2026年9月2日水曜日

黒猫とサンマ

黒猫とサンマ

夕方の商店街に、焼き魚の匂いが漂いはじめる頃だった。

古本屋「潮見堂」の軒先に、一匹の黒猫がちょこんと座っていた。店主の老人は、それを「クロ」と呼んでいたが、クロがいつからそこにいるのか、正確なところは誰も知らなかった。ただ、夕方五時になると必ず現れて、店先に積まれた文庫本の山の隙間に体を収め、道行く人々を眺めているのだった。

その日、クロの視線の先には、いつもと違うものがあった。隣の魚屋の店先で、脂の乗ったサンマが炭火の上でじゅうじゅうと音を立てていたのだ。煙がふわりと立ちのぼり、風に乗って古本屋の軒先まで届く。クロの鼻がひくひくと動いた。

「クロ、今日は落ち着かないな」

店主がそう言いながら、店先の均一台に新しい本を並べた。表紙に月と魚の絵が描かれた、古い児童書だった。クロはちらりとそれを見て、また魚屋の方に視線を戻した。

しばらくすると、魚屋の主人が焼き上がったサンマを一尾、皿に載せて持ってきた。

「ほら、クロ。今日の残り物だ」

クロは慌てず、まず一度、皿の匂いを確かめるように鼻を近づけた。それから、ゆっくりと骨のあたりから身をほぐしはじめる。夕焼けが商店街のアーケードの隙間から差し込み、クロの黒い毛並みをオレンジ色に染めていた。

古本屋の店主は、そんなクロの姿を横目に見ながら、先ほどの児童書を手に取った。ページをめくると、古い紙の匂いがふわりと立つ。物語の中には、月夜の海で魚を釣る子どもと、それを見守る一匹の黒猫が描かれていた。

「お前によく似ているな」

店主が笑いながらそう呟くと、クロはサンマの身を咀嚼する合間に、ちらりと店主を見上げた。まるで、その本の話を知っているとでも言うように。

日が完全に沈む頃、クロは満足そうに毛づくろいを始めた。魚屋の主人は皿を片付け、店主は児童書を均一台の一番目立つ場所に置き直した。

「今日はこの本、誰かが持って帰ってくれるといいな」

そう言う店主の隣で、クロはまた本の山に体を預け、夜の商店街をぼんやりと眺め続けていた。焼き魚の匂いと、古い紙の匂いが混ざり合う、いつもの夕方だった。


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