十月の終わりが近づいた朝、川沿いの道には薄い霧が残っていた。
ミサキは古びた自転車を土手の脇に停めて、ゆっくりと河原へ降りていった。仕事が忙しくて、ずいぶん長いあいだ空をきちんと見上げていなかった気がする。今日は何も予定を入れず、ただ歩くために家を出てきたのだった。
草の匂いは、夏よりも少し乾いていた。石ころの間を縫うように、細い茎がいくつも風に揺れている。その先には、淡い桃色の花がぽつり、ぽつりと咲いていた。花びらの縁が糸のように細かく裂けた、繊細な花だった。
「カワラナデシコ……」
祖母の庭にも咲いていた花だ。秋の七草のひとつだと、幼いころに教わったことを思い出す。派手さはないのに、目を離せなくなる。しゃがみ込んで指先でそっと触れると、朝露が一粒、手の甲に転がり落ちた。
そのとき、背後で小さな音がした。
砂利を踏む、軽い足音。
振り返ると、河原の真ん中の平たい石の上に、一匹の猫が座っていた。淡いクリーム色の毛並みに、ふっくらとした頬。そして何より目を引いたのは、体に対してずいぶん短い脚だった。
「マンチカン……?」
猫は返事をするでもなく、丸い目でミサキをじっと見つめている。首輪はない。けれど毛並みは整っていて、野良にしては人を恐れる様子がなかった。
ミサキが立ち上がると、猫も立ち上がった。短い脚をちょこちょこと動かして、こちらへ歩いてくる。その歩き方が、なんだかおかしくて、愛らしくて、ミサキは思わず笑ってしまった。
「おはよう。あなたも散歩?」
猫は足もとまで来ると、ミサキの靴に鼻先をちょんと当てた。それから何事もなかったように、カワラナデシコの群れのほうへ歩いていく。
ミサキはあとを追った。
猫は花のそばでぴたりと止まると、後ろ脚で立ち上がるようにして、背伸びをした。風に揺れる花びらに、鼻をそっと近づける。短い脚のせいで、精一杯伸びても花には届かない。それでも諦めず、ふるふると前脚を宙にかいていた。
「届かないね」
ミサキは静かに笑って、猫の隣にしゃがんだ。
川面がきらりと光った。霧はいつのまにか晴れて、雲の切れ間から柔らかな陽射しが差し込んでいる。水音と、遠くで鳴くモズの声。それだけの世界だった。
猫は諦めたのか、ミサキの膝にひょいと前脚をかけた。抱き上げてほしいのかと思い、そっと持ち上げてやる。思ったよりも軽くて、あたたかい。喉から、ごろごろと小さな音が伝わってきた。
膝の上で丸くなった猫を撫でながら、ミサキは河原の景色をぼんやりと眺めた。
忙しさに追われていた日々のことが、ふしぎと遠く感じられる。焦らなくてもいいのだと、この花が教えてくれているようだった。誰に見られなくても、河原の片隅で、ちゃんと季節ごとに咲いている。
どのくらい時間が経っただろう。
猫がぴくりと耳を動かし、ミサキの膝から降りた。土手の上のほうから、誰かが呼ぶ声がかすかに聞こえる。
「……ムギー、ムギー」
猫は一度だけ振り返った。丸い目が、朝の光の中で琥珀色に輝いている。
「ムギっていうんだ」
ミサキが小さく手を振ると、猫は短い脚で軽やかに駆け出した。クリーム色の後ろ姿が、カワラナデシコの間をすり抜けて、土手の階段を登っていく。
やがて、その姿は見えなくなった。
ミサキはしばらく、その場に立ち尽くしていた。それから、深く息を吸った。冷たくて澄んだ空気が、胸のいちばん奥まで満ちていく。
「また来よう」
そう呟いて、彼女は自転車のほうへ歩き出した。
背中の向こうで、カワラナデシコの花が、やさしく風に揺れていた。
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