秋の夕暮れは、驚くほど早く終わる。
さっきまで茜色に染まっていた空が、気がつけば群青に溶けていた。坂の上の古い家の縁側には、柿の実の甘い匂いと、土の冷たさを帯びた風が流れてくる。昼間の暖かさはもう残っていない。
縁側の端に、一匹の黒猫が座っていた。
名前は「ヨイ」という。宵闇の「宵」だ。今は亡き祖母がつけた名前で、夕方になるとどこからともなく帰ってきて、必ずこの縁側に座るからだった。
「今日も来たのね」
私は湯呑みを両手で包み、ヨイの隣に腰を下ろした。ヨイは振り向かない。ただ、尻尾の先をほんの少しだけ揺らした。挨拶のつもりなのだろう。
遠くの家々に、ぽつり、ぽつりと灯りがともっていく。台所の窓、玄関の軒先、誰かの帰りを待つ小さな橙色。鈴虫の声が草むらから細く立ちのぼり、やがて夜の静けさに染み込んでいった。
この秋、私はずっと疲れていた。
大きな出来事があったわけではない。ただ、小さな「ちゃんとしなきゃ」が少しずつ積もって、いつの間にか肩が上がったまま下りなくなっていた。夜になっても、頭の中ではまだ今日の続きが回っている。
だからこの縁側で、何も考えずに座る時間が、いつしか一日でいちばん大切なものになっていた。
「ねえ、ヨイ。あなたは何を見てるの」
答えはもちろんない。けれど、ヨイの視線の先を追って顔を上げたとき、私は思わず息をのんだ。
藍色の空の、まだ薄明かりの残る端っこに、ひとつだけ星が光っていた。
一番星だ。
誰よりも先に夜を見つけて、「ここにいるよ」と小さく灯る星。
私はそっとヨイの顔をのぞきこんだ。
金色にも琥珀色にも見える、まんまるな瞳。その黒い真ん中に、小さな小さな光が映っていた。空のあの星が、ヨイの瞳の奥にもちゃんとあった。
空に一つ、瞳に一つ。
同じ星が、二つの場所で静かに瞬いている。
「……きれいだね」
声に出すと、胸の奥でかたく結ばれていたものが、ふっとほどけた気がした。
思えば、今日は一度も空を見上げていなかった。朝は足元ばかり見て駅へ急ぎ、昼は画面ばかり見つめ、帰り道はうつむいて歩いた。こんなに近くに、こんなに美しい星があったのに。
ヨイは毎日、見ていたのだろう。私が下を向いている間も、夕暮れの終わりに、ひとりで空を見上げていたのだ。
風が少し強くなって、庭の隅でススキがさわさわと揺れた。肩をすくめた私の足元に、ヨイがすっと寄ってくる。それから、何も言わずに私の膝の上に乗った。
重みと、あたたかさ。
とくん、とくん、と小さな鼓動が掌に伝わってくる。ヨイののどが、ごろごろと低く鳴りはじめた。
湯呑みのお茶は、もうぬるくなっている。けれど、不思議と寒くはなかった。
夜はゆっくりと深まっていく。一番星の隣に、ひとつ、またひとつと、小さな星が顔を出しはじめた。にぎやかになっていく空の下で、私とヨイは、ただ静かに座っている。
何かを頑張らなくてもいい夜がある。
何者かにならなくてもいい時間がある。
黒猫の瞳に映る星を見つめながら、私はそう思った。
やがてヨイは目を細め、まぶたの向こうに星を隠した。眠ったのだろう。膝の上のぬくもりが、少しだけ重くなる。
私は動かないまま、もう一度空を見上げた。
一番星は変わらず、そこにあった。
宵闇は優しく、秋の夜は静かで、膝の上には小さな黒い宇宙がある。
それだけで、今日という一日は、じゅうぶんに愛おしかった。
忙しい毎日の中でも、ふと空を見上げる一瞬を持てたら、それだけで心の景色は少し変わるのかもしれません。今夜、もし空が晴れていたら、窓の外の一番星を探してみてください。
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