その林道は、地図には小さな細い線でしか載っていない。
十月の終わりが近づいた朝、私はいつもより少し早く家を出て、その道の入り口に立った。舗装は途中で土に変わり、杉の木が両側から静かに見下ろしている。空気は冷たくて、吸い込むと胸の奥まで澄んでいく。
しばらく歩くと、道の脇に小さな花が咲いているのに気づいた。
ヤマジノホトトギス。白い花びらに紫の斑点がちらばった、秋の林の中でしか出会えない花だ。誰かが筆の先をそっと振って、ひとつずつ模様を落としていったようにも見える。派手さはない。けれど、しゃがんで見るほどに、細かな色の重なりが目に入ってくる。
私はしばらく、その場から動けなくなった。
木漏れ日が葉の隙間から落ちて、花の上で揺れている。遠くで鳥が一声鳴き、またすぐに静けさが戻ってくる。歩いてきた時間が、足もとの落ち葉に吸い込まれていくようだった。
そのときだった。
かさり、と枯れ葉を踏む小さな音がした。
顔を上げると、道の先に黒い影がひとつ座っている。猫だった。
艶のある黒い毛並みは、朝の光を受けて、ところどころ深い青にも見える。金色の目がこちらをまっすぐに見ていた。逃げる気配もなければ、近づいてくる気配もない。ただ、その道の主のように、静かにそこにいた。
「おはよう」
思わず声が出た。猫は返事をする代わりに、ゆっくりとまばたきをした。
私は花のそばから立ち上がり、一歩、また一歩と、ゆっくり進んだ。猫は動かない。あと三メートルほどのところで足を止めると、猫のほうが先に立ち上がった。尻尾をすっと立て、背を向けて歩き出す。
少し行って、振り返る。
ついておいで、と言われた気がした。
猫の後ろを、私は歩いた。黒い背中は落ち葉の色の中でよく目立ち、足音はほとんどしない。道の両側には、ヤマジノホトトギスが点々と咲いていた。猫が通り過ぎたあとの花が、かすかに揺れている。
やがて道がゆるやかにカーブするところで、視界がひらけた。
木々の切れ間から、朝日が一本の帯のように差し込んでいる。その光の中に、白と紫の小さな花が、ひとかたまりになって咲いていた。猫はその真ん中あたりで足を止め、ふわりと腰を下ろした。
光に包まれた黒い猫と、斑点の花。
私は息をするのも忘れて、その景色を見ていた。
猫は前足をそろえ、目を細めている。ひげの先に光が引っかかって、きらりと光った。いつからこの場所で、こうして季節を迎えてきたのだろう。夏が終わって、花が咲いて、また散っていくのを、何度もここで見てきたのかもしれない。
私は少し離れた切り株に腰を下ろして、水筒のお茶を一口飲んだ。湯気がゆっくり立ちのぼり、冷えた指先がじんわり温まる。
急ぐ理由は、もうどこにもなかった。
スマートフォンを取り出しかけて、やめた。この景色は、画面に収めるよりも、そのまま目に置いておきたかった。
どれくらい経っただろう。
猫が小さくあくびをして、立ち上がった。伸びをして、私のほうをちらりと見る。そして、来たときと同じように、静かに林の奥へと歩いていった。黒い背中が、木の影に溶けていく。
最後に、一度だけ振り返ってくれた気がした。
私はしばらくそのまま座っていた。
帰り道、足取りは来たときよりずっと軽かった。ヤマジノホトトギスはまだ道ばたに咲いていて、朝の光はさっきより少し高い場所から降り注いでいる。
秋の林道には、派手なものは何もない。けれど、立ち止まって目を向けた人にだけ、そっと見せてくれるものがある。小さな花の模様や、黒い猫の金色の目や、ひとときの静けさが。
そんな朝を持てたことが、なんだかとても贅沢に思えた。
家に着いたころ、頬に残っていた冷たい空気が、ふっとやわらいだ。
今日もいい一日になりそうだ、と思った。
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