2026年9月16日水曜日

雨上がりの黒猫

雨上がりの黒猫

雨がやんだ。

後に残ったのは、乾き始めたアスファルトと、いくつかの水たまりと、そこに映る、少しずつ晴れていく空だけだった。

窓の外を見ると、灰色だった空にわずかな青が滲んでいた。アスファルトはまだ濡れて黒く光り、街路樹の葉先からは、思い出したように水滴がぽつりぽつりと落ちている。

その水たまりのそばに、一匹の黒猫がいた。

毛は雨に打たれて艶やかに濡れ、まるで濡れた墨のような色をしていた。前脚を揃えて座り、じっと水面を見つめている。そこに映っているのは、割れた空と、猫自身のぼんやりとした輪郭だった。

黒猫は少しの間、微動だにしなかった。まるで、雨が過ぎ去ったあとの静けさを味わっているかのように。

やがて、どこかで小鳥が鳴いた。黒猫の耳が、ぴくりと動く。それだけで、さっきまでの静止した絵のような時間が、また動き出した。

黒猫はゆっくりと立ち上がり、前脚をひとつ、水たまりの縁に浸した。冷たさに少し驚いたのか、耳を後ろに倒し、すぐに脚を引っ込める。そしてまた、何事もなかったかのように毛づくろいを始めた。

雲の切れ間から、光が一筋差し込んできた。それは水たまりの表面に落ち、細かな波紋のように光を散らした。黒猫はその眩しさに目を細め、しばらくそこにとどまっていたが、やがて踵を返し、濡れたアスファルトの上を静かに歩き出した。

一歩ごとに、小さな足跡が残る。だがそれもすぐに、周りの水気に紛れて見えなくなってしまう。

黒猫が向かう先には、ちょうど虹の切れ端のようなものが、ビルとビルの隙間に見えていた。それが本物の虹なのか、それとも濡れたガラスが反射しているだけなのか、確かめる者は誰もいない。

黒猫だけが、それを知っていた。

雨上がりの空気は、どこか特別な匂いがする。土の匂い、緑の匂い、そして何か、言葉にできない静けさの匂い。

黒猫はその匂いを吸い込むように、小さく鼻を上に向けた。そして、また何事もなかったかのように、路地の奥へと消えていった。

後に残ったのは、乾き始めたアスファルトと、いくつかの水たまりと、そこに映る、少しずつ晴れていく空だけだった。


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ウリクサとメインクーン

ウリクサとメインクーン

庭の隅、誰も気に留めないような日陰に、その花は咲いていた。ウリクサ。薄紫色の小さな花で、地面に這うように広がり、踏まれても踏まれても、また同じ場所に顔を出す。

その庭に住む大きな猫は、メインクーンだった。ふさふさとした尻尾と、堂々とした体つき。近所の子どもたちからは「森の主」と呼ばれていたが、当の本人はいたって呑気で、日がな一日、日向と日陰を行ったり来たりしながら過ごしていた。

ある朝、メインクーンはいつものように庭を一周していた。石畳の隙間、植木鉢の裏、物置の影。決まった順路を、決まった速度で歩く。それが彼の日課だった。

そして、いつもの日陰の角を曲がったところで、ふと足を止めた。

そこに、ウリクサが咲いていた。

別に珍しいものではない。去年もそこに咲いていたし、一昨年もそうだった。だが、その日はなぜか、彼はしばらくその場に座り込んで、小さな花をじっと見つめていた。

風が吹くたびに、ウリクサの花びらが揺れる。メインクーンの長い毛も、同じ風に揺れる。まるで示し合わせたように、二つの小さな動きが庭の静けさの中で重なっていた。

猫に花の名前などわからない。それでも、彼はその場所を気に入っているようだった。誰かに教えられたわけでもないのに、暑い日も、風の強い日も、彼は決まってその日陰の角に立ち寄り、少しの間だけ腰を下ろす。まるでそこだけ、時間の流れ方が違うとでもいうように。

ウリクサの方も、踏まれることを恐れているようには見えなかった。大きな体がすぐそばに座っても、茎を伏せることもなく、ただ静かに、いつも通りの姿でそこにあり続けた。

庭を通りかかった家の人が、ふとその光景に気づいて足を止めることがあった。大きな猫が、地面すれすれに咲く小さな花のそばで、目を細めて座っている。何をするでもなく、ただそこにいるだけの二つの存在。

声をかけようとして、やめた。

何か、声をかけてはいけないような気がしたのだ。

季節が変わり、ウリクサの花は少しずつ数を減らしていった。それでも、根はそこに残り、また次の年、同じ場所から芽を出すことだろう。メインクーンは相変わらず、日陰の角を通るたびに、そこで一息ついていた。花があってもなくても、彼にとってその場所は、庭の中でいちばん落ち着く場所であり続けた。

誰に見せるためでもない。誰かに気づいてもらうためでもない。

ただ、そこに咲いて、そこに座る。それだけで十分だった。

小さな花と、大きな猫。この庭の片隅では、今日もそんな静かな時間が流れている。


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イボクサとマンチカン

イボクサとマンチカン

田んぼのあぜ道に、小さな薄紫色の花が群れて咲いていた。イボクサだった。稲刈りを終えたばかりの田んぼの隅、湿った土の上にひっそりと寄り添うように咲くその花は、誰に気づかれることもなく、静かに秋の光を浴びていた。

そのあぜ道を、一匹のマンチカンが歩いていた。短い脚で、けれど迷いのない足取りで、水路の縁を辿るように進んでいく。灰色と白のまだら模様の毛並みが、傾きはじめた午後の陽射しを受けて、やわらかく輝いていた。

マンチカンはイボクサの群れの前で立ち止まった。花びらの先にとまった小さな水滴が、風もないのに時折こぼれ落ちる。その音がかすかに聞こえるほど、あたりは静かだった。

猫は鼻を近づけ、そっと匂いを嗅いだ。花はくすぐったそうに揺れたが、逃げることはしなかった。まるで、この短い脚の訪問者を待っていたかのように。

「お前もここが好きなのか」

そう声をかけたのは、あぜ道の向こうからやってきた老人だった。長靴を履き、片手に鎌を持っている。稲刈りの後片付けに来たのだろう。マンチカンは老人を一瞥すると、また花に視線を戻した。

老人はしゃがみこみ、イボクサの群れを眺めた。「この花はな、田んぼが終わる合図なんだ。稲を刈り終えた後にしか、こうして咲かない」

猫には言葉の意味など分からなかったはずだが、まるで頷くように、ゆっくりと尻尾を揺らした。

夕暮れが近づくと、田んぼの水路に西日が反射し、あたり一面が淡い橙色に染まっていった。イボクサの薄紫は、その光の中でいっそう際立って見えた。マンチカンは水路の縁に座り込み、流れる水面をじっと見つめていた。魚がいるわけでもない。ただ、光と影が水の上で揺れ動くのを、飽きることなく眺めていた。

老人は鎌をしまい、腰を伸ばした。「また来年、ここで会おう」

そう呟いて、あぜ道を戻っていった。マンチカンはその後ろ姿を見送ることもなく、相変わらず水面を見つめ続けていた。

やがて日が沈み、あたりが藍色に包まれる頃、マンチカンはようやく腰を上げた。イボクサの花はもう闇に溶け込み、輪郭さえ見えなくなっていた。それでも猫は、花が咲いていた場所に一度だけ振り返り、それから静かに歩き去っていった。

翌朝、同じあぜ道に朝露が降りていた。イボクサの花びらには小さな水玉が並び、朝日を受けてきらきらと光っていた。そしてその傍らには、小さな肉球の跡が、土の上にひっそりと残されていた。


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黒猫の雨宿り

黒猫の雨宿り

空が急に色を変えたのは、昼過ぎのことだった。

さっきまで青かった空に、いつの間にか灰色の雲が広がっていて、遠くでかすかに雷の音がする。商店街の軒先に、一匹の黒猫がちょこんと座っていた。

その猫は、雨が降り出す少し前からそこにいた。まるで、これから何が起こるかを知っていたかのように、じっと空を見上げていたのだ。

ぽつり、ぽつりと、アスファルトに黒い染みが増えていく。やがてそれは本降りになり、商店街のシャッターや看板を叩く音が、あたり一面に響き渡った。

黒猫は慌てる様子もなく、軒先の一番奥まで移動すると、体をぎゅっと丸めた。尻尾を自分の体に巻きつけて、雨粒がかからないぎりぎりの場所を見つけ出す。その仕草は、何度もこうしてきたことを物語っているようだった。

通りを歩いていた人たちが、傘をさしながら足早に通り過ぎていく。誰も黒猫には気づかない。けれど、黒猫の方は違った。行き交う人々の足音や、傘のしずくが跳ねる様子を、金色の目でひとつひとつ追いかけていた。

しばらくすると、一人の老婦人が近くの花屋の軒先に駆け込んできた。息を切らしながら、濡れた肩を手で払っている。ふと視線を落とすと、そこに丸まった黒猫がいた。

「あら、あなたも雨宿り?」

老婦人は小さく笑うと、持っていた買い物袋からハンカチを取り出し、自分の隣にそっと置いた。黒猫はしばらくそれを見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がり、ハンカチの上に体を移した。

二人——いや、一人と一匹は、それからしばらく無言のまま、雨が作り出す灰色の景色を眺めていた。雨脚は強くなったり弱くなったりを繰り返しながら、商店街の匂いを少しずつ変えていく。土と、濡れたアスファルトと、どこかの店から漂う出汁の香り。

「こんな日は、家でゆっくりするのが一番ね」

老婦人がそうつぶやいた時、黒猫は小さくあくびをした。まるで同意するかのように。

雨は一時間ほど降り続いた後、急に勢いを弱めた。雲の切れ間から、薄い光が差し込み始める。老婦人は空を見上げて、「あがりそうね」とつぶやくと、荷物を持ち直した。

「じゃあね、また会えたら」

そう言い残して、老婦人は歩き出した。黒猫はその後ろ姿をしばらく見送っていたが、やがて自分も軒先から一歩、二歩と踏み出した。地面はまだ濡れていたけれど、雨はもうほとんど止んでいた。

水たまりに映る空は、さっきまでの灰色が嘘のように、淡いオレンジ色に染まり始めていた。黒猫はその水たまりの縁を、まるで踊るように器用に避けながら、商店街の奥へと歩いていく。

雨上がりの空気は、どこか特別な匂いがする。それは、何かが終わり、何かが始まる合図のような匂いだった。

黒猫の姿は、やがて路地の角を曲がって見えなくなった。残されたのは、水たまりに映る夕暮れの空と、静かになった商店街だけだった。

でも、きっとまた雨が降れば、あの黒猫はどこかの軒先で、同じように雨宿りをしているのだろう。誰かが通りかかるのを、静かに待ちながら。


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メインクーンという猫とボール

メインクーンという猫とボール

古い木造アパートの二階、南向きの窓辺に、その巨大な猫は寝そべっていた。

名前はレオ。メインクーンという種類の猫で、体は普通の猫の一・五倍はある。ふさふさとした尻尾は、まるで狐のように太く長い。飼い主の佐伯さんは、この猫を保護猫の譲渡会で引き取ってから、もう三年になる。

その日の午後、佐伯さんは掃除中にクローゼットの奥から、古いテニスボールを見つけた。子供の頃に使っていたもので、色あせた黄緑色の毛羽が、あちこち擦り切れている。捨てようかと思ったが、ふと気まぐれで、床に転がしてみた。

コロン、コロン。

その音に、レオの耳がぴくりと動いた。それまで微動だにしなかった巨体が、ゆっくりと頭をもたげる。琥珀色の瞳が、床を転がっていくボールを追いかけていた。

佐伯さんは思わず笑ってしまった。「レオ、興味あるの?」

返事の代わりに、レオはのそりと立ち上がった。普段は威厳たっぷりに歩くこの猫が、今は明らかに何かを狙う顔つきになっている。腰を落とし、耳を前に向け、じっとボールの行方を見つめる。

佐伯さんがもう一度、軽くボールを転がした。今度は少し勢いをつけて。

その瞬間、レオが動いた。大きな体からは想像できないほどしなやかに、床を蹴って飛び出す。前足でボールを押さえ込み、そのまま横に転がりながらじゃれつく。爪を出さず、肉球だけでそっと叩く仕草は、意外なほど繊細だった。

ボールは部屋の隅、本棚の下に転がり込んでしまった。レオは狭い隙間に顔を突っ込み、前足を伸ばして必死に掻き出そうとする。太い尻尾だけが、部屋の真ん中でゆらゆらと揺れていた。

「そんなところまで追いかけて」

佐伯さんはしゃがみ込み、本棚の下からボールを取り出してやった。差し出すと、レオはひょいと顔を上げ、まるで催促するような目で佐伯さんを見つめる。

「もう一回?」

問いかけると、レオは小さく「ンー」と鳴いた。返事のつもりなのかもしれない。

それから小一時間、二人は同じ遊びを繰り返した。転がす、追いかける、捕まえる、また転がす。レオは何度も同じ動きに全力で挑み、そのたびに満足そうに喉を鳴らした。大きな体を丸めてボールを抱え込む姿は、まるで小さな子猫のようだった。

やがて日が傾き、部屋の中がオレンジ色に染まる頃、レオはようやく遊びに満足したのか、ボールを前足の間に挟んだまま、床にごろりと寝転がった。荒い息をつきながらも、その表情はどこか満ち足りているように見える。

佐伯さんはその隣に座り、大きな体をそっと撫でた。ふわふわの被毛の下から、規則正しい呼吸が伝わってくる。

「気に入ったみたいだね、そのボール」

レオは薄目を開けて一瞬こちらを見たが、すぐにまた瞼を閉じた。古いテニスボールは、いつのまにか彼のお気に入りのおもちゃになっていた。

窓の外では、夕焼けが空をゆっくりと染めていく。部屋の中には、大きな猫の寝息と、小さなボールが転がった名残の静けさだけが残っていた。


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パソコンとマンチカンという猫

パソコンとマンチカンという猫

 夜の十一時、部屋には液晶の光だけが灯っていた。

 僕はノートパソコンの前に座り、キーボードを叩き続けていた。締め切りの近い原稿と、まだ半分も片付いていない資料。マグカップの中のコーヒーはとうに冷めていて、口をつける気にもならない。

 そのとき、机の下から小さな影が這い出してきた。短い脚で、いつも通り不器用に体を伸ばしながら、マンチカンのモモが顔を出す。

「なんだ、起きてたのか」

 声をかけると、モモは返事の代わりに大きなあくびをひとつして、それから机の脚をよじ登る素振りを見せた。もちろん、その短い脚では登れるはずもなく、二回ほど失敗してから、諦めたように床に座り込む。

 僕は苦笑いをして、椅子を少し引いた。膝の上に乗せてやると、モモは満足そうに丸くなり、こちらを見上げてから、また目を閉じた。

 キーボードを打つ音だけが部屋に響く。カタ、カタ、という乾いた音に混じって、モモの喉が小さく鳴る音が聞こえてきた。ゴロゴロという低い震動が、膝の上から伝わってくる。

 しばらくすると、モモが急に顔を上げた。何かに気づいたように、じっと画面を見つめている。

「なに、気になるのか」

 試しにカーソルを動かしてみると、案の定、モモの目がその動きを追い始めた。左に動かせば左を見て、右に動かせば右を見る。まるで小さな観客のようだった。

 僕は思わず笑ってしまった。締め切りに追われている真っ最中だというのに、こんな些細なことで気持ちが緩む。モモは画面の中の小さな矢印を、まるで獲物であるかのように前足でそっと払おうとした。もちろん、ガラスの向こうには届かない。それでも本人は真剣だった。

 パソコンの排熱ファンが低く唸り出す。作業が重くなってきた証拠だ。モモはその音にも反応して、耳をぴくりと動かした。彼女にとっては、この機械の立てる音のひとつひとつが、意味のある何かなのかもしれない。

 しばらく画面を睨んでいたモモだったが、やがて興味を失ったように再び丸くなった。規則正しい寝息が、キーボードの音に重なっていく。

 僕は片手でモモの背中をそっと撫でながら、もう片方の手で作業を続けた。器用とは言えない体勢だったが、不思議と集中力は途切れなかった。むしろ、この重みと温度が、疲れた頭にちょうどいい重石になっているようだった。

 時計の針は零時を回っていた。まだ終わらない原稿を前に、僕は小さくため息をつく。けれど、膝の上の温もりのおかげか、その息はさっきよりも少し軽かった。

 モモが寝返りを打ち、片方の短い前足がキーボードの端にちょんと乗った。画面に意味不明な文字列が並ぶ。

「おいおい、勝手に書くなよ」

 小声でつぶやきながら、僕はその文字を消していく。文句を言いながらも、口元は緩んでいた。

 窓の外はすっかり静まり返り、聞こえるのはパソコンのファンの音と、モモの寝息、そして時折鳴るキーボードの音だけだった。締め切りはまだ先にある。けれど今夜だけは、この小さな重みと共に、もう少しだけこの時間に浸っていたいと思った。


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青空が好きな黒猫

青空が好きな黒猫

その黒猫は、いつも屋根の上にいた。

商店街の外れにある、古い時計店の屋根。錆びついた看板の陰から、じっと空を見上げているのが日課だった。誰かがそれに気づいたのは、もうずいぶん前のことだ。

「また空を見てるね」

通りがかりの豆腐屋の主人が、毎朝そう声をかける。黒猫は返事をしない。ただ耳を少しだけ動かして、それが挨拶の代わりだった。

黒猫が青空を好きになったのには、理由があった気がする。誰も知らないけれど、きっと理由があった。雨の日に生まれた子猫だったからかもしれないし、初めて目を開けたときに見えたのが、たまたま晴れ間だったからかもしれない。猫自身も、もう覚えていないようだった。

風の強い日も、黒猫は屋根から動かなかった。しっぽの毛が乱れても、目を細めて空を追いかけていた。まるで、雲の向こうに何か約束したものがあるみたいに。

夕方になると、空はゆっくりと色を変えていく。青が薄れて、橙が滲んで、やがて藍色に沈んでいく。その瞬間だけ、黒猫は少しだけ切なそうな顔をする。またしても、明日まで待たなければならないから。

季節が変わっても、屋根の上の風景は変わらなかった。桜の花びらが屋根を滑り落ちる春も、蝉の声が響く夏も、金木犀の香りがただよう秋も、黒猫はそこにいて、同じように青を見上げていた。

ある日、時計店の店主がふと呟いた。

「お前は、そんなに空が好きなのか」

黒猫は答えなかった。ただ、いつものように目を細めて、青い空の奥のほうを見つめていた。まるでそこに、自分だけが知っている何かがあるかのように。

それから何年経っても、屋根の上には黒猫がいた。時計の針が止まっても、看板の字が色あせても、その視線だけは変わらなかった。

青空が好きな黒猫は、今日もどこかで、静かに空を見上げているのかもしれない。


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雨の日とメインクーンという猫

雨の日とメインクーンという猫

雨の日の匂いがする。土と、濡れたアスファルトと、少しだけ古い本のページの匂いが混ざったような、あの独特な空気。

窓の外では朝から雨が降り続いていた。灰色の空が街全体を覆い、通りを歩く人々は傘を差して足早に過ぎていく。そんな中、古びた喫茶店の窓辺に、一匹の大きな猫が座っていた。

メインクーンという猫種の彼は、この店の看板猫だった。ふさふさとした長い毛並みと、大きな耳の先に生えた飾り毛が特徴的で、体つきは普通の猫よりもひとまわり大きい。まるで小さな森の主のような風格を漂わせながら、彼はガラス越しに雨の街を眺めていた。

店主の老人は、カウンターの奥でゆっくりとコーヒー豆を挽いていた。豆が砕ける音と、雨粒が窓を叩く音が、静かな店内に規則正しいリズムを刻んでいる。

「今日もよく降るなあ」

老人がぽつりと呟くと、メインクーンはちらりと視線を向け、また窓の外に戻した。彼はいつもそうだった。人の言葉に反応はするが、多くを語らない。ただ静かに、世界を観察しているだけ。

雨の日、店を訪れる客は少ない。だからこそ、この猫にとって雨の日は特別だった。普段は子供たちに撫でられたり、常連客に構われたりして忙しい彼も、雨の日だけは自分のペースで過ごすことができる。

窓辺の陽だまり――いや、この日は陽ざしなどどこにもなかったが、それでも彼はいつもの定位置に座り続けた。雨に濡れた窓ガラスに映る自分の姿を、まるで初めて見るもののように見つめている。

ふと、一羽の小鳥が軒先に避難してきた。羽根を震わせながら雨宿りをするその姿に、メインクーンはわずかに耳を動かした。追いかけることもなく、ただじっと見つめる。まるで「大変だったね」とでも言うように。

老人が淹れたコーヒーの湯気が、店内にふわりと立ち上る。その香ばしい匂いに誘われるように、メインクーンはようやく窓辺を離れ、カウンターの下にある自分専用のクッションへと歩いていった。歩くたびに、大きな体がゆったりと揺れる。

「お前も一休みか」

老人が声をかけると、メインクーンはくるりと丸くなり、目を閉じた。雨音が子守唄のように店内に響く。

外の世界は雨に濡れ、色を失ったように静かだったが、この小さな喫茶店の中だけは、時間がゆっくりと、優しく流れていた。

雨の日には雨の日にしかない、静かな幸せがある。そのことを、この一匹の猫は誰よりもよく知っているようだった。

やがて雨脚が弱まり、窓の外にわずかな明るさが差し込み始めた頃、メインクーンは薄目を開けて、また新しい景色を眺め始めるのだった。


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2026年9月15日火曜日

イヌタデとマンチカン

イヌタデとマンチカン

秋の風が少しだけ冷たくなった頃、空き地の隅にイヌタデの群れが咲いていた。小さな赤紫の花が、稲穂のように連なって垂れている。誰かが植えたわけでもない、ただそこに根を張って咲いているだけの花だった。

その空き地に、まるとした体をしたマンチカンが一匹、ゆっくりと歩いてきた。短い脚で草の間をかき分けながら、彼は何かを探すように鼻を低くしていた。

イヌタデの花は、風が吹くたびにさらさらと音を立てる。マンチカンはその音に気づき、一度立ち止まった。丸い金色の目が、花の揺れる方向をじっと見つめる。

彼はゆっくりと近づき、花の茂みに顔を埋めた。ひげの先が花びらに触れて、くすぐったそうに小さく鼻をひくつかせる。イヌタデの花は「アカマンマ」と呼ばれることもある。昔の子どもたちが、この花を赤飯に見立てて遊んだからだという。マンチカンにはそんな由来は分からないが、彼はただ、この小さな花の群れが気に入ったようだった。

しばらくすると、マンチカンは花の間にすとんと座り込んだ。低い視線から見ると、イヌタデはまるで小さな森のように高く見える。赤紫の粒が風に揺れ、彼の頭の上でちらちらと光を反射していた。

誰も見ていない空き地で、猫と花だけが、静かに秋の午後を過ごしていた。遠くから聞こえる電車の音も、子どもたちの声も、ここまでは届かない。ただ風とイヌタデと、マンチカンの丸い背中があるだけだった。

やがて日が傾き始めると、マンチカンはゆっくりと体を起こした。花の間から出るとき、彼の白い足先に赤紫の花びらが一枚だけ、そっと乗っていた。それを気にする様子もなく、彼は来た道をゆっくりと戻っていく。

イヌタデはまた静かに揺れながら、次に誰かが訪れる日を待っているようだった。


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夕暮れの公園と黒猫

夕暮れの公園と黒猫

夏の終わりの風が、少しだけ涼しさを含んで頬をかすめる。公園のベンチに座ると、砂利道の向こうから小さな足音が聞こえてきた。

黒猫だった。

夕暮れの光がオレンジ色に染まり、木々の影が長く伸びる時間。黒猫はゆっくりと歩きながら、時々足を止めては、風に揺れる草の匂いを確かめるように鼻を近づけていた。誰かに飼われているのか、それとも野良なのか。首輪はついていないけれど、その落ち着いた歩き方には、この場所に何度も通い慣れた者だけが持つ余裕があった。

ブランコの下を通り過ぎ、噴水のそばで一度だけ立ち止まる。水音に耳を澄ませているようだった。しばらくすると、飽きたように尻尾をひとつ振って、また歩き出す。

私がベンチに座っているのに気づいたのは、砂場のあたりまで来たときだった。黒猫はふと顔を上げ、こちらをじっと見つめた。金色の瞳が、沈んでいく夕日を映して光っている。しばらくの間、二匹――いや、猫と人間――は、何も言葉を交わさずにお互いを見つめ合っていた。

やがて黒猫は興味を失ったように視線を外し、ベンチの下に潜り込んで丸くなった。まるでそこが自分の場所だと決めているかのように。私はそれ以上近づくことはせず、ただ隣に座っているような気持ちで、同じ夕焼けを眺めることにした。

空はだんだんと紫色に変わっていく。街灯がひとつ、またひとつと灯り始め、公園全体がやわらかな光に包まれていく。ベンチの下からは、黒猫の小さな寝息のような気配が伝わってくる気がした。

一日の終わりに、こんな静かな時間があることを、私はこれまで気づかずに過ごしてきたのかもしれない。誰かと競うことも、何かを急ぐこともなく、ただ夕暮れの光と、隣にいる小さな命の存在を感じるだけの時間。

黒猫は結局、日が完全に落ちるまでそこにいた。そして最後の光が消える頃、静かに起き上がり、来た道とは違う方向へ歩いていった。振り返ることもなく、迷いのない足取りで。

私はしばらくその後ろ姿を見送ってから、自分もベンチを立った。今日という日の終わりに、こんな出会いがあったことを、少しだけ大切に胸にしまっておこうと思いながら。


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