最初の冷え
目が覚めたのは、まだ空の端がうすい灰色をしている時間だった。
布団から出した指先が、ひやりとした。昨日までとは、空気の質がちがう。秋の冷たさは乾いて軽かったのに、今朝のそれは、静かに深いところまで届いてくる。
「ああ、冬が来たな」
誰に言うでもなく、ひとりごとがこぼれた。声は白い息になって、少しのあいだ宙にとどまり、それから消えた。
窓辺の小さな背中
台所へ向かう廊下の途中で、足が止まった。
縁側のガラス戸の前に、小さな背中がある。
三毛猫のミケだ。白と茶と黒のまだら模様が、朝の薄明かりの中でやわらかく浮かんでいる。座布団の上できちんと前足をそろえ、背筋をのばして、じっと外を見つめていた。
いつもなら、私の足音を聞きつけてすぐに振り向く。ごはんの催促をするのに、これほど熱心な猫はいない。それなのに今朝は、耳をぴくりとも動かさない。
何をそんなに見ているのだろう。
私はそっとミケの隣にしゃがみ込み、同じ方向に目をやった。
霜の庭
庭が、白かった。
雪ではない。一晩かけて空気の中の水気が凍り、草の一本一本、石の一つひとつに、細かな霜の衣をまとわせていた。
枯れかけた芝は、白い針をびっしり立てたようにきらきらしている。庭の隅の南天の赤い実には、薄い白粉がのっていた。飛び石の上では、霜が小さな結晶のかたちを保っている。
まだ日は昇りきっていない。それでも東の空がほんのり色づいて、霜の表面が、淡い桃色や水色にゆらめいて見えた。
「きれいやなあ」
そう言うと、ミケが、ちらりとだけこちらを見た。琥珀色の瞳に、庭の白がうつっている。それからまた、何も言わずに庭へ視線を戻した。
猫の時間
猫というのは不思議な生きものだと思う。
私たちは、きれいなものを見つけると、写真を撮ったり、誰かに伝えたりしたくなる。ミケは違う。ただ、じっと見ている。
ひげの先が、わずかに震えた。鼻先をすんと動かして、冷たい空気の匂いをたしかめている。尻尾はゆるやかに足もとへ巻きつけられ、いかにも、ここが自分の特等席だと言いたげだった。
ガラス越しに、朝がゆっくり進んでいく。
霜の上を、一羽のすずめがちょんちょんと跳ねた。ミケの耳が、ほんの少しだけ前へ傾く。けれど飛びかかったりはしない。ガラス戸の向こうの世界は、今日は眺めるためのものなのだと、ミケは知っているみたいだった。
日の光が届く瞬間
やがて、屋根の向こうから朝日がのぼった。
最初の光が庭をなでると、霜がいっせいに輝きはじめた。ひとつひとつの結晶が小さな灯りになって、庭じゅうが、細かな光の粒で満たされていく。
息をのんだ。
隣のミケも、同じだったのかもしれない。丸い瞳が、いっそう大きく開かれていた。
光が当たったところから、霜はすこしずつほどけて、しずくに変わっていく。草の先でふるえる水滴が、朝の光をうけて、小さな宝石みたいに光った。
それは、冬のはじまりにしか見られない、ほんの短い時間の景色だった。昼になれば、霜はすっかり消える。けれど、この朝の庭を、ミケと私は、たしかに一緒に見た。
ぬくもりのおすそ分け
どれくらい、そうしていただろう。
気づけば、足の先が冷えきっていた。立ち上がろうとしたとき、ミケがふいに私の膝へ、ぽすんと前足をのせた。
そして、そのまま、するりと膝の上に乗ってきた。
あたたかい。
小さな体から伝わってくる体温が、じんわりと、冷えた脚を包んでいく。ごろごろと喉が鳴りはじめた。さっきまで庭に向けられていた静かな視線は、いつのまにか、細く閉じられている。
「寒かったんやなあ、お前も」
背中をゆっくり撫でると、毛並みのやわらかさの奥に、たしかな命の鼓動があった。
窓の外では、霜がひとつ、またひとつと消えていく。部屋の中では、ミケの寝息が、小さなリズムを刻みはじめている。
冬のはじまりの朝に
冬は、ただ寒いだけの季節ではないのかもしれない。
白い息、冷たい空気、霜の降りた庭。それらはぜんぶ、あたたかさの価値を教えてくれるためにあるのではないか。膝の上の小さなぬくもりを感じながら、ふと、そんなことを思った。
台所のやかんは、まだ火にかけていない。朝ごはんの支度も、まだだ。
でも、もう少しだけ、このままでいよう。
冬のはじまりの朝は、猫と一緒なら、不思議なほどやさしい。
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