その日、仕事を終えて外へ出ると、空がいつもより少しだけ高く見えた。
理由もなく足が海のほうへ向いた。ポケットに手を入れたまま、堤防沿いの道をゆっくり歩く。潮の匂いが風に混じって、髪をやわらかく揺らしていく。
砂浜に降りる階段の途中で、ふと足が止まった。
空が、茜色だった。
燃えるような赤ではない。熟した柿の色にも、遠い灯りの色にも似た、あたたかい色だ。その色が水平線のあたりから空いっぱいに広がって、上のほうでは薄い紫に溶けている。雲のふちだけが金色にほどけていた。
波打ち際まで歩いていくと、足もとの砂がしっとりと冷たい。寄せては返す波の音が、一定のリズムで耳をなでていく。
その波の上に、光の道がのびていた。
沈みかけた夕日から、まっすぐこちらへ。水面がきらきらと細かく揺れて、まるで誰かが一本の金色の道を敷いてくれたみたいだった。波が寄せるたびに道は少し形を変えて、それでも消えずに、ずっと足もとまで続いている。
しばらく、何も考えずに眺めていた。
今日あったことも、明日のことも、ぜんぶ波が遠くへ連れていってくれる気がした。
そのときだった。
少し先の砂浜に、小さな影があるのに気づいた。
黒猫だった。
光の道の正面、波が届くか届かないかの場所に、背中をこちらに向けてすわっている。夕日を浴びた毛並みの輪郭が、うっすらと金色に縁取られていた。しっぽはきちんと前足にそろえられて、耳だけがときどき、波の音を拾うように小さく動く。
どこから来たのだろう。首輪はない。けれど、慌てた様子も、人を探す様子もなかった。ただ静かに、同じ空と同じ光の道を見つめている。
その後ろ姿が、なんだかとても満ち足りて見えた。
何かを欲しがるでもなく、誰かを待つでもなく、ただ今この時間をそのまま受けとっている背中だった。
私は少し離れた場所に腰を下ろした。砂が思ったよりもあたたかくて、一日の疲れがすこしずつ抜けていく。猫は振り返らない。けれど、私がそこにいることは、きっとわかっているのだと思う。
波が寄せる。引いていく。
光の道が、ゆっくりと細くなっていく。
空の茜色は少しずつ深くなって、水平線の近くでは、赤と橙と紫が静かに混じり合っていた。
やがて、黒猫がすっと立ちあがった。
伸びをひとつして、砂の上を数歩進む。それから、いちど光の道のほうを見つめて、ゆっくりと歩きはじめた。夕日に向かって、小さな足跡を砂浜に残しながら。
遠ざかっていく黒い背中が、茜色の空にくっきりと浮かんでいた。
私はその姿を、見えなくなるまで見送った。
夕日が水平線に触れて、光の道がふっと消えたとき、不思議と寂しさはなかった。空にはまだ、あたたかい色が残っている。
立ちあがって、膝の砂をはらった。
帰り道の足取りは、来たときよりも少し軽かった。
背中だけで語るような静けさが、胸の奥にいつまでも灯っていたからかもしれない。
また疲れた日には、ここへ来よう。
茜色の空と、波打ち際にのびる光の道。
そして、あの小さな後ろ姿に会えるかもしれない場所へ。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
PR
コータのAmazonページへ
コータのAIイラスト、Xページへ
コータのユーチューブページへ
よろしければ、
のぞいてみてください









