一 夜の海へ
秋の夜は、昼の音を少しずつ脱いでいく。
仕事を終えて家に帰ったのは、二十一時を過ぎた頃だった。玄関の灯りをつけると、足もとに大きな影がのそりと近づいてきた。メインクーンのクロードだ。ふさふさの尻尾を立てて、「にゃ」とも「ぐるる」ともつかない低い声で、私の脛に頭をぐりぐりと押しつけてくる。
「ただいま。今日も遅くなったね」
そう言うと、クロードは返事のかわりに、窓の外をじっと見た。
カーテンの隙間から、白い光が細く差し込んでいた。月だ。今夜はいつもより、やけに明るい。
二 上着を羽織って
少し迷ってから、私は厚手のカーディガンを羽織った。
家から海までは、歩いて十分ほど。疲れている夜に、わざわざ出かける理由なんてない。それでも、あの光の下をただ眺めるだけで終わらせるのは、なんだかもったいない気がした。
靴を履いていると、背中に気配を感じた。振り返ると、クロードが玄関マットの上にきちんと座っている。大きな体を丸め、琥珀色の目でこちらを見上げていた。
「……来る?」
クロードは、すっと立ち上がった。
メインクーンは「犬のような猫」とも言われるけれど、本当にそうだと思う。私が肩にかけたキャリーの中へ、少しも嫌がらずに入ってくれた。ずっしりとした重みが、肩に心地よい。
三 月の道
外に出ると、空気がひんやりしていた。
昼間の湿り気はもうなくて、澄んだ冷たさが頬をなでていく。街灯のない路地に入ると、足もとに自分の影がくっきりと伸びていた。月明かりは、こんなに影をつくるものだったのか。
道ばたの草むらから、虫の声がかすかに聞こえた。夏の盛りのような勢いはなく、「まだいますよ」と小さく知らせてくれるような声だった。
キャリーの網目から、クロードが鼻先を出している。ひげがぴくぴくと動いて、秋の夜のにおいを確かめているようだった。
「いいにおいする?」
答えはない。でも、その横顔はいつになく穏やかに見えた。
四 波の音
坂をくだりきると、ふいに視界がひらけた。
海だった。
黒く広がる水面の上に、月が真っ白な道をつくっていた。その道は、遠くの水平線から、まっすぐ私の足もとまで続いている。誰かが静かに敷いてくれた銀色の絨毯みたいだった。
そして、音。
ざざ、ざあ、と寄せては返す波の音は、昼間よりずっと小さかった。大きな声で語りかけてくるのではなく、耳もとで、ゆっくりと息をしているような音だった。
私は防波堤の端に腰をおろし、キャリーをそっと膝の上に置いた。ファスナーを開けると、クロードはためらうことなく外に出て、私の隣にどっしりと座った。
五 並んで見る海
しばらく、私たちは何も話さなかった。
話す必要がなかったのだと思う。
月の光に照らされたクロードの毛並みは、いつもより少し白っぽく、銀色の縁取りをまとっているように見えた。風が吹くたびに、長い毛がふわりと揺れる。首まわりのたてがみが、まるで小さな波のようだった。
海から吹く風は、ほんのり塩の香りがした。
昼間に抱えていた小さなモヤモヤ。会議で言いそびれたひとこと。返しそびれたメッセージ。明日の朝の憂うつ。そういうものが、波の音にひとつずつ洗われて、どこかへ運ばれていく気がした。
誰かに慰めてもらったわけでもない。答えが出たわけでもない。ただ、静かな海と、静かな波音と、隣にいる体温のある猫。それだけで、胸の奥の硬くなっていた部分が、すこしずつほどけていった。
六 クロードの尻尾
ふと、膝に温かいものが触れた。
クロードが、ふさふさの尻尾を私の膝の上にそっと乗せていた。
偶然かもしれない。猫にとっては、ただ座りやすい姿勢だっただけかもしれない。でも私は、その重さと温かさを、ありがたく受け取ることにした。
そっと背中をなでると、クロードは喉の奥で、ごろごろと低い音を鳴らしはじめた。
波の音と、喉を鳴らす音。ふたつの音が、秋の夜のなかで重なっていく。どちらも一定のリズムで、どちらも急がない。聞いているうちに、自分の呼吸まで、そのリズムに合わせてゆっくりになっていくのがわかった。
月は、少しずつ高い場所へ移っていた。
七 帰り道
どれくらい、そこにいただろう。
気づけば、手の先がすっかり冷えていた。クロードの背中だけが、いつまでも温かい。
「そろそろ帰ろうか」
そう声をかけると、クロードは名残惜しそうに海のほうをもう一度見て、それから自分から、キャリーの中へ戻っていった。
帰り道、月は私たちの背中を照らしていた。行きとは反対に、影が前へ伸びていく。その影の横に、小さなキャリーを下げた影が、ゆらゆらと並んで歩いていた。
遠くなっていく波の音は、最後まで穏やかだった。
八 おわりに
特別なことは、何も起きなかった。
けれど、そういう夜こそ、あとからじんわりと思い出すのだと思う。
月明かりの海。静かな波音。膝に乗った大きな尻尾のぬくもり。
秋の夜長に、もし心がすこし疲れていたら、近くの海や川べりまで、ほんの少しだけ歩いてみてほしい。隣に猫がいれば、なおいい。いなくても、きっと月と波が、静かに寄り添ってくれるから。
今夜もどこかで、メインクーンが、やさしい月を見上げていますように。
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