春の終わりに近いころ、
男の子はお母さんと一緒に、
ふじの花が咲く回廊へ出かけました。
頭の上には、
紫色の花がたくさん垂れ下がっていて、
まるで空からやさしい雨が
降ってきているみたいでした。
男の子は、
「すごいなあ」
と小さくつぶやきました。
ふじの花は、
風が吹くたびに少しだけ揺れて、
甘いにおいをあたりに広げていました。
歩いている人たちも、
みんな少し声を小さくしていました。
きれいすぎる場所では、
人は自然と静かになるのかもしれません。
男の子は、
ふじの花の下をゆっくり歩きながら、
足元に落ちた花びらを見ていました。
そのときです。
回廊の奥のほうから、
一匹の黒い猫が、
音もなく歩いてきました。
黒い猫は、
つやつやした毛をしていて、
紫の花の下にいると、
夜のかけらが
そこだけ歩いているように見えました。
男の子は立ち止まりました。
猫も立ち止まりました。
ふたりは少しのあいだ、
じっと見つめ合いました。
黒い猫の目は、
ふじの花の光を映して、
少しだけ金色に光っているようでした。
男の子がそっと近づくと、
猫は逃げませんでした。
ただ、
しっぽをゆっくり動かして、
男の子のほうを見ていました。
「きみも、
この花を見に来たの?」
男の子が小さな声で聞くと、
黒い猫は返事のかわりに、
ふじの回廊の奥へ歩き出しました。
男の子は、
なぜかそのあとを追いかけたくなりました。
猫は急ぐわけでもなく、
止まるわけでもなく、
ふじの花の影の中を
すべるように進んでいきました。
紫の花房のすきまから、
やわらかな光が落ちてきます。
黒い猫の背中にその光が当たると、
小さな星が乗っているみたいでした。
男の子は、
ここがいつもの世界なのか、
少しだけわからなくなりました。
回廊のいちばん奥で、
黒い猫はふり返りました。
そこには、
少しだけ開けた場所がありました。
ふじの花が丸く屋根のようになっていて、
地面には紫の花びらが
静かに敷きつめられていました。
男の子は息をのみました。
「ここ、
猫だけが知ってる場所なのかな」
そう言うと、
黒い猫はゆっくりまばたきをしました。
それは、
うん、と言っているようにも、
ひみつだよ、と言っているようにも見えました。
男の子はしゃがんで、
その景色をじっと見ました。
花の香り。
風の音。
遠くから聞こえる人の声。
そして、
目の前にいる黒い猫。
全部がひとつになって、
小さな物語みたいでした。
やがて黒い猫は、
ふじの花の影の中へ
また静かに歩いていきました。
男の子は、
「またね」
と小さく手を振りました。
黒い猫は振り返らなかったけれど、
しっぽだけを少し揺らしました。
それだけで、
ちゃんと返事をしてくれた気がしました。
帰り道、
男の子は何度もふじの回廊を振り返りました。
もう黒い猫の姿は見えません。
でも男の子には、
あの猫が今もどこかで、
紫の花の下を歩いているように思えました。
きれいな場所には、
ときどき不思議な出会いがある。
ふじの花が揺れるたびに、
男の子はきっと思い出すでしょう。
あの日、
ふじの回廊で出会った、
夜のかけらみたいな黒い猫のことを。
※この記事には広告(アフィリエイトリンク)が含まれています
ここまで読んでくれて、ありがとうございます。
楽天ブックス
よろしければ、
そっとのぞいてみてください。









