朝から空は厚い雲に覆われていた。
灰色の雲が低く垂れこめて、海との境目もはっきりしない。そんな日の防波堤の突端に、その猫はいつものように座っていた。
メインクーンという種類の猫は、大きい。
座っているだけで、背中の線に堂々とした厚みがある。ふさふさの首まわりの毛は、潮風にあおられて、ゆっくりと波打っていた。
猫は、海を見ていた。
何かを待っているようにも、ただそこにいるだけのようにも見える。耳の先の長い毛が、ときどき風にふるえた。
港の人たちは、この猫のことをよく知っている。
朝いちばんの船が出ていくときも、昼に網を干すときも、猫はたいていこの場所にいる。誰かが声をかけると、返事のかわりに、ゆっくりと一度だけ瞬きをする。
その日も、堤防を通りかかった老人が、猫に向かって小さく会釈をした。
「今日は降らんかったな」
猫は振り向かない。けれど尻尾の先が、ぱた、と一度だけコンクリートを打った。
昼をすぎても雲は動かなかった。
波は穏やかで、寄せては返す音だけが、一定のリズムで続いている。世界から色が少しだけ引いてしまったような、静かな午後だった。
それでも猫は、動かない。
金色がかった琥珀の目は、まっすぐに沖のほうを向いたままだ。
そのときだった。
雲の底に、ほんの細い裂け目が走った。
最初は、気のせいかと思うほどの小さな光だった。
けれど裂け目はゆっくりとほどけていき、そこから一本、また一本と、光の筋が海に降りてきた。
水面が、そこだけ白金色にひらく。
光はまるで海の上に敷かれた道のように、沖から防波堤のすぐそばまで、まっすぐに伸びていった。
猫の瞳に、その光が映りこむ。
琥珀色が、ふっと明るくなった。
猫は少しだけ身を起こして、首を伸ばした。
長い毛の一本一本が光を拾って、輪郭がうっすらと金色に縁どられる。
風が止んだ。
波の音も、一瞬だけ遠のいたように思えた。
あたりには、猫と、海と、雲間からこぼれる光の道があるだけだった。
その道がどこへ続いているのか、猫に聞いてみたことはない。
けれど、その横顔を見ていると、行き先を知らなくてもいいのだと思えてくる。ただ光が差していて、それを見ている誰かがいる。それだけで、今日という一日は、もう十分にきれいなのかもしれない。
やがて雲がまた少しずつ閉じていき、光の道は細くなって、海のむこうにほどけていった。
猫は名残を惜しむでもなく、前足をそろえ直して、ふう、と静かに息をついた。
夕方の気配が近づいてくる。
防波堤の影が長くなり、猫の大きな背中が、やわらかな薄闇に溶けはじめる。
それでも猫は、まだ海を見ている。
さっきまで光の道があった場所を、変わらないまなざしで見つめている。
忙しい日々のなかで、ふと顔を上げたとき。
空のどこかに、こんなふうに光がこぼれているかもしれない。気づくのは、立ち止まって見上げた人だけだ。
あの猫のように、ただ静かに海を見つめる時間を、今日のどこかに少しだけ置いてみる。
それだけで、心のなかにも、そっと光の道が伸びてくるような気がしている。
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