朝から降りはじめた雨は、昼を過ぎても止む気配がなかった。
古い家の二階、東向きの小さな窓。その窓辺には、いつからか決まった席ができている。出窓の板の上に畳んだ薄手のブランケットを敷いただけの、ささやかな特等席だ。
そこに、黒猫のクロが座っている。
艶のある毛並みは、曇り空の光を受けて深い藍色にも見えた。背筋をすっと伸ばし、窓ガラスに顔を寄せて、じっと外を見ている。いや、正確には外ではなく、ガラスそのものを見ているのだと、しばらくして気がついた。
ガラスの表面には、無数の水滴がついていた。
大きいもの、小さいもの。丸いもの、少し歪んだもの。ひとつの粒が重みに耐えきれなくなると、ふいに動きだして、ゆっくりと下へ滑りおちていく。途中で別の粒とぶつかると、ふたつは溶け合って、すこし太い筋になり、さっきより速く流れていく。
クロの視線は、その一粒を追っていた。
首がわずかに傾く。瞳孔がまあるく開いて、金色の目が水滴の光を映している。粒が下がるにつれて、鼻先も、ゆっくり下へ。窓枠の近くまで来たところで、水滴はすうっと細くなり、消えた。
クロは、はっとしたように瞬きをした。
それから、少しだけ首をかしげて、また上のほうへ視線を戻す。次の水滴を探しているのだ。
その様子があまりに真剣で、わたしは手にしていたマグカップを持ったまま、しばらく動けなくなっていた。湯気がやわらかく立ちのぼって、窓ガラスの下のほうをうっすら曇らせる。クロの息も、ガラスにちいさな白い丸をつくっていた。
雨の音は、思っていたよりずっとやさしい。
屋根をたたく音は遠く、軒先から落ちる雫は一定のリズムで、とん、とん、と鳴っている。時計の針の音と、雨だれの音と、クロの喉から聞こえるかすかなごろごろ。この部屋にあるのは、それだけだった。
ふと、クロの尻尾がゆらりと動いた。
先のほうだけが、ゆっくり、左右に。獲物を狙うときのような鋭さはない。気持ちがほどけているときの、おだやかな揺れかただ。
窓の外では、庭の南天の葉が雨をうけて、ときどき小さく跳ねていた。赤い実の上にも水滴がのっている。けれどクロは、そちらには目もくれない。彼女にとっての今日の世界は、この窓ガラスの一枚に、ぎゅっとおさまっているらしい。
考えてみれば、わたしたちはいつも、遠くばかりを見ている。
先の予定、終わっていない仕事、返しそびれたメッセージ。目の前のガラスを伝う水滴の行方なんて、最後に追いかけたのはいつだっただろう。
わたしは、クロの隣にそっと腰をおろした。
ブランケットの端に座ると、クロは一瞬だけこちらを見て、すぐにまた窓へ視線を戻した。邪魔じゃないよ、と許してもらえたような気がして、わたしも同じように、ガラスの上の一粒を選んで目で追ってみる。
つう、と一度止まって、ためらうように揺れて、それから、すうっと。
隣の粒と出会って、ひとつになって、少し速くなって。
ただそれだけのことなのに、胸の奥のほうが、静かにほどけていくのがわかった。
しばらくすると、クロが小さくあくびをした。
大きく開いた口から、ちらりとのぞく桃色の舌。目がとろんと細くなって、まぶたが重たそうに下がっていく。それでも彼女は、最後まで水滴を追うのをやめなかった。うとうとしながら、薄く開けた目で、ガラスの上の光を見ている。
やがて、頭がこてんと窓枠にあずけられた。
雨は、まだ降っている。
けれど、もうそれを「憂うつ」と呼ぶ気にはなれなかった。灰色の空も、湿った空気も、窓を曇らせる湯気も、すべてがこの午後のためにそろえられた小道具のようだった。
マグカップのなかのお茶は、すっかりぬるくなっている。それでも、わたしは動かなかった。
ガラスを伝う水滴は、ひとつ、またひとつと流れていく。
その行方をただ見つめるだけの時間が、こんなにも贅沢なものだったなんて。
秋雨の窓辺で、黒猫と並んで過ごした午後。
雨音のなかで、世界はとても小さく、そして、とてもやさしかった。
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