2026年10月29日木曜日

癒される秋の水引の細い赤い花穂と枯れ草の道を歩く黒猫

癒される秋の水引の細い赤い花穂と枯れ草の道を歩く黒猫

 秋の午後、町外れの細い道を歩いていた。

道の両脇には、枯れ草がやわらかく倒れかかっている。金色に褪せた草の穂が風に揺れて、さらさらと乾いた音を立てていた。その足もとに、水引の花穂が見えた。針金のように細い茎の先に、赤い小さな粒がぽつぽつと並んでいる。まるで誰かが、糸の先に赤い珠を一つずつ結んでいったようだった。

足を止めてしゃがみ込むと、秋の光が花穂のあいだを通り抜けて、地面に細かな赤い影を落としていた。

「こんなところに咲いてたんやな」

思わず声が出た。夏のあいだは気づかなかった花だ。草が枯れていくこの季節になって、ようやく目に入る。派手さはないのに、ほかの色が引いていったあとだからこそ、赤がひときわ澄んで見えた。

そのとき、道の先で何かが動いた。

黒猫だった。

枯れ草の色の中で、その黒はやけにくっきりしていた。猫は私に気づいたのか気づいていないのか、急ぐでもなく止まるでもなく、のんびりと道の真ん中を歩いてくる。しっぽをすっと立てて、肉球が土をふむ音がしそうなほど静かな足どりだった。

私は動かないことにした。

黒猫は水引の脇まで来ると、ふと立ち止まった。細い赤い花穂が風に揺れて、猫の鼻先をかすめる。猫は小さく首をかしげ、じっとそれを見つめた。しばらくして、ちょん、と前足で触れようとして、やめた。何事もなかったような顔で、また歩き出す。

その背中を見送りながら、胸の奥のほうが、ゆっくりとほどけていくのを感じた。

ここ最近の私は、ずっと急いでいたと思う。予定を詰めて、返事を急いで、やることを数えて。気づけば、季節が変わったことにも、足もとに花が咲いていたことにも気づかないまま過ごしていた。

けれど黒猫は急がない。水引も、誰に見せるでもなく、ただ細い茎を揺らして赤を灯している。枯れ草は枯れ草のまま、秋の光をたっぷりと浴びて、金色に輝いていた。

誰にも褒められなくても、誰にも気づかれなくても、世界はちゃんと美しい。

そんな当たり前のことを、この道が思い出させてくれた。

黒猫は少し先の曲がり角で一度だけ振り返った。金色の目が、夕方に向かう光を受けてきらりと光る。それから草むらの向こうへ、するりと消えていった。

道には、また私ひとりが残った。

けれど、さっきまでとは少し違っていた。寂しさはなくて、胸のなかにあたたかいものが静かに残っていた。

私は立ち上がって、もう一度だけ水引を見た。赤い花穂は、何も言わずに風に揺れている。

「ありがとうな」

そう小さくつぶやいて、ゆっくりと歩き出した。枯れ草の道は、夕日の色に染まりはじめていた。


忙しい毎日のなかで、ふと足を止めたくなったら、季節の道を歩いてみてください。細い赤い花穂や、通りすぎる黒猫が、思いがけず心をなでてくれるかもしれません。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


癒される朝の窓辺と、伸びをしてあくびをするマンチカンという猫

癒される朝の窓辺と、伸びをしてあくびをするマンチカンという猫

 カーテンの隙間から、細い光が一本だけ床に伸びていた。

まだ六時を少し過ぎたばかりで、家の中はしんとしている。冷蔵庫の小さなうなり声と、遠くを走る新聞配達のバイクの音だけが、朝の輪郭をなぞっていた。

私はそっとカーテンを開けた。

窓ガラスに、淡い金色の光がやわらかく広がる。昨夜の冷たさがまだ少し残る空気の向こうで、屋根の端が白く縁どられていた。窓辺に置いたマグカップから、湯気がゆらゆらと立ちのぼっていく。

その窓辺の一番日当たりのいい場所に、小さな座布団がある。そこが、うちのマンチカンの定位置だ。

名前を呼ぶと、ソファの下から、とてとてと足音がした。短い脚で、それでも一生懸命に床を踏んでくる。ふかふかの胴体がゆれて、尻尾がゆっくり左右にしなる。

窓辺に着くと、彼女は座布団の上でちょこんと座り、光の中でまぶしそうに目を細めた。

それから、ゆっくりと前足を前に伸ばした。

背中がなだらかに沈んで、おしりがすうっと持ち上がる。短い後ろ足がぷるぷると小さく震えて、指の先までぴんと開いた爪が、朝の光を受けて透けるように見えた。

伸びは、思っていたより長かった。

急ぐ理由なんて、この子にはひとつもないのだ。朝というものを、体のすみずみまで、ていねいに受け取っている。そんなふうに見えた。

そして、伸びのいちばん終わりに、ふわあっと、大きなあくびが出た。

小さな口がめいっぱい開いて、ピンク色の舌がくるりと巻く。細い牙がちらりとのぞいて、ひげが後ろに引かれる。あくびのあと、ぱちぱちとまばたきをして、何事もなかったような顔で、私のほうを見上げた。

「おはよう」

そう言うと、彼女は「みゃ」とも「んん」ともつかない、小さな声を返してくれた。

その声があまりにもやわらかくて、私は思わず笑ってしまった。胸の奥に張りついていた、昨日までの細々としたこわばりが、湯気といっしょにほどけていくのがわかった。

窓の外では、電線にとまった雀が二羽、せわしなく顔を見合わせている。向かいの家の屋根の上を、薄い雲がひとつ、ゆっくり横切っていく。

彼女は座布団に丸くなりかけて、またひとつ、小さくあくびをした。

さっき伸びをしたばかりなのに、もう眠そうだ。それでも、ときどき片目だけを開けて、窓の外の雀を目で追う。その仕草のひとつひとつが、まるで朝のために用意された、小さな短編のページをめくっているようだった。

私はマグカップを両手で包んで、窓辺の床に腰を下ろした。

光は少しずつ高くなって、座布団の上の毛並みが、あたたかな蜂蜜色に染まっていく。耳の先だけが、透きとおるように明るい。

何も起こらない朝だった。

けれど、伸びをして、あくびをして、また目を細める。それだけのことが、こんなにも静かで、こんなにも満ちたりた時間になるのだと、私はこの小さな猫に教えてもらった。

窓辺の光が、ゆっくりと床を渡っていく。

マンチカンの寝息が、ほんの少し、深くなった。

一日はまだ、はじまったばかりだ。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


2026年10月28日水曜日

癒される雨上がりの防波堤と潮風に目を細めるメインクーンという猫

癒される雨上がりの防波堤と潮風に目を細めるメインクーンという猫

 昼過ぎまで降っていた雨が、ふいに止んだ。

窓を打つ音が消えたことに気づいて、私は読みかけの本から顔を上げた。厚かった雲がほどけて、灰色の隙間から薄い光が漏れている。傘を持たずに家を出るのは気が引けたが、あの光の筋を見てしまうと、じっとしていられなかった。

海沿いの道は、まだ濡れていた。アスファルトは黒く光り、水たまりには空がそのまま落ちている。靴の底が湿った地面を踏むたびに、小さく音がした。

防波堤に着くと、潮の匂いがいつもより濃かった。雨が空気の埃を洗い流して、海のにおいだけが残っている。深く息を吸うと、胸の奥まで塩気を含んだ冷たさが入ってきた。

堤防のコンクリートは、ところどころ色が濃い。雨を吸った場所と、もう乾きはじめた場所が、まだら模様になっている。その先に、何かが丸く座っていた。

最初は、誰かが置き忘れた毛皮の帽子かと思った。

近づくと、それは一匹の猫だった。灰色と茶色と白が複雑に混ざり合った長い毛並み。首のまわりにはたてがみのようなふさふさがあって、尻尾は体と同じくらい大きい。メインクーンだ。飼い猫なのか、この港に住みついているのか分からないが、堂々としたその座り方には、この防波堤の主のような風格があった。

猫は私に気づいたのか、気づいていないのか、海のほうを向いたまま動かない。

私は少し離れた場所に腰を下ろした。濡れていないところを選んだつもりだったが、コンクリートの冷たさがじんわりと伝わってくる。それでも、不思議と嫌な気はしなかった。

そのとき、風が吹いた。

沖から渡ってきた潮風が、防波堤をなでていく。猫の長い毛が、ふわりと波立った。首元のたてがみも、尻尾の先も、風に合わせて一斉に揺れる。

猫は、ゆっくりと目を細めた。

大きな琥珀色の瞳が、半分、さらに半分と閉じていく。まぶしさに耐えるのではなく、心地よさに身を預けるような、やわらかい細め方だった。ひげが風を受けて、わずかに後ろへ流れている。

その顔を見ていたら、私まで目を細めていた。

遠くで、雲の切れ間から差した光が、海面に一本の道をつくっている。波は低く、おだやかに寄せては返す。防波堤の根元にぶつかる水の音が、一定の間隔で聞こえてくる。ぽちゃん、ざあ、ぽちゃん、ざあ。

雨上がりの海は、静かだ。

ふだんの私は、いつも何かに追われている。返さなければいけない連絡、終わらせなければいけない用事、考えておかなければいけないこと。頭の中はいつも少しだけ騒がしくて、それを「普通」だと思って過ごしてきた。

けれど、この防波堤の上には、急ぐ理由がひとつもなかった。

猫が、のそりと立ち上がった。背中を大きく反らせて伸びをして、前足をそろえ、また静かに座り直す。さっきよりほんの少しだけ、私のほうに近い場所だった。

「ここ、ええ場所やな」

思わず、声が出た。

猫は振り向かない。ただ、耳の先がぴくりと動いた。聞こえているのだと思うことにした。

どれくらいそうしていただろう。光の道は少しずつ傾いて、海の色が銀から淡い青へと変わっていく。潮風は、さっきより少しだけ冷たくなった。

猫は、まだ目を細めている。

この猫にとって、潮風は特別なものではないのだろう。毎日のように吹いて、毎日のように毛並みを揺らしていく、ありふれたもの。それでも、風が来るたびに目を細めるのだ。何度味わっても、気持ちいいものは気持ちいい。その単純さが、なんだかうらやましかった。

立ち上がると、膝に濡れたコンクリートの跡がついていた。手で払って、猫にもう一度だけ目をやる。

猫は、海を見たままだった。

「また来るわ」

そう言い残して、私は防波堤をあとにした。帰り道、振り返ると、遠くの猫はまだ小さな影になって座っていた。たてがみが、風にやさしく揺れている。

家に着くころには、空の端がほんのり茜色に染まっていた。

濡れた靴を玄関で脱いで、湯をわかす。湯気の向こうで、さっきの潮風の感触がまだ頬に残っている気がした。

雨上がりの防波堤で出会った、潮風に目を細める猫。たったそれだけの時間だったのに、心の中のざわつきは、いつの間にか静まっていた。

ときどき、人には何もしない時間が必要なのだと思う。海と風と、ただそこにいる猫のように。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


癒される秋の銀木犀のほのかな香りと日暮れの垣根をながめるメインクーンという猫

癒される秋の銀木犀のほのかな香りと日暮れの垣根をながめるメインクーンという猫

 その家の垣根には、一本だけ古い銀木犀が混じっていた。

十月も半ばを過ぎたころ、夕方の風の中にふっと甘い匂いが混じる。金木犀のように遠くまで主張する香りではない。通りすがりに足を止めて、鼻をひくつかせて、「いまのは何だったかな」と思うくらいの、かすかな香り。それが銀木犀の流儀だった。

縁側には、メインクーンのミナトがいる。

大きな体を持て余すように座布団の上に腰をおろし、ふさふさの尻尾を足元に巻きつけている。耳の先には、ライオンのような長い飾り毛。灰色と茶色のまじった毛並みは、夕日を受けると銀色にも金色にも見えた。

ミナトは、この時間になると必ず縁側に出る。

昼間は台所の床で寝ているか、日だまりの畳の上で、お腹を出してだらしなく伸びている。ところが日が傾きはじめると、すっと起きあがり、のそのそと縁側へ向かう。誰に呼ばれたわけでもない。誰に教わったわけでもない。ただ、そういう時間が来たのだと、体のどこかが知っているらしい。

縁側の先には、小さな庭があり、その向こうに垣根がある。

垣根の上は、空の色が少しずつ変わっていく場所だった。最初は薄い蜜柑色。それが桃色に溶けて、やがて紫がかった灰色になり、最後に群青がすべてを包みこむ。銀木犀の小さな白い花は、その変化のたびに、色を少しずつ変えて見えた。昼間は白。夕方は淡い橙。暗くなりはじめると、ぼんやり光を集めたように浮かびあがる。

ミナトは、それをただ、じっと見ている。

瞳は琥珀色で、夕日が差すと中に小さな灯りがともったようになる。まばたきはゆっくり。ひげがときどき、風にふるえる。香りが強くなる瞬間があるのか、鼻先がわずかに上を向く。そして、ふう、と短く息を吐く。

「何を見てるの?」

縁側の奥から、おばあさんの声がした。湯呑みを両手に包んで、座椅子にもたれている。ミナトは振り向かない。尻尾の先だけが、ぱたり、と一度だけ動いた。返事のつもりなのだろう。

「そうかそうか。大事な仕事中やな」

おばあさんは笑って、お茶をひと口すすった。

この家に越してきた年に、亡くなった夫が植えた銀木犀だという。金木犀のほうが派手でいいんじゃないかと言ったら、「派手なのは疲れるから」と夫は笑った。そのころは意味がよくわからなかったけれど、今ならわかる気がする、とおばあさんは思う。

遠くの空で、カラスが一度だけ鳴いた。

どこかの家から、夕飯の支度の音が聞こえてくる。包丁がまな板に当たる音。水道の水音。誰かが洗濯物を取りこむ、布のこすれる気配。町全体が、一日の終わりへ向かって、ゆっくり息を整えているようだった。

ミナトが、ひとつ大きなあくびをした。

牙がちらりと見えて、舌がくるりと丸まる。そのあと、何事もなかったような顔で、また垣根のほうへ視線を戻す。銀木犀の香りがほんの少し濃くなる。風が止まったのだ。夕暮れと夜のあいだには、そういうほんの数分の凪がある。

空の橙が、群青にのみこまれていく。

垣根の白い花が、最後の光を抱えこんで、ひとつずつ、静かに暗がりへ溶けていった。

おばあさんは湯呑みを置いて、ミナトの背中にそっと手をのせる。厚い毛の奥から、とくん、とくん、と、あたたかい鼓動が伝わってきた。ごろごろ、と低い音が、喉の奥から湧きあがる。

「ええ秋やなあ」

ミナトは答えない。ただ、目を細めて、暗くなっていく垣根の向こうを、いつまでも、いつまでも、ながめている。

その夜、縁側にはほのかな香りだけが、ゆるやかに残っていた。


銀木犀の香りは、気づかないくらいのささやかさがちょうどいいのかもしれません。大きな出来事がなくても、夕暮れの縁側に猫と並んで座るだけで、一日がやさしく終わっていく。そんな時間を、この秋のどこかで見つけてもらえたらうれしいです。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


癒される朝凪の海と防波堤で丸くなる三毛猫

癒される朝凪の海と防波堤で丸くなる三毛猫

 夜と朝のあいだには、名前のついていない時間がある。

その朝、わたしは目覚ましが鳴るよりずっと早く目を覚ました。理由はよくわからない。ただ、カーテンの隙間から差し込む光が、いつもより白くて静かだった。コートを羽織って外に出ると、空気は冷たく澄んでいて、吸い込むと胸の奥まで洗われるようだった。

足は自然と海のほうへ向いた。

坂道を下りきると、防波堤の続く小さな港に出る。昼間は釣り人や自転車の音でにぎやかな場所だけれど、この時間は誰もいない。聞こえるのは、遠くで一度だけ鳴いた鳥の声と、自分の靴音くらいだった。

海は、凪いでいた。

風がぴたりと止んで、水面は薄い絹を張ったように動かない。空の色がそのまま海に溶けていて、どこまでが空で、どこからが海なのか、水平線がほとんど見えなかった。淡い桃色と、やわらかな水色と、ほんの少しの金色。そんな色を、海はひとつも逃さずに映していた。

「朝凪」という言葉を、わたしはそのとき初めて、景色として理解した気がした。

防波堤の上をゆっくり歩いていると、少し先に、小さな丸いものが見えた。

最初は、誰かが置き忘れたクッションかと思った。近づいてみると、それは三毛猫だった。

白と黒と茶色が、まるで絵の具をそっと混ぜたように入り混じっている。その猫は、コンクリートの上でくるりと身体を丸め、尻尾を鼻先に添えて、静かに眠っていた。背中の毛の先が、昇りはじめた朝日にほんのり透けて、あたたかそうな金色にふちどられている。

わたしは足を止めた。起こしてしまわないように、息まで小さくした。

猫は片目だけを細く開けて、わたしを見た。

驚くでもなく、逃げるでもなく、「ああ、あなたか」とでも言うような顔で、ゆっくりとまばたきをした。そしてまた目を閉じた。

その様子があまりにも自然で、あまりにも満ち足りていて、わたしは思わず笑ってしまった。

「ここ、いい場所だね」

小さな声でそう言って、わたしは少し離れたところに腰を下ろした。コンクリートはひんやりしていたけれど、不思議と嫌ではなかった。目の前には、動かない海。隣には、丸くなった三毛猫。

しばらくのあいだ、わたしたちは何もしなかった。

波は、ほとんど音を立てなかった。岸壁にときどき触れる水が、ちゃぷ、と小さく鳴るだけ。遠くの漁船が、のんびりと白い筋を引いて進んでいく。その筋もやがて、海に溶けるように消えていった。

思えば最近のわたしは、ずっと急いでいた。

朝は時計を見ながら支度をして、電車では画面を見つめて、夜は夜で、明日のことを考えているうちに眠ってしまう。景色を「見る」ことはあっても、「眺める」ことはずいぶんしていなかった。

この猫は、きっと毎朝ここにいるのだろう。誰に急かされることもなく、誰に何を証明する必要もなく、ただ日向を選んで、丸くなっている。

それでいいのだと、猫の背中は言っている気がした。

やがて、太陽が水平線の上に顔を出した。海がいっぺんに金色にほどけて、猫の毛並みも、わたしの手の甲も、同じ光に包まれた。ひとすじの光の道が、沖からまっすぐ防波堤まで伸びてくる。

猫がもぞもぞと動いて、前足をぐんと伸ばし、小さくあくびをした。

ピンクの舌が、ちらりと見えた。

それから猫は立ち上がり、ひとつ大きく伸びをすると、わたしの前を通りすぎて、ゆうゆうと防波堤の向こうへ歩いていった。振り返りもしない。その潔さが、なんだか清々しかった。

ひとり残されたわたしは、猫がいた場所にそっと手をのせてみた。

そこには、まだほんのりと、ぬくもりが残っていた。

立ち上がって、もう一度だけ海を見る。朝凪の海は、さっきよりも少しだけ明るくなって、静かに、静かに、一日のはじまりを待っていた。

帰り道、足取りは来たときよりずっと軽かった。

特別なことは、何も起きていない。ただ、凪いだ海を眺めて、猫と同じ時間を過ごしただけ。それなのに、胸の奥のざわざわしていたものが、すっかり凪いでいた。

癒しというのは、探しに行くものではなくて、こうして不意に、そっと隣に座っていてくれるものなのかもしれない。

もしあなたの毎日が、少し急ぎ足になっているなら。

早起きした朝に、海の見える場所へ行ってみてください。運がよければ、丸くなった三毛猫が、静かな朝をわけてくれるはずです。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


2026年10月27日火曜日

癒される岩場の潮だまりと小さな波紋をじっと見つめる黒猫

癒される岩場の潮だまりと小さな波紋をじっと見つめる黒猫

 朝の海は、まだ眠りから覚めきっていなかった。

水平線のあたりに薄い乳白色の光がにじみ、空と海の境目がやわらかくほどけている。引き潮の岩場には、昨夜の波が置いていった水が、いくつもの小さな鏡になって残っていた。

その岩場の端に、一匹の黒猫が座っている。

艶のある毛並みは朝の光を吸いこんで、ところどころ青みがかって見えた。しなやかな尻尾を足もとにそっと巻きつけて、猫は一つの潮だまりをじっと見つめている。

潮だまりは、手のひらを少し広げたくらいの大きさだった。底には白い砂と小さな貝殻が沈んでいて、透きとおった水が、空の色をそのまま映している。

そこへ、ぽとり、と一粒の雫が落ちた。

岩の上のくぼみから、ゆっくりと伝ってきた潮のしずくだ。水面に小さな輪が生まれ、静かに、静かに、外へ向かって広がっていく。

猫の耳が、ほんの少しだけ動いた。

金色の瞳は、波紋の中心を離れない。輪が広がり、薄れ、やがて水面が元の静けさに戻るまで、まばたきひとつせずに見届けている。

そして、また一粒。

ぽとり。

新しい輪が生まれると、猫の瞳の中でも、小さな光がゆらりと揺れた。

遠くで波が寄せては返す音がする。ざあ、という低い響きのあとに、細かな泡がはじける、ちりちりという音が続く。かもめの声がひとつ、空の高いところを横切っていった。潮の香りは、昨日より少しだけ冷たい。季節が、静かに進んでいるのだと思った。

潮だまりの縁には、小さな巻貝がへばりついている。ヤドカリが一匹、貝殻を背負ったまま、そろそろと水の中を歩いていた。その歩みが水面をかすかに揺らし、また新しい波紋が生まれる。

猫は、動かない。

追いかけたくなる気持ちを、ぐっと胸の奥にしまっているのかもしれない。それとも、ただ見ているだけで満ち足りているのだろうか。尻尾の先が、ふわり、ふわりと小さく揺れていた。

ふと、風向きが変わった。

雲の切れ間から、朝日がすうっと差しこんでくる。潮だまりの水面が、一瞬で金色にきらめいた。

猫は、まぶしそうに目を細める。

その横顔を見ていたら、胸のどこかに絡まっていたものが、すこしずつほどけていくような気がした。急がなくてもいい。答えを出さなくてもいい。ただ、落ちてくる雫と、広がる輪を眺めていればいい。

世界には、こんなにも静かで、こんなにも満ち足りた時間が、ちゃんと用意されている。

やがて潮が、ゆっくりと満ちはじめた。

岩場の向こうから寄せた波が、潮だまりのふちをそっと撫でていく。小さな鏡は、大きな海の一部に戻っていった。

黒猫は、立ち上がって大きく伸びをした。

それから一度だけ、名残惜しそうに水面を振り返り、しなやかな足取りで岩の上を歩き去っていった。

あとには、朝の光と、潮の香りと、海に溶けていく最後の波紋だけが残った。


潮だまりの前に腰をおろして、小さな波紋をただ眺める。それだけの時間が、心をやさしく整えてくれることがあります。海辺へ出かけたときは、足もとの小さな水の世界にも、ぜひ目を向けてみてください。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


癒される秋のチカラシバが揺れる土手とマンチカンという猫

癒される秋のチカラシバが揺れる土手とマンチカンという猫

 九月の終わりの夕方、わたしは川沿いの土手を歩いていた。

仕事帰りに遠回りをするようになったのは、いつからだっただろう。駅から家までは真っ直ぐ帰れば十分ほどなのに、気づけば足が自然と土手のほうへ向く。理由はうまく説明できない。ただ、あの道を歩くと、肩に乗っていた一日分の重さが、少しずつ草の中へ落ちていく気がした。

その日の土手は、チカラシバの季節だった。

夏のあいだは地味な草にしか見えなかったのに、秋になると、細長い穂が一斉に立ち上がる。濃い紫がかった茶色の穂は、ブラシのようにふさふさとしていて、夕日が差すと、先のほうだけが金色に透けた。風が吹くたびに、穂は同じ方向へゆっくり傾き、そしてゆっくり戻ってくる。波のようでもあり、誰かの深呼吸のようでもあった。

わたしは立ち止まって、その揺れをしばらく眺めた。

そのときだった。穂の海の向こうで、ひとつだけ、揺れ方の違うところがあった。風のせいではない。何かが、草の根もとを歩いているのだ。

目を凝らすと、茶色と白の小さな背中が見えた。

猫だった。それも、ずいぶん足の短い猫だ。

マンチカンだと、すぐに分かった。胴はふっくらしているのに、足だけが少し控えめで、歩くたびにお腹のあたりが草の先をかすめていく。短い足を一生懸命に動かして、チカラシバの穂をかき分けながら、その猫は土手の斜面を横切っていた。

首輪はついていなかった。けれど、毛並みはつやつやしていて、ひとりぼっちの野良の顔ではなかった。きっと、この近くの誰かの家の子なのだろう。

猫は、ふいに足を止めた。

そして、目の前で揺れている一本の穂を、じっと見つめた。

しばらく動かない。耳だけが、ぴくりと前を向く。次の瞬間、短い前足が、ひょいと穂に伸びた。ぽん、と触れる。穂が揺れる。猫は目を丸くして、もう一度、ぽん。

わたしは声を出さずに笑ってしまった。

やがて猫は、穂と遊ぶのに満足したのか、土手のなだらかな場所に腰をおろした。ちょうど夕日がまっすぐ当たる、いちばん温かそうな場所だった。前足を胸の下にたたみ、背中を丸くして、ふう、と小さく息をつく。その姿は、パン屋の窓辺に並ぶ焼きたてのパンみたいだった。

わたしも、少し離れた草の上に腰をおろした。

川の水面が、夕日を細かく砕いて運んでいく。遠くの橋を、電車が静かに渡っていく。その音さえも、今日は少しやわらかく聞こえた。

猫が、ゆっくりとこちらを振り向いた。

目が合った。逃げるでも、近づくでもなく、ただ「そこにいたのか」と言うような顔で、一度だけ、ゆっくりまばたきをした。

猫のゆっくりしたまばたきは、安心している印なのだと、どこかで聞いたことがある。わたしも真似をして、そっと目を閉じて、ゆっくり開けてみた。

猫は、もう一度まばたきをして、前を向いた。

それだけのやりとりだった。名前も知らない猫と、言葉もなく交わした、ほんの数秒の会話。それなのに、胸のいちばん奥のあたりが、じんわりと温かくなった。

今日の仕事のことも、うまくいかなかった打ち合わせのことも、帰ったらやらなければいけないことも、不思議と遠くへ行ってしまった。残ったのは、風の音と、草の匂いと、夕日の温度と、隣で丸くなる小さな気配だけだった。

人は、ときどき、何かを頑張って手放さなければ楽になれないと思ってしまう。けれど本当は、ただ風に揺れる草を眺めているだけで、勝手に軽くなっていくものもあるのかもしれない。

チカラシバという名前は、根がとても強くて、力自慢でも引き抜けないことからついたのだという。こんなに細くしなやかに揺れているのに、足もとでは、しっかりと大地をつかんでいる。

揺れているのに、倒れない。

わたしは、穂の波を見ながら、そんなふうに生きられたらいいなと思った。

空が茜から群青へ変わりはじめるころ、猫はすっと立ち上がった。短い足で、とことこと草の中を歩いていく。紫がかった穂の向こうに、茶色の背中が見え隠れして、やがて土手の下の家並みへと溶けていった。

最後に、しっぽの先がひとつ、ゆらりと揺れた。まるで「またね」と言うように。

わたしもゆっくり立ち上がって、ズボンについた草を払った。

帰り道、土手の風はさっきより少し冷たくなっていたけれど、不思議と寒くはなかった。背中のほうで、チカラシバの穂がまだ静かに揺れている音がした。

明日も、この道を遠回りして帰ろう。

あの猫に会えても、会えなくても。揺れる穂に会いに行くだけで、きっと十分なのだから。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


癒される秋のツワブキが咲く石垣道とメインクーンという猫

癒される秋のツワブキが咲く石垣道とメインクーンという猫

 坂の途中に、苔むした石垣がずっと続く道がある。

十月も終わりに近づいた午後、私はその道をゆっくり歩いていた。急ぐ用事はなかった。ただ、秋の光が一番やわらかくなる時間に、どこか静かなところを歩きたかったのだ。

石垣の根もとには、ツワブキが咲いていた。艶のある丸い葉の上に、すっと伸びた茎。その先で、黄色い花がいくつも顔を上げている。ほかの花が少しずつ色を落としていく季節に、ここだけは小さな灯りをともしたように明るい。

足を止めると、風が通った。花がかすかに揺れて、石垣の隙間から草の匂いがふわりと立ちのぼる。遠くで誰かが洗濯物を取り込む音がして、それもすぐに静けさに溶けた。

そのときだった。

石垣の上に、大きな影があった。

最初は、丸めた毛布かと思った。けれど、毛布にしては呼吸がある。ゆっくりと上下する背中は、灰色と茶色が幾重にも混ざり合った長い毛におおわれていた。耳の先には、ちょんと飾りのような毛が立っている。首のまわりは、まるで小さなマフラーを巻いたようにふくらんでいた。

メインクーンだった。

こんな大きな猫が、石垣の上でひなたぼっこをしている。私は思わず息をひそめた。

猫は、私に気づいていた。ゆっくりと片目だけを開けて、琥珀色の瞳でこちらをながめる。驚くでもなく、警戒するでもない。「ああ、あなたも来たのね」とでも言うような、おだやかな目だった。

それから、ふぁぁ、とひとつあくびをした。

大きな口を開けて、ぐっと伸びをして、前足を石の上にぺたりと置く。その動作のひとつひとつが、驚くほどのんびりしていた。この猫にとって、時間というのは急ぐものではないのだろう。陽が傾くのも、花が咲くのも、風が吹くのも、すべてがちょうどいい速さで過ぎていくものなのだ。

私は、猫のそばにあるツワブキの前にしゃがみ込んだ。

花と猫が、同じ光のなかにいる。黄色い花びらの縁が金色に透けて、猫の毛先もまた、陽をうけて淡く光っていた。どちらも、自分が美しいなんて少しも思っていない顔をしている。

しばらくして、猫が石垣からひらりと降りてきた。

あの大きな体なのに、着地の音がほとんどしない。そのまま私の足もとまで来て、ツワブキの葉の陰に鼻先を近づけた。花の匂いを確かめているのか、それとも葉の下の涼しさを味わっているのか。ふさふさの尻尾が、ゆらりと私の足首をかすめていった。

その、わずかなぬくもり。

気づけば、肩の力が抜けていた。仕事のこと、明日のこと、返しそびれたままの連絡。そんなものが、石垣のむこうへ静かに遠のいていく。

猫は満足したのか、またゆっくりと歩き出した。石垣に沿って、坂の上へ。一歩ごとに、長い毛が風にそよぐ。私はその後ろ姿を、しばらく見送っていた。

やがて猫の姿は、道の角を曲がって見えなくなった。

けれど、ツワブキはまだそこで咲いている。夕方の光に照らされて、黄色がいっそう深くなっていた。

私は立ち上がり、来たときよりも少しだけゆっくりとした足取りで、坂道をくだっていった。

秋の石垣道には、ツワブキが咲く。そして、そこには必ず、ゆったりと時間を連れた誰かがいる。そう思うと、この季節の帰り道さえ、少しだけ愛おしくなるのだった。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


2026年10月26日月曜日

癒される秋の夜のしずかな雨音とあたたかい毛布に潜りこむマンチカンという猫

癒される秋の夜のしずかな雨音とあたたかい毛布に潜りこむマンチカンという猫

 日が落ちるのが、いつのまにか早くなった。

夕方に降りはじめた雨は、夜になってもやまなかった。強くも弱くもない、ちょうどいい降り方だった。窓の外では、屋根をたたく小さな音が、途切れずにやさしく重なっている。

私は部屋のあかりをひとつだけ残して、ソファに腰をおろした。テーブルには、湯気のたつ紅茶。膝の上には、まだ開いていない本。

「ぽつ、ぽつ、ぽつ」

雨音は、数えようとすると数えられない。それがなんだか心地よくて、私は本を開くのをやめて、耳だけを窓のほうへ預けた。

そのときだった。

床のほうから、とん、とん、と小さな足音が近づいてきた。短い脚を一生懸命に動かして、ふかふかの尻尾をゆらしながら歩いてくる。うちのマンチカンの、もなかだ。

もなかは私の足もとで立ち止まり、じっと私を見上げた。まるい目に、ランプの光がひとつずつ入っている。

「どうしたの」

声をかけると、もなかは小さく「にゃ」とだけ答えた。それから、ソファの端にたたんであった毛布のほうへ、とことこと向かっていった。

その毛布は、先週しまい込んでいた冬用を、思いきって出してきたものだった。まだ少しだけ、押し入れの匂いが残っている。

もなかは毛布の端に鼻を近づけて、くん、と匂いをたしかめた。それから、まるでそこに入口があるかのように、迷いなく頭からもぐりこんでいった。

毛布が、もこもこと動く。右へ、左へ。ちょうどいい場所を探して、くるりと回っているのがわかる。

やがて動きが止まった。

毛布のふくらみは、もなかのかたちにまあるくなって、ゆっくり上下しはじめた。

私はそっと、毛布の端をめくってみた。

もなかは、顔だけを少し出して、目を細めていた。鼻先がひくひくと動いて、すぐに力が抜けていく。あたたかさに、まぶたが負けそうになっているのがわかった。

「そこ、いい場所?」

返事のかわりに、のどの奥から、ごろごろ、という低い音がきこえてきた。

雨音と、ごろごろ。

ふたつの音が重なると、部屋のなかの空気が、少しだけやわらかくなった気がした。

外の世界は、きっと冷たくて、濡れていて、暗い。でも、この毛布のなかだけは、ちがう季節みたいにあたたかい。

私は紅茶をひと口のんで、毛布の上から、もなかの背中あたりをそっと撫でた。小さな体のぬくもりが、手のひらにじんわりと伝わってくる。

考えてみれば、ひとりで過ごす秋の夜は、少しだけ寂しいものだ。日が短くなると、心のなかにも影ができるような気がする。

けれど、雨の音を聞きながら、毛布に潜りこんだ猫の寝息をそばに感じていると、その影は不思議とやわらかくほどけていく。

何かをしなくても、いい。
誰かに会わなくても、いい。
ただ、雨の音を聞いて、あたたかいものがそばにあれば、それで足りる夜もある。

窓の外では、雨がまだ降りつづいている。街灯のあかりが、濡れたガラスに丸くにじんで、ゆらゆらと揺れていた。

もなかの寝息が、ゆっくりと深くなる。毛布のふくらみが、規則正しく上がって、下がる。

私はいつのまにか、本を開くことも忘れていた。かわりに、毛布のとなりに身を沈めて、ランプの光と雨の音のなかに、ゆっくりと溶けていった。

しずかな雨音。
あたたかい毛布。
その奥で眠る、小さな命のぬくもり。

秋の夜が、こんなにもやさしいものだったなんて。

明日の朝になれば、雨はあがっているかもしれない。でも今夜だけは、このままでいたい。

毛布のなかで、もなかが、ふにゃ、と小さく寝言をこぼした。私は思わず笑って、そっとランプのあかりを落とした。

雨音だけが、部屋にやさしく残っていた。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください


癒される透きとおった浅瀬の海と波打ちぎわに前足をそっとのせる三毛猫

癒される透きとおった浅瀬の海と波打ちぎわに前足をそっとのせる三毛猫

 その海に着いたのは、朝のいちばん早い時間だった。

砂浜に降りる階段の途中で、わたしは足を止めた。潮の匂いより先に、音が届いたからだ。波が寄せて、ほどけて、また引いていく。その繰り返しが、とても小さな声で続いていた。

浅瀬の水は、驚くほど透きとおっていた。足もとの砂粒がひとつずつ数えられそうなほどで、水があるのかないのか、一瞬わからなくなる。空の色をそのまま薄く溶かしたような、淡い青。沖に向かうにつれて少しずつ翡翠色が混ざり、その先でようやく深い青に変わっていく。

砂浜には、誰もいなかった。そう思っていた。

波打ちぎわのいちばん手前に、小さな影があった。

三毛猫だった。白、茶、黒がやわらかく混ざった背中を、朝の光がうっすらと縁取っている。猫は砂の上にきちんと座り、じっと海を見ていた。

わたしは音を立てないように、少しだけ近づいた。

波がひとつ寄せてくる。猫の耳が、ぴくりと動く。

波は猫の前足の少し手前でほどけ、薄い水の膜になって砂の上を滑ってきた。猫は動かない。膜はそのまま猫の足先をかすめ、また海へ戻っていった。

猫は、自分の前足をじっと見つめていた。

しばらくして、猫はゆっくりと腰を上げた。それから、右の前足を、そっと前へ出した。

波が引いたあとの、濡れて光る砂の上に、肉球がやさしく触れる。ほんの一瞬、猫の背中がこわばった。水の冷たさに驚いたのだと思う。でも、猫は足を引っ込めなかった。

次の波が来た。

透きとおった水が、猫の前足を包んだ。指のあいだを水が通り抜けていく。足の甲の白い毛が、水の中でふわりと揺れた。猫は目を細め、ひげを小さく震わせた。

怖いものを確かめるときの顔ではなかった。

世界の端っこに、そっと挨拶をしているような顔だった。

波が引く。足もとの砂が、さらさらと崩れていく。猫は首をかしげて、その感触を味わっているようだった。それからもう一度、同じ前足を水の中へ戻した。

わたしは、いつのまにか息をひそめていた。

朝の光は少しずつ高くなっていく。水面に細かな光の粒が散らばり、猫の影が砂の上にやわらかく伸びた。遠くで、海鳥がひとつ鳴いた。

思えば、わたしはずっと、急いでばかりいた。

何かを確かめるときも、何かに触れるときも、早く結論を出したくて、深く考える前に動いていた。うまくいかないと、次はもっと上手にやろうと、さらに力を入れた。

けれど目の前の猫は、たった一歩を、こんなにも丁寧に踏み出している。

冷たいかもしれない。思っていたのと違うかもしれない。それでも、前足をそっとのせてみる。波が来たら、そのまま受けとめてみる。

それだけのことなのに、胸の奥のこわばりが、波にほどかれるように少しずつゆるんでいった。

しばらくして、猫は満足したように前足を水から上げた。足先を軽く振って、水滴を砂に散らす。それから、ゆっくりとこちらを振り返った。

目が合った。

琥珀色の瞳は、朝の海をそのまま映したように澄んでいた。猫は何も言わず、ただ静かにまばたきをひとつした。

それだけで、十分だった。

猫はまた海のほうへ向き直り、波打ちぎわに腰を下ろした。わたしも、少し離れた砂の上に腰を下ろした。

波の音は、変わらず続いている。

寄せて、ほどけて、引いていく。

透きとおった浅瀬の向こうで、空と海の境目が、ゆっくりと淡くにじんでいった。

もし今、何かに疲れているなら。

遠くの海を思い浮かべて、猫が前足をそっとのせた、あの波打ちぎわを想像してみてほしい。冷たすぎず、強すぎず、ただやさしく寄せては引いていく水の感触を。

急がなくても、いい。

最初の一歩は、足先だけで、十分なのだから。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

PR
コータのAmazonページへ


コータのAIイラスト、Xページへ


コータのユーチューブページへ

よろしければ、
のぞいてみてください