夕焼けの最後のひとかけらが、遠い山の稜線に溶けていった。
昼のあいだ、ずっと陽を溜めこんでいた瓦は、まだほんのりとぬくかった。その屋根の上に、一匹のメインクーンが座っている。名前はレオン。年のわりに落ち着いた、大きな大きな猫だ。
胸元のふさふさした毛が、夜に変わりかけた風にそよいでいる。耳の先の飾り毛も、いっしょに揺れている。レオンは前足をきちんと揃えて、空を見上げていた。
この家に、レオンの一番好きな場所がある。二階の物干し台から、窓枠をひょいとまたいで上がれる、南向きの屋根。ここに来れば、町が全部見える。
遠くの踏切が、かん、かん、と鳴っている。そのあとに、電車の通り過ぎる音がゆっくり遠ざかっていった。どこかの台所から、炊きたてのご飯のにおいが流れてくる。路地の奥では、自転車のベルが一度だけ軽く鳴った。
昼間の町は、にぎやかだ。けれど日が沈んでしばらくすると、町は少しずつ声を落としていく。レオンは、その声の落ちていく時間がたまらなく好きだった。
空は、さっきまで茜色だったのに、いまは淡い紫になっている。紫は、だんだんと藍に近づいていく。空のいちばん高いところだけが、まだ薄く明るい。
レオンの琥珀色の瞳が、ゆっくりとまばたきをした。
そのときだった。
東の空の低いところに、小さな光がひとつ、ぽつりと灯った。
まるで、誰かがそっとマッチを擦ったみたいに。
レオンは、じっとそれを見つめた。尻尾の先が、瓦の上でほんの少しだけ揺れる。
光は、すぐには増えなかった。ひとつ灯ったあと、しばらくのあいだ、空はしんと静かだった。けれど、レオンは知っている。慌てなくていいことを。星は、ちゃんと順番に出てくる。いちばん最初の星が灯ったら、次の星は、すぐそこで出番を待っているのだ。
しばらくして、最初の星の隣に、もうひとつ。そのまた少しあとに、もうひとつ。
ひとつ、またひとつ。
まるで、夜がゆっくりと瞬きを覚えていくようだった。
屋根の下の窓から、あたたかい灯りがこぼれている。家の人が、夕食の片づけをしているのだろう。食器の触れ合うかすかな音が、瓦をつたって、とんとんと足の裏に届いてくる。
レオンは、その音が好きだった。自分の暮らしている家が、ちゃんと生きている音だから。
やがて、風がひとすじ、屋根の上を撫でていった。昼の名残のぬくもりと、夜の入り口の涼しさが、ちょうど半分ずつ混ざった風だった。レオンの長い毛が、ふわりと波打つ。
レオンは目を細めて、ごろん、と喉を鳴らした。
誰に聞かせるでもない、小さな小さな音。
ごろごろ、ごろごろ、と。
その音は、夜の空気に溶けて、屋根のむこうへ、ゆっくりと広がっていった。
星は、もう数えきれないほどになっていた。
空の端から端まで、細かな光が静かに瞬いている。ひとつひとつは小さいけれど、集まると、まるで空いっぱいに銀の砂を撒いたようだ。
レオンは、ゆっくりと腰を下ろし、前足を胸の下にしまった。香箱座りだ。あたたかい瓦の上で、体をまるくする。
今日という一日は、特別なことなど何もなかった。朝は日だまりで少し眠って、昼は窓辺で鳥を眺めて、夕方はごはんをもらった。ただそれだけの、ふつうの一日。
けれど、こうして日が沈んだあとの屋根の上に座っていると、そのふつうの一日が、ひとつ残らず愛おしく思えてくる。
何も起きなかったということは、何も失わなかったということだ。
そんなことを、レオンが考えたかどうかは、わからない。ただ、ゆっくりとまばたきをするたびに、まぶたの裏にも星が灯るように見えた。
下の窓の灯りが、ふっと小さくなった。家の人が、そろそろ眠る支度をはじめたのだろう。
もうすぐ、レオンも呼ばれる。「レオン、おいで」と、あたたかい声で。そうしたら、のっそりと立ち上がって、窓枠をまたいで、ふかふかの寝床に戻る。
けれど、それはもう少しあとでいい。
あと少しだけ。
星がもうひとつ、瞬いてからでいい。
夜の屋根の上で、メインクーンは静かに空を見上げていた。
町は眠りにつき、星は瞬き、世界はやさしく、ゆっくりと呼吸をしている。
今日も、いい一日だった。
そう言うように、レオンは、もう一度だけ、ゆっくりとまばたきをした。
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