秋の夜は、昼間よりも少しだけ音が遠くなる。
仕事帰りのバスを一つ手前で降りたのは、特に理由があったわけではなかった。ただ、窓の外から流れ込んできた風が、いつもより甘かったのだ。ドアが開いた瞬間、その香りがふっと頬に触れた。
金木犀だった。
駅へ続く大通りを背にして、住宅街の坂道を上っていく。街灯は等間隔に並んでいるけれど、どれも少し頼りない橙色で、足元だけをやさしく照らしている。道の両側の庭先から、金木犀の枝が塀を越えて張り出していた。小さな花が、夜の闇の中でも星屑みたいにこぼれている。
深く息を吸う。
肺の奥まで、秋が入ってくる。昼間に抱えていた細かな心配ごとが、息と一緒にほどけていくような気がした。
坂の途中、ひときわ大きな金木犀の木がある家の前で、私は足を止めた。
塀の上に、何かがいる。
最初は、誰かが置いていったクッションかと思った。けれど、街灯の光を受けて、その輪郭がゆっくりと動いた。ふさふさの長い毛、耳の先にちょんと立つ飾り毛、そして、驚くほど立派な尻尾。
メインクーンだった。
それも、私が知っている猫の二倍はありそうな、堂々とした体格の。
彼は塀の上で、まるで王様のように座っていた。琥珀色の瞳が、私をまっすぐに見下ろしている。逃げるでもなく、近づくでもなく、ただ「ああ、来たのか」とでも言うように、ゆっくりとまばたきをした。
猫の「ゆっくりしたまばたき」は、信頼のしるしだと聞いたことがある。
私も、できるだけゆっくりと、まばたきを返してみた。
すると彼は、小さく「ふるる」と喉を鳴らして、塀の上からひらりと降りてきた。その動きは、あの大きな体からは想像できないほど静かだった。足音ひとつしない。
彼は私の足元まで来ると、少しだけ首をかしげてから、坂の上へと歩き出した。
数歩進んで、振り返る。
――ついておいで。
そう言われた気がして、私は笑ってしまった。猫に案内される夜なんて、悪くない。
並んで坂を上る。いや、正確には、彼が半歩先を歩き、私がその後ろをついていく。長い尻尾がゆらゆらと揺れて、金木犀の花びらが一つ、その背中に舞い降りた。彼は気にする様子もない。
どこかの家の窓から、夕食の食器が触れ合う音がかすかに聞こえた。遠くで電車が走る音。虫の声は、もう少なくなっている。それでも、ひとつふたつ、名残のように鈴虫が鳴いていた。
坂の頂上に着くと、急に視界がひらけた。
小さな広場のような場所があって、古いベンチがひとつ。その向こうに、街の灯りが広がっている。さっきまで自分がいた駅前も、ここからは小さな光の粒にしか見えなかった。
メインクーンは、当たり前のようにベンチへ飛び乗り、端のほうに丸くなった。そして私を見て、空いている場所を前足でぽんぽんと叩いた。
「……座っていいの?」
返事の代わりに、また「ふるる」。
私はベンチに腰を下ろした。木の座面が、ほんのりと冷たい。けれど、隣に伝わってくる体温が、それを帳消しにしてくれる。大きな猫は、ふわふわの毛の中にあたたかさを蓄えていた。
ここにも、金木犀の香りが届いている。
風が吹くたびに、甘い匂いが濃くなったり薄くなったりする。まるで、秋が呼吸をしているみたいだ。
私は、ずっと忘れていたことを思い出していた。
子どものころ、金木犀が咲くと、母が決まって言っていた。
「ほら、秋が来たよ。急がなくていいんだよ」
あの頃の私は、その言葉の意味がよく分からなかった。けれど今なら、少しだけ分かる気がする。
急がなくていい。
全部を今日のうちに片づけなくていい。うまくやれなかった日があっても、金木犀はちゃんと毎年咲く。季節は、私の出来不出来とは関係なく、やさしく巡っていく。
隣で、メインクーンが大きなあくびをした。小さな牙と、ざらりとした薄桃色の舌が見えた。それから彼は、前足に顎をのせて、ゆっくりと目を閉じた。
その寝顔を見ていたら、胸の奥にたまっていた固いものが、すうっと溶けていった。
どれくらい、そうしていただろう。
街の灯りが一つ、また一つと消えていき、空の星がすこしずつ数を増やしていく。冷えてきた夜気の中で、金木犀の香りだけが、変わらずそこにあった。
やがて私は、静かに立ち上がった。
「そろそろ帰るね」
小声で言うと、彼は片目だけをうっすら開けて、尻尾の先をぱたりと一度だけ振った。
さよならの代わりの、小さな合図。
帰り道、坂を下りながら、私は何度も振り返った。ベンチの上の大きな影は、もう丸い毛玉のようにしか見えない。それでも、風に乗って、あの甘い香りが背中を追いかけてくる。
明日もきっと、忙しい一日が待っている。
それでも大丈夫な気がした。
秋の夜の坂道と、金木犀の香りと、大きなやさしい猫が、私の中に小さな灯りをひとつ、そっと置いていってくれたから。
――また来よう。
金木犀が散ってしまう、その前に。
もし、あなたの住む町のどこかで甘い香りがふわりと漂ってきたら、少しだけ足を止めてみてください。急がなくていい、と秋が教えてくれているのかもしれません。
今夜が、あなたにとって穏やかな夜になりますように。
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