一、雨の始まる夜
十月の終わりが近づくと、夜は急に深くなる。
その日も、夕方から空の色がゆっくり鈍くなっていた。窓の外で街灯がにじみ、帰り道の人たちの傘が、ひとつ、またひとつと開いていく。
家に着いて、濡れたコートを椅子の背にかける。部屋の明かりは、天井の白いライトではなく、棚の上の小さなランプだけにした。橙色の光が壁にやわらかく広がると、一日のあいだ肩にのっていたものが、少しずつ下りていくのがわかる。
窓の向こうで、雨が屋根を打ちはじめた。
最初は、ぽつ、ぽつ、と数えられるほどの音だった。やがてそれは、細かな粒がそろって降りてくる、静かな連なりに変わっていく。
二、湯気のむこう
小さな鍋に牛乳を注いで、弱い火にかける。
ココアの粉をスプーンですくって、少しの砂糖と一緒に練る。ここで急いではいけない。粉がなじむまで、ゆっくり、ゆっくり。牛乳を少しずつ足していくと、茶色の渦がまるくなって、甘い匂いが台所いっぱいに立ちのぼる。
マグカップに注ぐと、白い湯気が揺れながらのぼっていった。
両手でカップを包む。指先から、じんわりとぬくもりが染みてくる。秋の夜の冷たさを知っているからこそ、この熱さが、ありがたい。
三、足もとの小さな気配
ソファに腰を下ろしたとき、足もとで、かすかな音がした。
とん、と軽い着地の音。
見下ろすと、マンチカンの「ムギ」が、短い脚でちょこちょこと近づいてくるところだった。琥珀色の目が、ランプの光を受けて、ちいさく光っている。
ムギは、ソファの前でぴたりと止まった。それから、じっとこちらを見上げる。膝に乗ってもいいか、と尋ねるみたいに。
「いいよ」
そう言うと、ムギは短い脚をぐっと縮めて、ふわりと跳んだ。ひとつで乗れないこともあるのだけれど、今夜は上手くいった。膝の上で二度、三度と円を描いてから、ようやく身体を丸めて落ち着く。
重さは、ほとんどない。けれど、そこにある温かさは、はっきりとわかる。
四、雨音だけの時間
テレビは消してある。音楽もかけていない。
聞こえるのは、雨の音だけ。
屋根を叩く細かな音。雨どいを伝って落ちる、規則正しい水の音。遠くの道路を車が通りすぎるとき、濡れた路面が、さあっと鳴る。
雨音というのは不思議なもので、ずっと聞いていると、静かさを壊すどころか、静かさをいっそう深くしてくれる。外の世界がやわらかな幕に包まれて、この部屋だけが、そっと守られているような気持ちになる。
ココアをひと口、すする。
甘さが舌の上でほどけて、喉をあたたかく通っていく。ほう、と息をつくと、白い息のかわりに、ささやかな安堵がこぼれた。
五、ムギの寝息
膝の上で、ムギの背中がゆっくり上下している。
最初は、ごろごろ、と喉を鳴らしていた。それがだんだん小さくなって、気づけば、すう、すう、という穏やかな寝息に変わっていた。
前足を、そろえて顎の下に。短い後ろ脚は、身体の下にきゅっと折りたたんで。耳だけが、ときどき雨の音に反応して、ぴくりと動く。
眠っていても、世界の音をちゃんと聞いているのだな、と思う。
その小さな耳の動きを眺めていると、胸のなかにあった、言葉にならないざわざわが、ひとつずつ、静まっていった。
今日あったこと。うまくいかなかったこと。言いそびれたこと。
全部、雨が洗い流してくれるわけではない。それでも、この夜のあいだだけは、持ち上げなくていいことにしよう。そんなふうに思えた。
六、夜が深くなる
ココアは、いつのまにか、ぬるくなっていた。
それでも、最後のひと口まで、おいしかった。甘さのなかに、ほんの少しの苦みがあって、それがまた、秋の夜に似合う。
窓の外の雨は、まだ降りつづけている。
勢いが強くなるでもなく、弱まるでもなく、同じ調子で、同じやさしさで。
ムギの背中に、そっと手を置く。柔らかな毛のむこうに、小さな心臓の鼓動が、とくん、とくん、と伝わってくる。
雨の音と、猫の鼓動と、冷めかけたココアの甘い匂い。
これ以上ほしいものは、今夜はもう、思いつかなかった。
七、あとがき
秋の夜長は、忙しい毎日のなかに、ふいに現れる贈り物のようなものだと思います。
特別なことは、何もいりません。
ランプをひとつ灯して、ココアをゆっくり作って、雨の音に耳をすませる。そこに、足もとで丸くなる小さな猫がいれば、それだけで、夜はじゅうぶんにやさしくなります。
今夜、もし雨が降っていたら。
どうか、すこしだけ手を止めて、窓の外の音を聞いてみてください。
湯気のむこうで、静かな時間が、あなたを待っているかもしれません。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
PR
コータのAmazonページへ
コータのAIイラスト、Xページへ
コータのユーチューブページへ
よろしければ、
のぞいてみてください









