夜の海は、昼の海とはまるで別の生き物のように静かだった。
空には、雲ひとつない夜に浮かぶ大きな月。その光は水面にまっすぐな道をつくり、波が寄せては返すたびに、銀色の欠片になってゆらゆらと砕けていく。
防波堤の先に、ひとつの影があった。
メインクーンという猫だ。大きな体に、ふさふさの長い毛。首のまわりのたてがみのような毛が、潮風にやわらかく揺れている。耳の先の房毛が、月の光を受けて、ほんのりと白く縁どられていた。
猫は、じっと海を見ていた。
鳴きもせず、動きもせず、ただ前足をそろえて座っている。琥珀色の瞳には、月と波が小さく映りこんでいた。
ざあ、と波が寄せる。
すう、と波が引く。
その音は、とてもゆっくりだった。急ぐものがひとつもない夜の中で、海だけが一定の呼吸を続けている。猫の耳が、波の音にあわせて、ほんの少しだけ動いた。
わたしは少し離れた場所に腰をおろして、その背中をながめていた。
一日のあいだに、いろいろなことがあった。返しそびれた連絡のこと。うまく言えなかったひとこと。明日の予定と、その次の日の予定。頭の中には、小さなざわめきがいくつも残っていた。
けれど、あの大きな背中を見ていると、そのざわめきが、ひとつずつ静かになっていく気がした。
猫は、何かを考えているのだろうか。
それとも、何も考えていないのだろうか。
どちらでもいいように思えた。ただ波を見つめるということが、それだけで、ひとつの大切な仕事のように見えたからだ。
しばらくして、猫がゆっくりとこちらを振り向いた。
月の光が、ひげの先を細い糸のように光らせる。目が合うと、猫はひとつ、ゆっくりとまばたきをした。それは「ここにいていいよ」と言われたようなまばたきだった。
それからまた、猫は海のほうへ顔をもどした。
わたしも、同じ方向を見た。
銀色の道は、水平線のほうへ細くのびている。その先には、夜の空と海のあいだの、とても深い青色があった。どこまでが海で、どこからが空なのか、もう見分けがつかない。
波の音。潮のにおい。ほほをなでる冷たすぎない風。
ふと気づくと、わたしの呼吸も、波と同じくらいゆっくりになっていた。
吸って、吐いて。
寄せて、返して。
月は少しずつ高い場所へのぼっていき、海の道はその位置を、そっと変えていく。猫は、それでも動かなかった。まるで、この夜の景色の一部になったみたいに。
わたしは思う。
癒しというのは、何か特別なものを手に入れることではなくて、何もしなくていい時間を、誰かと、あるいは一匹と、静かに分け合うことなのかもしれない。
遠くで、波がひとつ大きく砕けた。
猫のたてがみが、ふわりと揺れた。
月明かりの海は、今夜もおだやかに、ただそこにあった。そしてその前には、波を見つめつづける、ひとつの大きな背中があった。
それだけで、この夜は、十分にやさしかった。
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