2026年9月15日火曜日

アレチウリとマンチカン

アレチウリとマンチカン

土手の草はもう秋の色をしていた。青々としたものと、枯れかけたものが入り混じって、風が吹くたびにざわざわと音を立てる。その中に、アレチウリの蔓が我が物顔で伸びていた。他の草に絡みつき、覆いかぶさり、まるで緑の網をかけたように土手全体を包み込んでいる。

マンチカンの「もち」は、その土手のふもとに住み着いていた。短い脚で草むらをかき分けるのは得意ではなかったが、それでも毎日同じ時間に、同じ場所へやってきた。理由は誰も知らない。もちにとっても、それはただの習慣だったのかもしれない。

ある日、もちはアレチウリの蔓に前足を乗せた。ふわりとした緑の塊は、思ったより弾力があって、押すとゆっくり沈み込む。もちは何度もその感触を確かめるように、前足でぽん、ぽん、と叩いた。まるで蔓の下に何か生き物が隠れているのを探るように。

蔓の白い小さな花が、風にゆれていた。もちはその花に鼻を近づけ、くん、と匂いを嗅ぐと、少しだけ顔をしかめた。気に入らなかったのか、それとも単に見慣れないものへの警戒だったのか。しばらくその場に座り込み、蔓の広がりをじっと眺めていた。

土手を歩く人はほとんどいない。たまに自転車が通り過ぎるくらいで、あとは風とアレチウリと、もちだけの時間が流れていた。蔓はその日も少しずつ長さを伸ばし、隣の草を飲み込もうとしていた。もちはそれを止めるでもなく、ただ横で丸くなって、日向ぼっこをしていた。

夕方になると、蔓の影が長く伸びて、もちの体の上に模様を描いた。もちは目を細めて、その影の揺れを追いかけていた。追いかけて、追いつけなくて、また目を細める。それだけの遊びを、飽きることなく繰り返していた。

やがて日が沈み、土手は静かになった。アレチウリの蔓は闇の中でも変わらず伸び続け、もちは短い脚を折りたたんで、蔓のそばで丸くなった。誰にも気づかれない場所で、雑草と猫だけが、同じ時間を分け合っていた。

明日もまた、もちはこの土手にやってくるだろう。アレチウリはさらに広がり、もちはまた前足でそれを叩くだろう。何かが変わるわけではない。それでも、その繰り返しの中に、小さな確かさがあった。


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黒猫の散歩道

黒猫の散歩道

夕暮れ時になると、決まってその黒猫は姿を現す。

古びた本屋の裏手から続く、細い石畳の道。両脇には蔦の絡まる塀が続き、昼間でも薄暗いその道を、黒猫はまるで自分の庭のように悠然と歩いていく。誰がつけたのか、近所の人々はその道を「黒猫の散歩道」と呼んでいた。

私が初めてその猫に出会ったのは、閉店間際の古本屋で一冊の詩集を探していたときだった。店主に道を尋ねると、彼は本から顔も上げずにこう言った。

「裏の路地を抜けるといい。ただし、黒い猫がいたら道を譲ってやってくれ。あれはこの辺りの主のようなものだから」

半信半疑のまま裏路地へ足を踏み入れると、本当にそこには一匹の黒猫がいた。艶やかな毛並みが夕日を受けて、まるで濡れたインクのように光っている。猫はちらりとこちらを一瞥すると、何事もなかったかのように歩みを進めた。

私はなぜか、その後ろをついていきたくなった。

黒猫の歩調はゆっくりとしていて、急ぐ様子は微塵もない。時折立ち止まっては、塀の隙間から差し込む光の筋に鼻先を近づけたり、落ち葉の匂いを確かめるように顔を寄せたりする。まるで、この道そのものを味わっているようだった。

道の途中には小さな祠があり、黒猫はそこで必ず一度足を止める。祠の前に座り込み、じっと目を閉じる姿は、まるで何かに祈りを捧げているようにも見えた。人間が忘れかけている「立ち止まる」という行為を、この猫は当たり前のようにやってのける。

やがて道の終わりに小さな公園が見えてきた。ブランコが一つ、錆びた滑り台が一つ。黒猫はベンチの上に飛び乗ると、そこでようやく私の方を振り返った。金色の瞳が、静かにこちらを見つめている。

「ここまでか」

そう言われた気がして、私は思わず苦笑した。猫に道案内をされるなど、思いもよらないことだった。

それから私は、時々その散歩道を歩くようになった。急ぎ足で通り過ぎるだけの日もあれば、黒猫の真似をして、ふと足を止めて光の筋を眺める日もある。不思議なことに、そうしているうちに、日々の疲れが少しずつ解けていくのを感じた。

黒猫の散歩道は、地図には載っていない。けれど、あの猫についていけば、きっと今日も同じ景色に出会えるはずだ。急がなくていい。立ち止まってもいい。そんなことを、あの黒猫はいつも静かに教えてくれる。

本を閉じるように一日を終える前に、少しだけ寄り道をしてみたくなる。そんな散歩道が、この町にはある。


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箸とメインクーン

箸とメインクーン

古い木造アパートの一室に、一膳の箸が置いてある。

漆の剥げかけた、なんの変哲もない箸だ。持ち主が引っ越してから、もう三ヶ月が経つ。テーブルの上に忘れられたまま、誰にも使われることなく、窓から差し込む光の角度だけを頼りに一日を数えていた。

そこへ現れたのが、隣の空き部屋から迷い込んできた一匹のメインクーンだった。

体は大きく、毛はふさふさとして、まるで小さなライオンのようだった。人懐っこいのか、それとも単に興味本位なのか、その猫は開けっぱなしの窓からするりと入り込み、部屋の中をゆっくりと歩き回った。

そして、テーブルの上の箸に気づいた。

前足でそっと触れてみる。箸はころりと転がり、乾いた音を立てた。その音に驚いたのか、メインクーンは一歩下がり、それからまた興味深そうに近づいた。

しばらくの間、猫と箸は見つめ合っていた。動くはずのないものが動いたことに、猫は戸惑っているようだった。何度も前足でつつき、箸が転がるたびに、耳をぴくりと動かした。

やがて飽きたのか、メインクーンは箸のそばに寝そべった。大きな体を丸め、箸を挟むようにして眠り始めた。日差しが二つの影を重ね、部屋の中に静かな時間が流れていく。

使われなくなった道具と、行き場のない猫。どちらも、この部屋にとっては招かれざる客だったのかもしれない。けれどその午後だけは、まるで最初からそこにいたかのように、寄り添っていた。

夕方になり、風が出てきた。カーテンが揺れ、光が橙色に変わる頃、メインクーンはゆっくりと体を起こした。名残惜しそうに箸に鼻先を寄せると、来た時と同じように、窓の隙間からそっと出ていった。

残されたのは、また一膳の箸だけ。

けれど、さっきまでと同じ箸ではないような気がした。誰かに一度でも寄り添われたものは、少しだけ違って見える。そんな気がするのは、きっと気のせいではないのだろう。

窓の外では、夕焼けが静かに街を染めていた。


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アキノノゲシとマンチカン

アキノノゲシとマンチカン

 庭の隅に、今年もアキノノゲシが伸びた。誰かが種を蒔いたわけでもないのに、毎年同じ場所から茎を伸ばし、淡い黄色の花を細く咲かせる。背の高い雑草のようでいて、風が吹くたびに頼りなく揺れるその姿は、どこか気弱な誰かに似ていた。

 その茎の根元に、マンチカンの「まめ」がちょこんと座っていた。短い脚を折りたたみ、丸い背中を少し丸めて、花を見上げるでもなく、ただそこにいる。まめは昔からそうだった。何かに夢中になるというより、何かのそばに「いる」ことが好きな猫だった。

 九月も半ばを過ぎると、朝の光の角度が変わる。庭に差し込む光は真夏よりも斜めで、優しい。アキノノゲシの葉に光が当たると、葉脈が透けて、緑色の網目模様が浮かび上がった。まめはその模様を、少しだけ首をかしげて眺めていた。

 風が吹いた。花の先が揺れ、綿毛になりかけた種のかけらが一つ、まめの鼻先をかすめて飛んでいった。まめは目で追ったが、追いかけようとはしなかった。前脚をそっと伸ばして、地面についた種のかけらに触れただけだった。それだけで満足したように、また丸くなった。

 この家に越してきたばかりの頃、庭は何もない土の広場だった。誰も手入れをしていなかったから、雑草も生えなかった。それが数年経つうちに、風がどこかから種を運んできて、アキノノゲシが芽を出すようになった。呼んだわけでもないのに来てくれるものが、世の中にはあるらしい。まめもそうだった。保護猫の譲渡会で、他の猫たちが人目を気にして奥にいる中、まめだけがケージの手前に来て、じっとこちらを見ていた。呼んだわけではなかったけれど、来てくれた。

 夕方になると、アキノノゲシの黄色い花は少しだけ閉じ気味になる。日中いっぱいに開いていた花びらが、疲れたようにゆっくりとすぼまっていく様子を、まめはまた同じ場所で見ていた。短い脚のまま伸びをして、花の高さに合わせるように首を伸ばす。花のほうが少し高い。それでもまめは気にする様子もなく、ただ隣にいた。

 誰にも気づかれないところで、静かに咲いて、静かにしぼんでいく花がある。誰にも褒められなくても、ただそこにいることを選ぶ猫がいる。庭の隅の小さな景色は、そんな二つが並んでいるだけの、なんでもない時間だった。けれど、そのなんでもなさが、今日という日を少しだけ柔らかくしていた。

 やがて日が沈み、庭は薄い藍色に染まっていった。アキノノゲシの輪郭がぼんやりと闇に溶けていく中で、まめだけがまだそこに座っていた。花はもう見えなくなっていたけれど、まめは動かなかった。見えなくても、そこにあることを知っているから、それでよかったのかもしれない。


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2026年9月14日月曜日

野良猫の会議

野良猫の会議

夕方、空がオレンジ色から紫色へと変わりかけるころ、住宅街の隅にある小さな空き地に、一匹また一匹と猫たちが集まってくる。

最初に姿を見せたのは、片耳が少し欠けた茶トラだった。彼はいつも一番早くやってきて、コンクリートブロックの上に陣取る。まるでそこが自分の指定席だと言わんばかりに、堂々とした顔で座っている。

続いてやってきたのは、白黒のハチワレ猫。まだ若く、動きに落ち着きがない。茶トラの隣に座ろうとして、間合いを間違え、もう少し離れた場所に座り直した。

「今日も遅いな」

そう言いたげな顔で茶トラが空を見上げたところに、黒猫がゆっくりと姿を現した。長い尾をゆらゆらと揺らしながら、まるで議長の登場のような足取りで空き地の中央へと進む。

これが、毎晩この場所で開かれている「野良猫の会議」だ。誰が呼びかけたわけでもなく、誰が決めたわけでもない。いつからか、猫たちは日が暮れるとこの空き地に集まるようになった。

会議といっても、特に何かを話し合っているわけではない。猫たちはただ、それぞれの距離を保ったまま座り、たまに目を合わせ、たまに欠伸をする。時々、一匹が動くと、それに合わせて他の猫たちも少しだけ位置を変える。そんな、静かで緩やかな時間が流れていく。

キジトラの子猫が一匹、遠くからこの様子をじっと見つめている。まだこの会議に加わる勇気が出ないのか、電柱の陰から顔だけを出して、大人猫たちの様子をうかがっている。

黒猫がふと視線を子猫の方へ向けた。子猫はびくっと体を震わせたが、逃げることはしなかった。しばらく見つめ合ったあと、黒猫はまた前を向き、何事もなかったように座り直す。それだけのことだったが、子猫は少しだけ、空き地に近づいた。

空にはいつの間にか一番星が浮かんでいる。風が少し冷たくなってきた頃、茶トラが最初に腰を上げた。特に合図があったわけではないのに、それを見た他の猫たちも、ひとりずつ、ふたりずつと立ち上がり、それぞれの帰る場所へと歩き出す。

会議に議題はなかった。結論もなかった。ただ、同じ時間に同じ場所で、同じ空気を分け合っただけだった。それでも、猫たちにとってはそれが、一日の終わりに必要な何かだったのかもしれない。

明日の夕方も、きっとこの空き地には猫たちが集まってくるのだろう。そしてまた、誰にも聞かれることのない、静かな会議が始まる。


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白い猫と黒猫

白い猫と黒猫

古い商店街の角に、小さな古本屋があった。看板の文字はとうに色褪せて、扉を開けるたびに鈴の音が控えめに響く。その店の奥、埃をかぶった詩集の棚の下に、いつからか二匹の猫が住み着いていた。

一匹は真っ白な猫。もう一匹は夜そのもののような黒猫だった。誰が名付けたわけでもないが、店主は白い猫を「雪」、黒い猫を「墨」と呼んでいた。

雪はいつも窓辺の陽だまりで丸くなり、通りを眺めていた。人が本を選ぶ音、ページをめくる音、そういう静かな音が好きらしかった。一方の墨は、棚と棚の隙間にするりと入り込み、誰にも見つからない場所で本の匂いを嗅いでいるのが好きだった。二匹はまるで正反対の性格だったが、いつも決まって同じ場所で眠った。古びた詩集の隣、光と影がちょうど半分に分かれる場所で。

ある雨の日のことだった。客の少ない午後、雪が珍しく棚の奥へ入っていった。そこには墨がいて、一冊の古い本のページに前足をそっと乗せていた。表紙も題名もわからないほど傷んだその本を、墨はじっと見つめていた。雪はそばに寄り、同じように本を見た。二匹はしばらく、そうして並んでいた。

店主がふと様子を見に来たとき、二匹はもう本から離れて、いつもの陽だまりへ戻っていた。ただ、その本だけが、棚から少しだけ外へ出ていた。まるで誰かに読んでほしいと言っているように。

店主はその本を手に取り、埃を払って、レジの横に置いた。題名は「白い猫と黒猫」と、消えかけた文字でうっすら読めた。

雪と墨は、それからも変わらず陽だまりと棚の隙間で過ごした。光と影のように違う二匹だったが、同じ静けさを分け合っていることに、二匹はきっと気づいていた。

新しい記事ですね。「本」ジャンルのタイトルとして記録しておきます。他にも短編小説風の記事が必要になったら、いつでも声をかけてください。


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木の上にいるメインクーン

木の上にいるメインクーン

昼下がりの庭に、大きなクスノキが一本立っている。

その太い枝の上に、モカという名のメインクーンが座っていた。まるで木の一部のように、大きな体を枝に沿わせて、ふさふさの尾を垂らしている。遠くから見ると、灰色と白の毛並みが木漏れ日と混じり合って、猫だとわかるまで少し時間がかかるほどだった。

モカがこの木に登ったのは、ほんの小さな出来事がきっかけだった。庭に迷い込んできた一匹の蝶を追いかけていたら、気づいたときには幹の半分ほどの高さまで来ていたのだ。蝶はもう見えなくなっていたが、モカは登るのをやめなかった。もう少し、もう少しと爪をかけているうちに、いつのまにか一番太い枝の上にたどり着いていた。

そこから見える景色は、いつも庭で見ているものとは違っていた。垣根の向こうに続く道、隣の家の屋根、遠くにぽつんと見える電柱。風が吹くと葉がさらさらと音を立て、モカの髭がかすかに揺れる。高いところは、思っていたよりも静かだった。

しばらくすると、家の中から飼い主の声が聞こえてきた。「モカ、どこにいるの?」

モカは声のする方に耳を向けたが、動こうとはしなかった。降りる方法がわからなかったわけではない。ただ、この枝の上の時間を、もう少しだけ味わっていたかったのだ。木の上から見る自分の家は、いつもより少し誇らしげに見えた。

やがて庭に出てきた飼い主が、木の上のモカを見つけて笑い声を上げた。「そんなところにいたのね」

その声を聞いて、モカはようやくゆっくりと体を起こし、爪を幹に食い込ませながら一歩ずつ降り始めた。地面に降りたつと、モカは何事もなかったように飼い主の足に頭をこすりつけた。

木の上から見た景色のことは、モカだけの小さな秘密になった。


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アキノタムラソウとマンチカン

アキノタムラソウとマンチカン

 夕暮れが近づくと、庭の隅に咲くアキノタムラソウの花穂が、風に揺れて小さく音を立てるような気がする。実際には音などしないのだけれど、そのくらい静かで、そのくらい繊細な揺れ方をするのだ。淡い紫の唇形の花が、茎の先に段になって並び、初秋の光を受けて少しだけ濃く見える。

 その花のそばに、いつからか一匹のマンチカンが座るようになった。短い足を折りたたんで、まるで最初からそこにいたかのように収まっている。名前はまだ誰も知らない。この庭に迷い込んできたのか、それとも近所の家の子なのか、はっきりしたことは分からなかった。ただ、夕方になるとアキノタムラソウの花の横に現れて、じっと庭を見つめている。

 庭の主である老人は、その猫を追い払うこともせず、ただ縁側に腰掛けて眺めていた。

「今日も来たのか」

 老人がそう呟くと、マンチカンは短い足でゆっくりと体勢を変え、花の揺れる方向へ顔を向けた。風がアキノタムラソウの茎を撫でるたびに、紫の花穂がわずかに傾き、猫の耳がぴくりと動く。まるで花と猫が、何か言葉にならない会話をしているようだった。

 老人は若い頃、この庭で妻と何度も夕涼みをした。妻が好きだった花のひとつが、このアキノタムラソウだった。「秋になると、こんな控えめな紫が咲くのよ」と、彼女はいつも嬉しそうに言っていた。今はもう、その声を思い出すことしかできない。

 だが不思議なことに、猫が花の傍らに座るようになってから、庭の時間の流れが少し柔らかくなったように感じられた。誰かがそこにいる、という気配だけで、寂しさの角が丸くなる。マンチカンは特別なことをするわけではない。ただ座って、花を見て、時々あくびをする。それだけなのに、老人の一日の終わりに、小さな灯りがともるようだった。

 ある日、強い風が吹いて、アキノタムラソウの花穂が大きく揺れた。花びらがいくつか散り、猫の鼻先にひとひら落ちた。マンチカンは驚いたように顔を上げ、それから花びらの匂いを確かめるように、そっと鼻を寄せた。老人はその様子を見て、久しぶりに声を出して笑った。

「お前も、この花が気になるか」

 猫は答えるはずもなく、ただ短い尻尾をゆっくりと振った。それでも老人には、十分な答えのように思えた。

 秋が深まるにつれ、アキノタムラソウの花はやがて終わりを迎えるだろう。けれど、その季節が来るまでの間、マンチカンは変わらずそこに座り続けるに違いない。花と猫、老人と静かな庭。誰かに説明できるような大きな出来事は何も起きない。ただ、そこには確かに、穏やかな時間だけが積み重なっていく。

 夕暮れの光が薄紫の花にかかり、短い足の猫がその隣でまどろむ。それだけで、この庭はまだ、十分に美しいのだった。


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黒猫とアキノキリンソウ

黒猫とアキノキリンソウ

山の斜面に、黄色い花が群れて咲いている。名前をアキノキリンソウという。地味だけれど、秋の光を浴びるとどこか金色に輝いて見える花だ。

その斜面の下に、小さな祠があった。長い石段を上りきったところに、ぽつんと佇む古いお社。参る人もまばらで、苔むした狛犬が二体、静かに時を数えているだけだった。

そこに一匹の黒猫が住み着いていた。

誰が呼んだわけでもないが、近所の人々はその猫を「クロ」と呼んでいた。クロは祠の縁の下を寝床にして、日が高くなると決まってアキノキリンソウの咲く斜面に現れた。花の間に体を潜り込ませ、じっと動かずに耳だけを動かしている。何を待っているのか、誰も知らなかった。

ある年の九月、麓の町に暮らす老人が、久しぶりにその石段を上ってきた。膝が悪くなってからは足が遠のいていたが、亡くなった妻の月命日だけは欠かさなかった。

老人が息を切らして祠の前に立つと、黄色い花の海の中から、音もなく黒い影が現れた。クロだった。

「お前、まだここにおったんか」

老人がしゃがみこんで声をかけると、クロは警戒するでもなく、ゆっくりと歩み寄ってきた。そして老人の足元に体をこすりつけると、そのままアキノキリンソウの中に戻っていった。

老人はふと、亡き妻がこの花を好きだったことを思い出した。「地味だけど、健気でしょう」と、彼女はいつも斜面を見上げて言っていた。派手な花のように誰かに褒められるわけでもなく、それでも毎年律儀に、同じ場所で同じ色を咲かせる花。

老人は線香をあげ、手を合わせた。振り返ると、クロは花の中に座り込んだまま、こちらをじっと見つめていた。まるで、何もかも承知しているとでもいうように。

「また来るわ」

老人がそう言うと、クロはひとつ、大きなあくびをした。まるで「待っている」とでも答えるかのように。

風が斜面を撫でていく。アキノキリンソウが一斉に揺れて、黄色い波のようにさざめいた。その中心に、動かない黒い点がひとつ。

季節はめぐり、また来年もこの花は咲くだろう。そのときも、きっとこの猫は同じ場所で、誰かの帰りを待っているに違いない。


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橋とメインクーン

橋とメインクーン

古い石造りの橋が、川の上に静かに架かっていた。

いつ作られたのかは、もう誰も覚えていない。欄干には苔がびっしりと生え、隙間からは小さなシダが顔を出している。夏の終わりの午後、橋は西日を受けて、ほんのりと橙色に染まっていた。

その橋の真ん中に、一匹のメインクーンが座っていた。

大きな体、豊かな毛並み、そして少し眠たげな金色の目。名前はまだない。誰かに飼われているわけでもなく、かといって完全な野良猫でもない。この橋の周辺の人々は、いつからかその猫を「橋の主」と呼ぶようになっていた。

猫は毎日、決まった時間にこの橋にやってくる。そして、欄干の隙間から川面を見下ろし、じっと動かなくなる。

川は緩やかに流れていた。水面には夕方の光が反射し、細かな光の粒がいくつも揺れている。その光を、猫はいつまでも眺めていた。まるで、水の中に何か大切なものを探しているかのように。

橋を渡る人々は、猫に気づくと、たいてい足を止めた。

「あ、今日もいるね」

そう言って微笑む老婦人。毎朝この橋を渡って市場へ行く彼女は、猫のために小さな煮干しを持ち歩くようになっていた。猫はそれを、急ぐでもなく、ゆっくりと味わって食べる。まるで、時間というものをこの橋の上だけ、特別に長く使えるとでも知っているかのように。

「今日も橋の番、頑張ってるな」

自転車で通り過ぎる青年は、そう声をかけながらも決して立ち止まらない。それでも彼は、橋を渡るたびに必ず視線を猫に送った。まるでそこに猫がいることが、当たり前の風景の一部になっているかのように。

橋というものは、いつも二つの場所をつなぐためにある。こちら岸とあちら岸。過去と未来。誰かと誰か。

けれど、この猫にとって橋は、つなぐための場所ではなく、ただ「そこにいるための場所」だった。急いで渡る必要もなく、目的地を決める必要もない。橋の真ん中という、どちらでもない場所に留まり続けることこそが、この猫にとっての生き方だった。

ある夕暮れ、小さな女の子が母親と手をつないで橋を渡ってきた。

「ねこさん!」

女の子は駆け寄ろうとしたが、母親に手を引かれて止まった。猫はちらりと女の子を見て、そのまま視線を川へと戻した。女の子は少し残念そうにしながらも、橋を渡りきる直前、もう一度振り返った。

猫は、まだそこにいた。

夜になると、橋には小さな灯りがともる。古い街灯が一つだけ、ぼんやりとオレンジ色の光を落とす。その灯りの下で、猫はゆっくりと体を丸め、眠りにつく準備をする。

川のせせらぎと、遠くの家々から漏れる灯りと、時折通り過ぎる人の足音。それらすべてを、猫は静かに受け止めていた。

橋は今日も、変わらずそこにあった。

そして、その真ん中には、変わらずメインクーンが座っていた。

明日もまた、誰かがこの橋を渡るだろう。急いでいる人も、のんびり歩く人も、悩みを抱えている人も、笑顔で歩く人も。それぞれの理由で、それぞれの速度で、この橋を渡っていく。

けれど、猫だけは変わらない。

橋の真ん中で、川を見つめ、光を見つめ、時の流れをただ静かに見つめている。

それは、まるで橋そのものが持つ役目を、静かに引き継いでいるかのようだった。人と人、時と時をつなぐのではなく、ただそこにあり続けることで、誰かの心にそっと灯りをともす——そんな役目を。

橋とメインクーン。

その組み合わせに、特別な意味などないのかもしれない。けれど、あの場所を知る人々にとっては、橋の風景の中に猫がいることが、いつしかかけがえのない日常になっていた。

今日も、橋は静かに川の上に架かっている。

そして、その真ん中には、きっとあの猫が座っている。


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