い色になっている。お地蔵さんはそこで、通る人も通らない人も、同じ顔で見守っていた。

その朝、足元には一輪のコスモスが供えられていた。

誰が置いたのだろう。畑仕事に向かうおばあさんか、学校へ急ぐ子どもか。茎の切り口はまだ新しく、淡い桃色の花びらが、朝の冷えた空気のなかでかすかに揺れていた。花瓶もなければ、手紙もない。ただ一輪、石の前にそっと置かれているだけだった。

秋の空は高く、澄んでいた。道の向こうでは、刈り入れの終わった田んぼが静かに日を浴びている。遠くで、軽トラックのエンジン音が一度だけ鳴って、消えた。

そのとき、石垣の陰から、黒い影がするりと現れた。

黒猫だった。

艶のある毛並みが、朝の光を吸い込んで、深い藍色にも見える。首輪はない。けれど痩せてもいなくて、ゆったりとした足取りは、この道のことをよく知っている者のそれだった。金色の目が、ちらりとお地蔵さんを見上げる。

黒猫は急ぐでもなく、供えられたコスモスの前で足を止めた。

鼻先をそっと近づけて、花の匂いを確かめる。ひげが花びらに触れて、コスモスがふわりと揺れた。猫は一瞬だけ目を細めると、花を倒すことも、くわえることもなく、ただ静かに隣へ腰を下ろした。

お地蔵さんと、コスモスと、黒猫。

風が通り抜けるたびに、足元のススキがさらさらと鳴る。どこかの庭で金木犀が咲いているのだろう。甘い香りが、ほんの少しだけ道に流れてきた。

黒猫は前足をきちんと揃えて座り、尻尾を石の台座に沿わせている。まるで、そこが自分の持ち場だとでもいうように。お地蔵さんの穏やかな顔と、猫の澄ました横顔が、並んで朝日のほうを向いていた。

どれくらい経っただろう。

太陽が少しずつ高くなって、コスモスの影が短くなっていく。黒猫のまぶたが、とろりと重たくなった。日だまりの温もりに誘われて、猫は丸くなる。黒い背中が、ゆっくりと上下する。

そこへ、自転車を押したおじいさんがやって来た。

おじいさんは、お地蔵さんの前でふと立ち止まった。帽子をとって、小さく頭を下げる。それから、眠る黒猫と、その横のコスモスを見て、皺の多い顔をゆるめた。

「今日はお客さんが来とるんやな」

誰に言うともなくそう呟いて、おじいさんはもう一度会釈をすると、起こさないように静かに自転車を押して去っていった。タイヤが砂利をふむ音が、遠ざかっていく。

あとには、秋の光と、風の音。

黒猫は夢のなかで何を見ているのだろう。ひげがぴくりと動いて、尻尾の先が一度だけ揺れた。コスモスの花びらも、同じように風に揺れた。

お地蔵さんは、何も言わない。

けれど、石の口もとには、昨日よりも少しだけ、やわらかな笑みが宿っているように見えた。

願いごとを聞くことも、叶えることもできないお地蔵さんが、それでも長いあいだそこに立ち続けている理由。その答えは、きっとこの朝の風景のなかにある。誰かが置いた一輪の花と、通りがかった猫のぬくもり。そんな小さなものを、黙って受け止めてくれる場所があること。

道ばたの静けさは、人の心をそっとほどいてくれる。

急ぎ足の毎日のなかで、ふと立ち止まる場所。秋の澄んだ空気のなかで、花と猫と石の仏さまが、ただ静かに並んでいる。それだけで、世界は十分にやさしかった。

黒猫が、ゆっくりと目を開ける。

大きなあくびをひとつ。伸びをして、金色の目でもう一度コスモスを見やると、猫は軽やかに石垣の向こうへ姿を消した。

残された一輪のコスモスは、秋風のなかで、まだ静かに揺れている。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


癒される秋の夕焼けと野良猫たちの長い影

癒される秋の夕焼けと野良猫たちの長い影

 商店街のはずれに、古い石の階段がある。

十月の終わりに近いその日、私は仕事帰りに、いつもと違う道を選んだ。理由は特にない。ただ、駅を出たときの空が、あまりにもやわらかな橙色をしていたから。まっすぐ家に帰るのが、少しもったいなく思えたのだ。

階段をのぼりきると、小さな空き地に出た。

町が一望できる場所だった。瓦屋根の波の向こうで、太陽がゆっくりと沈んでいく。空は上のほうから、藍、紫、桃色、そして燃えるような茜色へと、絵の具をにじませたように変わっていた。冷たくなりはじめた風が、枯れ草の匂いを運んでくる。

そこに、猫たちがいた。

最初に目に入ったのは、白い足先をした茶トラだった。コンクリートの低い塀の上で、前足をきちんとそろえて座っている。その隣には、灰色のサバトラ。少し離れた草むらには、黒と白のぶち猫が背中を丸めていた。

三匹とも、同じ方向を向いていた。

沈む夕日のほうを。

私はベンチに腰をおろし、鞄を膝に置いた。猫たちは、私に気づいたはずなのに、逃げなかった。ちらりとこちらを見て、すぐにまた夕日へ視線を戻す。まるで「ここは皆の場所だから、好きに座りなさい」と言われたようで、思わず小さく笑ってしまった。

影が、長かった。

夕日が低くなるにつれて、猫たちの影は地面を這うようにのびていく。小さな体からは想像もつかないほど長く、細く、石畳の上をすうっと走って、私の足もとにまで届いた。

茶トラの影は、ぴんと立った耳の形まで、はっきりしている。サバトラの影は、ゆらゆらと尻尾の先だけが揺れていた。ぶち猫の影は、草の間に溶けて、どこまでが猫でどこからが夕闇なのか分からない。

そして私の影も、その隣にあった。

猫たちの影と、私の影が、地面の上で並んでいる。

それだけのことなのに、胸の奥がふっとゆるんだ。

今日は、朝からうまくいかないことが続いていた。メールの返信に手間取り、会議では言葉が空回りして、昼食を食べそびれた。小さな疲れが、気づかないうちに肩の上に積もっていたのだと思う。

けれど、長い影たちを眺めていると、そんなものはどれも、夕暮れの空に薄く溶けていくような気がした。

やがて、サバトラが塀からひらりと降りた。

音もなく着地して、のびをひとつ。それから私のほうへ数歩近づいて、ベンチの脚のそばで立ち止まった。距離は、手をのばしても届かない、ちょうど半歩ぶん。

「触ってもいいよ」とも「触らないでね」とも言わない、絶妙な距離だった。

私は、手をのばさなかった。

代わりに、静かに呼吸をした。猫と同じ速さで、ゆっくりと。

野良猫というのは、不思議な生き物だと思う。誰にも飼われていないのに、誰よりも自分の居場所を知っている。明日のごはんの保証もないのに、夕日をこんなにも落ち着いて眺めている。

私はいつから、明日のことばかり考えて、今日の空を見なくなったのだろう。

太陽の縁が、ゆっくりと屋根の向こうに触れた。

空の茜色が、いちばん深くなる。

遠くの商店街から、豆腐屋のラッパの音が、細く聞こえてきた。どこかの家の窓から、夕飯の湯気の匂いがただよう。自転車のベルが一度鳴って、子どもの笑い声が坂道を下っていく。

町のすべてが、一日の終わりを、やさしく受け入れているようだった。

茶トラが、あくびをした。

大きく口を開けて、目を細めて、それからゆっくりと丸くなる。ぶち猫もいつのまにかサバトラの隣に寄り添って、三匹は、ひとつのあたたかな塊みたいになった。

影はまだ、のびていた。

けれど夕日が沈みきるにつれて、少しずつ、少しずつ、薄くなっていく。長い影が空と地面の境にほどけて、夜の色に混ざっていく。

最後の光が消えたとき、空には一番星が出ていた。

私はベンチから立ちあがった。猫たちは、もう私を見なかった。けれどそれが、不思議と寂しくなかった。きっと彼らにとって私は、夕日を一緒に見た、ただの通りすがりの誰かなのだ。

それでいい、と思った。

階段をおりながら、一度だけ振り返った。薄闇の中で、塀の上に小さな三つの影が、寄り添って並んでいた。

秋の夕暮れは、短い。

けれど、その短さの中に、一日分のやさしさが、ぎゅっと詰まっている。

帰り道、ポケットの中の手が、朝よりも少しだけ、あたたかかった。

夕焼けも、猫たちの長い影も、明日にはもう同じ形では会えません。だからこそ、ふと見上げた空の色を、今日だけの宝物としてそっとしまっておきたいと思うのです。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


癒される秋のシラヤマギクの咲く林道とメインクーンという猫

癒される秋のシラヤマギクの咲く林道とメインクーンという猫

 秋の朝の林道は、音が少ない。

遠くで鳥が一声鳴いて、それきりだった。足もとの落ち葉は夜露を含んで、踏んでもほとんど音を立てない。吐く息はまだ白くならないけれど、空気は冷たくて澄んでいて、胸の奥までまっすぐ入ってくる。

林道に入ってしばらく歩くと、道の脇に白い花が揺れていた。

シラヤマギクだ。細い茎をすっと伸ばし、小さな白い花びらを広げている。派手さはないのに、木漏れ日を受けると、花びらのふちがほんのり光って見える。木々の影が濃い道の脇で、そこだけ小さな灯りがともっているようだった。

しゃがんで花を眺めていると、かさり、と音がした。

顔を上げると、道の少し先に猫がいた。

大きな猫だった。ふさふさの長い毛は、茶と黒と白がやわらかく混ざり合っていて、首のまわりには立派なたてがみのような毛が広がっている。耳の先には房のような毛がぴんと立っていた。メインクーンだ、と思った。

猫は逃げなかった。琥珀色の目でこちらをじっと見て、それから、急ぐでもなく、ゆっくりと近づいてきた。

大きな体なのに、足音がしない。落ち葉の上を、まるで雲の上を歩くように進んでくる。やがてシラヤマギクの手前で立ち止まると、ふう、と鼻をひくつかせて、花の匂いを確かめた。白い花が、猫の鼻先でふわりと揺れた。

「いい匂い?」

そう聞いてみたけれど、猫は振り向かない。ただ、長いふさふさの尻尾を、ゆらりと一度だけ動かした。返事のつもりなのかもしれない。

猫は花のそばの、日だまりのいちばん暖かそうな場所にどっかりと腰を下ろした。前足をそろえ、背筋を伸ばして、林道の向こうを眺めている。まるで、この道の番人のようだった。

私も少し離れた倒木に腰かけて、同じ方向を眺めてみた。

木々の葉は、まだ緑が残るものと、黄色くなりかけたものとが入り交じっている。その隙間から、斜めに光が差し込んで、空気中の細かな粒をきらきらと照らしていた。風が吹くたび、シラヤマギクが一斉にうなずく。猫の毛も、風に撫でられて、さわさわと波打った。

ふと、最近の自分の毎日を思い出した。

予定を詰めて、通知に追われて、気づけば「ちゃんと休む」ことが一番後回しになっていた。何かをしていないと落ち着かなくて、立ち止まると、置いていかれるような気がしていた。

でも、この猫は何もしていない。

ただ座って、風を感じて、光を浴びている。それだけで、ちゃんとそこに「いる」。

それはなんだか、とても堂々として見えた。何かを成し遂げなくても、生産的でなくても、日だまりに座っているだけで、この朝の林道は完成している。そんなふうに思えた。

しばらくして、猫が大きなあくびをした。ぴんと立った耳の房毛が揺れて、小さな牙がちらりと見える。それから、のっそりと立ち上がり、ひとつ伸びをして、また林道の奥へと歩き出した。

数歩進んだところで、猫は一度だけ振り返った。

琥珀色の目と、目が合った。

「ついてきてもいいよ」と言われた気がして、私は思わず立ち上がった。

猫のあとを、ゆっくり歩く。道の両脇には、シラヤマギクの白い花が、ぽつり、ぽつりと続いていた。猫の尻尾が、前を行く道しるべのように揺れている。

急がなくていい。どこかへ着かなくてもいい。

落ち葉の道を一歩ずつ踏みしめるうちに、頭の中でずっと鳴っていたざわざわした音が、いつのまにか静かになっていた。

林道の先には、やわらかな光が満ちていた。

秋の朝、白い小さな花と、大きなやさしい猫。それだけで、心はこんなにも静かになれる。そんな一日の始まりだった。


この林道の静けさと、シラヤマギクの白、そしてメインクーンのゆったりとした歩み。どれも、頑張りすぎた心をそっとほどいてくれる秋の贈りものでした。

もしお疲れを感じる日があれば、近くの小さな道を歩いて、道ばたの花に目をとめてみてください。きっと、あの猫のように、ただそこにいるだけでいい時間が見つかるはずです。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


癒される秋の青空と屋根の上の黒猫

癒される秋の青空と屋根の上の黒猫

 朝、窓を開けると、空がびっくりするほど高かった。

夏の空は、分厚い雲を抱えて低く構えていたように思う。それがいつの間にか、ひとつ息を吐いたみたいに遠くへ退いて、どこまでも澄んだ青だけを残している。ひんやりした風が、カーテンをやわらかく揺らした。

マグカップを両手で包んで、ベランダに出る。

向かいの家の屋根の上に、黒いものが丸まっていた。

猫だ。

瓦の上、ちょうど朝日がいちばん先に当たる場所で、黒猫は前足を胸の下にたたんで、じっと空を見ていた。艶のある毛並みが光を吸い込んで、背中のあたりだけほんのり茶色く透けている。秋の日差しを、ひと粒残らず集めているみたいだった。

私に気づいたのか、猫はゆっくりとこちらを向いた。金色の目が、一度だけ細くなる。

挨拶をされたのだと思うことにした。

「おはよう」

小さな声で言うと、猫は返事の代わりに、ふわあ、と大きなあくびをした。それから、まるで何も用事などないという顔で、また空へ視線を戻す。

私も同じ方向を見上げた。

白い雲が、ひとつだけ浮かんでいる。ちぎった綿のような、頼りない形をしていた。それがゆっくり、ゆっくり、屋根の向こうへ流れていく。急ぐ理由なんてどこにもないのだと、教えてくれているようだった。

思えば、こんなふうに空を見上げるのは久しぶりだった。

最近は、足元ばかり見ていた気がする。スマホの画面、駅の階段、締め切りの数字。顔を上げる余裕もないまま、季節だけが勝手に進んでいた。金木犀の香りがしていたことにも、きっと一度も気づかなかった。

それなのに、空はずっとここにあったのだ。

黒猫は、屋根の上で器用に体を伸ばした。ぐうっと背中を丸め、前足をそろえて、また丸くなる。その一連の動きが、あまりにも自然で、あまりにものんびりしていて、見ているだけで肩の力が抜けていく。

風が吹いた。

どこかの庭から、乾いた落ち葉の音が聞こえる。遠くで、自転車のベルが軽やかに鳴った。洗濯物を干す音。誰かが玄関先を掃く、ささやかな箒の音。

世界は、こんなにも静かに動いている。

猫はそのどれにも動じず、屋根の上で、ただ青空の下にいた。「いま」という時間を、いちばん上手に使っているのは、きっとこの子なのだろう。

マグカップのお茶が、少しぬるくなっていた。

それでも私は、もう少しだけここにいることにした。ベランダの手すりに肘をついて、空と、屋根と、黒い背中を、ぼんやり眺める。

しばらくして、猫がふいに立ち上がった。

屋根の端まで歩いていき、軽やかに隣の塀へ飛び移る。しなやかな尻尾が、青い空を背景に、一本の線みたいに揺れた。そして一度だけ振り返って、金色の目で私を見た。

「また、ここにおいで」

そう言われた気がした。

猫の姿が見えなくなったあとも、屋根の上には、あたたかな日だまりが残っていた。

私は大きく息を吸い込む。

秋の空気は、少し冷たくて、少し甘い。

今日はきっと、いい一日になる。根拠なんてないけれど、澄んだ青空と、屋根の上の黒猫に会えた朝なのだから、そう信じてみてもいいと思った。

空は高く、風はやさしく、季節はちゃんと、ここにある。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


2026年10月7日水曜日

癒される茜色の夕焼けとヤクシソウが咲く土手とマンチカンという猫

癒される茜色の夕焼けとヤクシソウが咲く土手とマンチカンという猫

 仕事帰りの道を、その日はいつもより少し遠回りした。

駅から家までは、まっすぐ歩けば十五分ほど。けれど十月に入ってから、わたしは気づくと川沿いの土手へ足を向けるようになっていた。理由ははっきりしない。ただ、夕方の空がきれいな日は、屋根の下に急いで入ってしまうのがもったいない気がしたのだ。

土手の上に出ると、風が頬をなでた。昼間の熱をすっかり手放した、すこしひんやりした秋の風だった。

西の空は、茜色に染まっていた。

燃えるような赤ではなく、熟した柿のような、やわらかな橙を溶かした茜色。その色が川面にも流れこんで、水の上をゆっくりと揺れている。遠くの鉄橋のシルエットが、墨絵のように浮かんでいた。

足もとに目をやると、土手の斜面に小さな黄色い花が群れて咲いていた。

ヤクシソウだ。

細い茎をすっと伸ばして、先に小さな黄色い花をいくつもつけている。派手ではない。けれど夕焼けの光を受けると、花びら一枚一枚が金色に透けて、まるで草むらにちいさな灯りがともったように見えた。春の花ほど華やかではなくても、秋の終わりに向かう景色のなかで、この花はいちばん静かに、いちばん長く咲いている気がする。

しばらく立ちつくして、その景色を眺めていた。

そのときだった。

草の向こうで、ふわり、と何かが動いた。

目をこらすと、ヤクシソウの群れのすぐそばに、一匹の猫が座っていた。

クリーム色の毛並みに、ところどころ薄茶のまだら。丸い顔にまんまるの目。そして、ちょこんと草の上に置かれた、驚くほど短い前足。

マンチカンだった。

首輪はしていない。けれど毛並みはふんわりと整っていて、どこかの家の猫が散歩に出てきたのかもしれない。猫はわたしを見上げると、少しだけ首をかしげた。それから、何事もなかったように、また夕焼けのほうへ顔を向けた。

わたしは、そっと隣に腰を下ろした。

逃げるかな、と思ったのに、猫は動かなかった。耳がぴくりとこちらを向いただけで、あとはただ、同じ空を見ている。

短い足を揃えて座る後ろ姿が、なんとも言えず愛おしかった。背中の丸み、ぴんと立った耳、ゆるやかに揺れるしっぽの先。ヤクシソウの黄色と、猫のクリーム色と、空の茜色。三つの色が、夕方の光のなかでやさしく混ざりあっていた。

ふと、思った。

今日は、朝からずっと慌ただしかった。返さなければいけない連絡があって、直さなければいけない書類があって、頭のなかはいつも「次」のことでいっぱいだった。

けれどこの土手には、急ぐものが何もない。

風が草をゆらして、花がゆれて、猫がまばたきをする。ただそれだけのことなのに、胸の奥でかたく結ばれていた何かが、ゆっくりとほどけていくのがわかった。

猫が、ごろんと草の上に横になった。短い足をのばして、おなかを夕日にむける。気を許してくれたのだろうか。それとも、ただ眠くなっただけなのだろうか。

どちらでもいい、と思った。

茜色はだんだん深くなって、空の端に藍色がにじみはじめた。川面の光も、少しずつ静かになっていく。ヤクシソウの黄色い花は、夕闇のなかでもまだ、ぽつぽつと小さな光を残していた。

どれくらい経っただろう。

猫がむくりと起きあがり、のびをして、ゆっくりと土手を降りていった。短い足をちょこちょこと動かしながら、一度だけ振り返る。そして、草むらの向こうへ消えていった。

わたしはしばらく、その場所に座ったままでいた。

家に帰ったら、温かいお茶をいれよう。そんなことを思いながら、立ちあがって、スカートについた草を払う。

土手の上には、まだ茜色の名残が残っていた。

きれいな景色は、探しに行かなくても、ふとした帰り道にそっと待っていてくれる。そして、ほんの少し足を止めるだけで、その日の心をやさしくなでてくれる。

ヤクシソウの揺れる土手と、茜色の空と、短い足の小さな猫。

そんな夕方があったことを、わたしはきっと、今夜の眠りのなかでも思い出すのだと思う。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


癒される茜色の空と夕暮れの散歩を楽しむマンチカンという猫

癒される茜色の空と夕暮れの散歩を楽しむマンチカンという猫

 夕方の四時を過ぎると、窓辺の光が少しずつ金色に変わっていく。

その変化に、いちばん先に気づくのはいつもモチだった。

モチは、短い足のマンチカンだ。白と薄茶のまだら模様の毛並みで、歩くたびに丸いお尻がぽよぽよと揺れる。昼間は日だまりで丸くなり、夢の中でときどき前足をぴくりと動かしている。それが四時を過ぎると、ぱちりと目を開けて、ゆっくりと伸びをする。

そして玄関の前に座り、私の顔をじっと見上げるのだ。

「……行くの?」

そう聞くと、モチは「にゃ」と短く答える。それは、毎日の約束の合図だった。

ハーネスをつけて外に出ると、空気はもう昼の熱を手放していた。ひんやりとした風の中に、どこかの家の夕ごはんの匂いが混じっている。味噌汁だろうか。焼き魚だろうか。モチは鼻をひくひくさせて、そのひとつひとつを丁寧に確かめながら歩いていく。

短い足でとことこと、けれど迷いなく。

住宅街を抜けて、川沿いの土手へ続く坂道にさしかかったとき、モチがふいに立ち止まった。

空を見上げている。

つられて顔を上げた私は、思わず息をのんだ。

西の空が、茜色に染まっていた。

燃えるような赤ではなく、柔らかく溶けたような、あたたかな色だ。その茜色の上には薄紫の雲が長くたなびき、さらに上へ目をやると、空は少しずつ群青へと沈んでいく。ひとつの空の中に、一日の終わりがぜんぶ詰まっていた。

モチは小さな体をまっすぐにして、じっとその空を見つめている。茜色の光が、まだら模様の毛先をほんのり染めて、まるで体のまわりに薄い炎をまとっているみたいだった。

「きれいだね」

声をかけても、モチは振り向かない。ただ、尻尾の先がゆっくり左右に揺れていた。機嫌のいいときの、あの揺れ方だ。

猫に、空の美しさがわかるのだろうか。

そんなことを考えて、すぐに苦笑いした。わかるかどうかなんて、きっとどうでもいいのだ。モチは今この瞬間を、全身で味わっている。それだけで十分だった。

土手の道を、また二人で歩き出す。

川面には空の色がそのまま映り込んで、水の流れに合わせて、茜色がゆらゆらと形を変えていた。どこかで犬の散歩をしている人が、ゆるやかに会釈をしてくれる。モチを見て「かわいいですね」と目を細め、モチは知らん顔で、道端のススキの穂に鼻先を近づけている。

ススキが風に揺れて、さらさらと音を立てた。

秋の夕暮れの音だ、と思った。

私は一日の中で、いくつもの小さなことを抱えて歩いてきた。終わらなかった仕事のこと、うまく言えなかった言葉のこと、明日の予定。それらが胸のあたりでごちゃごちゃと絡まっていたはずなのに、気づけば、少しずつほどけている。

モチの隣を歩くと、いつもそうなのだ。

急がなくていい。立ち止まってもいい。空が綺麗なら、ただ見上げればいい。短い足の小さな猫が、毎日それを教えてくれる。

土手のベンチに腰を下ろすと、モチはぴょんと膝に乗ってきた。ずしりとした、あたたかな重み。丸くなって喉を鳴らし始めると、ごろごろという小さな振動が、膝からお腹へ、お腹から胸へと静かに伝わってくる。

茜色の空は、ゆっくりと色を深めていった。

雲の縁が金から桃色へ、桃色から薄紫へ。やがて一番星が、遠くの空にぽつりと灯る。

「帰ろうか」

そう言うと、モチは名残惜しそうに空をもう一度だけ見上げて、それからするりと膝を降りた。

帰り道、街灯がぽつぽつと灯り始める。モチの影が、長く細く、足元にのびている。短い足のはずなのに、影の中ではなんだか少し背が高くて、それがおかしくて、私は一人で笑ってしまった。

家に着くと、モチは玄関で小さく「にゃあ」と鳴いた。今日も楽しかったよ、と言っているような声だった。

ごはんの用意をしながら、ふと窓の外を見る。空はもうすっかり夜の色になっていたけれど、私の胸の中には、あの茜色がまだほんのり残っていた。

明日もきっと、四時を過ぎたらモチが目を開ける。

そして玄関の前に座って、私を見上げるのだろう。

夕暮れの散歩は、一日の終わりに、私と小さな猫がそっと交わす約束だ。

茜色の空の下を、丸いお尻を揺らしながら歩く背中を、私はこれからも、いちばん近くで見ていたいと思う。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


癒される秋の夕焼けと川面に映る茜色の空とメインクーンという猫

癒される秋の夕焼けと川面に映る茜色の空とメインクーンという猫

  秋の夕暮れは、一日の終わりに世界がそっと息をつく時間だと思う。

 その日、私は仕事帰りに、ふだんは通らない河川敷の道を選んだ。理由はない。ただ、駅を出たときに見上げた空が、いつもより少しだけ深い色をしていたからだ。

 土手を上がると、視界がひらけた。

 西の空が、茜色に燃えていた。雲の縁は金色にほどけ、その色がそのまま川面に落ちて、ゆっくりと揺れている。空がふたつあるみたいだった。上の空と、水の中の空。どちらが本物なのか、わからなくなるほど美しかった。

 風は少し冷たく、枯れかけたススキが、さらさらと小さな音を立てている。遠くで、どこかの家の夕飯の匂いがした。

 土手の途中に、古いベンチがひとつ置かれている。

 そこに、先客がいた。

 大きな猫だった。メインクーン、というのだろう。銀灰色の長い毛が、夕陽を受けて、うっすらと茜に染まっている。耳の先には、ふさふさとした飾り毛。首まわりの豊かな毛並みは、小さな獅子のようだった。

 猫はベンチの真ん中に、どっしりと座っていた。背筋をのばし、川のほうを向いて。まるで、毎日ここで夕焼けを見届けるのが自分の仕事だとでも言うように。

 私は少し迷ってから、ベンチの端に、そっと腰をおろした。

 猫は、ちらりとこちらを見た。琥珀色の目だった。夕陽を溶かしこんだような、静かな色。

 けれど、すぐに興味を失ったように、また川へ視線を戻した。追い払われなかったことが、なぜだか少し嬉しかった。

 しばらく、ふたりで黙って空を見た。

 太陽が、川の向こうの低い山に、ゆっくりと近づいていく。空の茜色が、紅へ、紫へ、少しずつ階調を変えていく。川面の色も、それに寄りそうように変わっていく。

 今日は、いろいろあった日だった。

 うまくいかなかった会議。言い返せなかった一言。帰りの電車で、ふと胸にたまっていた、名前のつけられない疲れ。そういうものが、この景色の前では、なんだか小さく見えた。

 消えたわけではない。けれど、空があまりに大きくて、川があまりに静かで、私の悩みは、その中にそっとおさまってしまったのだった。

 ふいに、膝のあたりに、あたたかな重みがかかった。

 見ると、メインクーンが、いつのまにかこちらへ寄ってきていた。大きな前足を私の膝にのせて、ぐい、と体を伸ばしている。ずっしりとした、やわらかな体温。

 「……いいの?」

 猫は答えない。ただ、のそりと膝の上に乗ってくると、ひと回りして、丸くなった。ごろごろ、と低い音が、体の奥から響いてくる。

 長い毛に手を沈めると、陽だまりを抱いているみたいにあたたかかった。指のあいだを、絹のような毛がすり抜けていく。

 猫のあたたかさは、不思議だと思う。何も言わないのに、何もしてくれないのに、それでも「ここにいていいよ」と言われている気持ちになる。

 茜色の空が、いちばん濃くなる瞬間が来た。

 川面いっぱいに、燃えるような光が広がる。猫の毛も、私の手も、ベンチも、世界のすべてが、同じ色に染まった。

 その時間は、ほんの数分だったと思う。けれど、とても長いあいだ、そこにいたような気がした。

 やがて太陽は山の端に沈み、空は、藍色にゆっくりと溶けはじめた。一番星が、ひとつ、遠くに小さく光る。

 猫が、のっそりと顔を上げた。

 もう帰る時間だ、と言うように、私の膝からしなやかに降りる。ベンチの足もとで、ぐぅん、と大きく伸びをして、一度だけこちらを振り返った。

 琥珀色の目が、夕闇の中で、やさしく光っていた。

 それから猫は、長い尻尾をゆらりと揺らしながら、土手の向こうへ歩いていった。堂々とした、ゆっくりとした足取りだった。

 残された私は、しばらくベンチに座ったまま、膝に残るぬくもりを感じていた。

 立ち上がると、胸のあたりが、不思議と軽くなっていた。

 秋の夕焼けは、毎日どこかで、誰かの帰り道を照らしている。川面は、それをそっと映して、また明日の空を待っている。

 帰り道、私は何度か振り返った。土手の上には、もう猫の姿はなかった。ただ、藍色の空の下で、川が静かに光っていた。

 あたたかな毛並みの感触を、手のひらにまだ覚えている。

 そんな夕暮れが、世界には、ちゃんとある。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


癒される秋のノダケの咲く野原とマンチカンという猫

癒される秋のノダケの咲く野原とマンチカンという猫

 駅から歩いて二十分、舗装が途切れたところから先は、草の匂いの道になる。

その日、私は仕事の疲れを持て余したまま、ふらりと遠回りをしていた。スマートフォンの通知は鞄の底に沈めた。秋の午後の光は、夏の鋭さをすっかり手放して、蜂蜜を薄めたような色をしている。

野原は、道の先でひらけていた。

背の高い草のあいだに、白い花が点々と浮かんでいる。ノダケだ。小さな花が集まって傘のように広がり、その上を風がゆっくりと撫でていく。茎の途中にはほのかに紫がかった色が差していて、遠くから見ると、野原全体が淡い霞をまとっているようだった。

私は道端の石に腰をおろした。

しばらくは何も考えなかった。考えないでいられることが、こんなにありがたいとは知らなかった。

そのとき、ノダケの傘がひとつ、不自然に揺れた。

風ではない。風は右から吹いているのに、揺れは左から右へ、ゆっくりと近づいてくる。私は息をひそめて見守った。白い花の波がかき分けられ、やがて、ひょこりと小さな頭が現れた。

猫だった。

淡い茶色の毛に、白いくつ下をはいたような足。ふわりと丸い顔の下から伸びる体は、びっくりするほど短い脚で支えられている。マンチカンだ、と思った。

猫は草のなかで立ち止まり、私をじっと見た。琥珀色の目だった。警戒しているというより、ここは自分の庭なのだけれど、あなたはお客さんですか、と尋ねているように見えた。

「お邪魔してます」

思わず声に出すと、猫は短くひとつ、鼻を鳴らした。それから、短い脚をちょこちょこと動かして、ノダケの茎のあいだをまっすぐに歩いてきた。

背の高い草に隠れては現れ、隠れては現れる。そのたびに、白い花の傘がふわりと揺れる。まるで、草の海を小さな舟が進んでくるみたいだった。

猫は私の足もとまで来ると、石のまわりを一周して、それから当たり前のような顔で、私の隣の日だまりに丸くなった。

触れてもいいのか分からず、私はそっと手の甲を差し出した。猫は少しだけ鼻先を近づけ、確かめるように匂いをかいで、それから頬をこすりつけた。ひんやりした秋の空気のなかで、そこだけが驚くほど温かかった。

遠くで、鳥が鳴いた。

ノダケの花の上を、小さな虫が行ったり来たりしている。傾きはじめた日差しが、草の穂先を金色に縁どっていく。猫の背中は、呼吸にあわせてゆっくりと上下していた。

ふと、胸のなかで固まっていたものが、ほどけていることに気づいた。

今日の失敗も、言えなかった言葉も、明日の予定も、なくなったわけではない。ただ、この野原の広さのなかでは、どれもずいぶん小さく見えた。猫は何も言わない。慰めも、助言もしない。ただそこにいて、温かい。それだけのことが、どんな言葉よりも効いた。

どれくらい時間が過ぎただろう。

空の端が、柿の実の色に染まりはじめた。風が少し冷たくなって、ノダケの白が、夕暮れの青に溶けていく。

猫が不意に顔を上げた。耳がぴくりと動く。遠くのほうから、誰かを呼ぶような声が聞こえた気がした。この子の帰る家が、この野原の向こうにあるのかもしれない。

猫は立ち上がり、ぐうんと背中を伸ばした。短い脚で、それでもしっかりと土を踏みしめて。それから一度だけ私を振り返り、琥珀色の目を細めると、白い花の海のなかへ歩いていった。

ノダケの傘が、ひとつ、またひとつ、静かに揺れる。

その揺れが見えなくなるまで、私は石に座ったまま見送っていた。

立ち上がると、膝のあたりに草の種がいくつもついていた。払い落とそうとして、少し迷って、そのままにした。

帰り道の足取りは、来たときよりずっと軽かった。鞄の底のスマートフォンは、まだ沈めたままにしておいた。

秋の野原には、名前を知らなくても、そっと人を休ませてくれる場所がある。白い花と、風と、短い脚で歩いてくる小さな隣人と。

そんな午後が、誰の日常にも、ひとつくらいあっていい。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください