2026年2月27日金曜日

キリギリスの声は

夏の終わりの草むらで、キリギリスが鳴いていた。

乾いた風が、背の低い草を波のように揺らす。
その奥で、細い羽をこすり合わせる小さな音が、夕暮れに溶けていく。

昼の主役はセミだった。
空を震わせるような声で、世界を満たしていた。
けれど太陽が傾くころ、舞台はそっと引き継がれる。

キリギリスの声は、高く、静かで、どこか慎ましい。
耳を澄まさなければ、すぐに夜に紛れてしまう。

それでも、鳴く。

派手さはない。
誰かに賞賛されるわけでもない。
ただ、自分の時間がここにあると、細い音で示す。

草むらのそばを通る少年は、立ち止まった。
今日のテストの点数。
友だちの何気ない一言。
胸の奥に引っかかった小さな棘。

キリギリスは、変わらず鳴いている。
大きな世界の隅で、消えそうで消えない音を刻み続ける。

「目立たなくてもいいのかもしれない」
少年は、ふと思う。

セミのように叫べなくても、
風のように速くなくても、
この小さな震えは、確かに夜を支えている。

やがて空は群青に染まり、星がひとつ瞬く。
キリギリスの声は、夜の輪郭をなぞるように続いていく。

草の影の中で、小さな体はひっそりと息づいている。
派手ではないけれど、確かな存在。

少年はゆっくり歩き出す。
胸の棘は、少しだけ丸くなっていた。

キリギリスは鳴き続ける。

目立たない音で、
世界をそっと、やさしく、支えながら。

セミ

夕暮れの公園で、セミがひとつ鳴いていた。

夏の終わりを告げるような、少しだけかすれた声だった。
昼間の勢いはなく、それでも確かに、ここにいると世界に伝えている。

地面の下で過ごした長い時間。
暗く、静かで、誰にも見つからない年月。
それでもセミは、外の光を信じていた。

やっと地上に出てきたとき、世界はまぶしすぎた。
風は強く、空は高く、命は思ったより短いと知る。

それでも、鳴く。

意味があるかどうかなんて、考えない。
ただ、胸いっぱいの震えを、声に変える。

公園のベンチでひとり座っていた青年は、その声を聞いていた。
仕事帰りの重たい鞄。
うまくいかなかった一日。
誰にも言えない小さな後悔。

セミは鳴き続ける。
まるで、「それでもいい」と言うみたいに。

完璧じゃなくていい。
長く生きられなくてもいい。
短い時間でも、全力で震えれば、それは確かな存在になる。

やがて、声はふっと途切れた。
公園に静けさが戻る。

青年は顔を上げる。
さっきまで騒がしかった世界が、なぜか少しだけ優しく感じる。

地面の近く、小さな体が横たわっていた。
風がそっと葉を揺らす。

セミは、自分のすべてを鳴ききったのだ。

誰かに褒められるためでもなく、
歴史に残るためでもなく、
ただ、生きていることを、最後までやりきるために。

青年は立ち上がる。
鞄の重さは変わらない。
けれど足取りは、ほんの少しだけ軽かった。

夏の終わりの空に、まだ消えきらない声の余韻が残っている。

それはきっと、
命が震えた証だった。

やさしい怪獣

夕暮れの街に、やさしい怪獣が現れた。

誰もその足音を聞かなかった。
ビルとビルのあいだに沈むオレンジ色の空を、そっと揺らすだけの、静かな重さだったからだ。

怪獣は大きかった。
雲に届きそうな背中、電線をくすぐる長いしっぽ。
けれどその目は、雨上がりの水たまりみたいに、どこまでも澄んでいた。

人々は最初、逃げた。
ニュースは騒ぎ、SNSは燃え、画面の向こうで言葉が飛び交った。
「危険だ」「街が壊れる」「早く排除しろ」

怪獣は、ただ立っていた。

逃げ遅れた子どもがひとり、交差点の真ん中で泣いていた。
信号は赤のまま変わらない。
車は止まり、世界は固まる。

怪獣はゆっくりと膝をついた。
アスファルトが少しだけひび割れる。
けれど、その大きな手のひらは、そっと風を起こしただけだった。

子どもを包むように、ビル風を遮り、
怖くないよ、と言う代わりに、あたたかい影を落とした。

泣き声は、やがて止んだ。

怪獣は、人の言葉を持たなかった。
だから壊さないことで、気持ちを伝えた。
踏みつぶさないことで、意思を示した。

夜になると、怪獣は街の外れの川辺に座った。
川面に映る自分の姿を、少しだけ寂しそうに見つめる。

本当は、触れたかった。
本当は、話したかった。

でも、その体は大きすぎた。

翌朝、怪獣は姿を消していた。
どこにもいない。
ただ、倒れているはずだった古い橋が、なぜか補強されていて、
枯れていた公園の木に、少しだけ緑が戻っていた。

誰も気づかない。
あれは怪獣が、夜のあいだに、そっと直していったことを。

街はまた、いつもの速度で動き出す。
ニュースは別の話題を追い、
人々は忙しく、やさしさを忘れそうになる。

けれど、風がやわらかく吹く日、
ビルの窓が夕日にきらめく日、
ふと、あの大きな影を思い出す人がいる。

壊す力よりも、守る力のほうが、
ほんとうはずっと強いのだと。

やさしい怪獣は、
いまもどこかで、
誰にも踏まれないように、小さなものをかばっている。

トンボの栞(しおり)

秋の午後、本を開くと、なぜかトンボを思い出す。
ページのあいだに挟んだ細い栞が、光を受けてきらりと光ると、
それが一瞬、透明な羽に見えるのだ。

子どものころ、図書館の帰り道で赤いトンボを追いかけたことがある。
手を伸ばせば届きそうで、けれど決して触れられない距離。
捕まえたいというより、ただ、同じ方向へ歩いてみたかった。

読書も少し似ている。
物語の背中を追いかける。
登場人物の気持ちをつかまえたくて、行間に目を凝らす。
けれど本当に大事なものは、指のあいだからすり抜ける。
だからこそ、もう一度ページをめくる。

トンボは、前にしか進めないと言われる。
後ろに飛べないから「勝ち虫」と呼ばれた、と祖父が話していた。
その話を聞きながら読んだ歴史小説の重みを、今でも覚えている。
物語の中の人々も、きっと後ろへは戻れなかったのだろう。
選び、進み、失いながら。

本を閉じるとき、少しだけ胸が軽くなる。
トンボがふっと風に乗るように、
心のどこかが浮き上がる。
それは答えを得たからではなく、
進むしかないと静かに覚悟するからかもしれない。

夕焼け空を横切るトンボの影。
あれは、誰かの読書の跡のようにも見える。
目には見えないけれど、確かにそこを通った証。

今日も本を開く。
すぐに何かが変わるわけではない。
けれど、ページのあいだに挟んだ栞は、
小さな羽の形をしている。

気づかないうちに、
わたしもまた、前へ飛んでいるのかもしれない。

毛虫のしおり

本を開くと、ときどき毛虫を思い出す。
なぜ毛虫なのか、自分でもよくわからない。
けれどページの端をゆっくりと指でなぞると、あの小さな体の動きに似ている気がするのだ。

子どものころ、公園のベンチで本を読んでいた。
風が吹き、桜の葉が揺れていた。
ふと視線を落とすと、足元に一匹の毛虫。
黒と緑が混じった、小さな命。
嫌悪よりも先に、「どこへ行くんだろう」という疑問が浮かんだ。

毛虫はまっすぐ進まない。
止まり、縮み、また伸びる。
まるで迷いながら、それでも前へ進む読者のようだった。

あの日読んでいたのは、少し難しい小説だった。
背伸びして選んだ一冊。
言葉はすぐには頭に入らず、意味は霧の中にあった。
それでもページをめくるのをやめなかったのは、あの毛虫の姿を見ていたからかもしれない。

本も毛虫も、すぐには飛ばない。
羽ばたくのは、ずっとあとだ。
読むという行為は、地面を這う時間なのだと思う。
理解できない段落。
眠くなる午後。
同じ行を何度も目でなぞる夜。
それでも、少しずつ体の内側に何かが積もっていく。

やがて季節が変わり、毛虫は蝶になる。
けれど、その瞬間を人はなかなか見られない。
気づいたときには、もう空を舞っている。

本も同じだ。
読んだ直後には何も変わらない。
けれど数年後、ふとした選択の場面で、あの一文が羽になる。
言葉が、背中を押す。

あの公園の毛虫は、無事に蝶になれただろうか。
それはわからない。
けれど、あの日の読書体験は、たしかに今の自分のどこかに羽を残している。

だから今日も本を開く。
すぐに飛べなくてもいい。
ゆっくりでいい。
縮んで、伸びて、また進めばいい。

ページの上を、静かに這うように。
やがて来る羽化の時を、信じながら。

本の森のテントウムシ

ぼくはテントウムシ。赤い背中に黒い点がある。

今日は古い本棚の森を散歩する。
背表紙の間をぬけ、紙の葉っぱの海を渡る。
ページの草が風に揺れて、小さな羽音が響く。

ある章の隙間で、文字の群れがざわめいた。
どうやら、今日は冒険の話らしい。
ぼくはそっと羽を広げ、文字の谷を飛び越える。
小さな体で、文字の森の迷路を進む。

ページの端から端まで、しおりの橋を渡る。
時々、文字の波に揺られてひっくり返りそうになるけど、
文字たちがそっと背中を支えてくれる。
ぼくはその静かな応援に勇気をもらう。

章の最後にたどり着くと、
そこには空白の湖が広がっていた。
ぼくは羽でそっと水面を撫でる。
文字の光が波に踊り、物語の世界がきらめく。

時間は止まり、ぼくだけの王国が広がる。
しばらく湖の上で羽を休め、文字の世界に耳をすます。

やがて外の風がページを揺らす。
ぼくはそっと羽をたたみ、水面に映る自分を見つめる。
「また明日も、この物語の森を飛ぼう」と、つぶやく。

文字たちのざわめきが、ぼくの冒険を祝福しているみたいだった。

カマキリの話

ぼくはカマキリ。名前はまだない。

今日もいつもの本棚の森を歩く。
古い背表紙の谷を越え、紙の葉っぱを踏みしめて進む。
ページの森は広くて、文字の草が風に揺れている。

あるページで、文字の群れがざわめいた。
どうやら、この章は勇者の物語らしい。
ぼくはそっと前脚を伸ばし、冒険者たちの足跡を辿る。
小さな体で、彼らの世界の隙間をぬって進む。

ページの谷を飛び越え、しおりの橋を渡る。
時々、ページの波に揺られて転びそうになるけど、
文字の風が背中を押してくれる。
文字たちはぼくをじっと見守っている気がする。

そして、章の終わりに辿り着くと、
そこには静かな空白の湖が広がっていた。

ぼくは前脚で水面を撫でると、
文字の世界の反射が揺れ、物語の光が波に踊る。
ここでは時間が止まり、ぼくだけの王国が広がっていた。

やがて、外の世界の風がページを揺らす。
ぼくは湖の水面に映る自分を見て、そっとつぶやいた。

「また明日も、物語を歩こう」

カサカサと葉っぱの音が、
ぼくの冒険を祝福しているみたいだった。