無人駅のホームには、錆びた時刻表と、誰も座らない木製のベンチが一つあるだけだった。
一日に数本しか電車が来ないこの駅に、彼はいつも同じ時間に現れる。艶やかな黒い毛並みをした一匹の猫だ。改札もない、駅員もいない、ただ線路とホームだけのこの場所を、まるで自分の縄張りのように歩き回っている。
夕方五時十二分。西日がホームの端から差し込み、コンクリートの上に長い影を落とす頃、黒猫はいつものベンチの下から姿を現した。彼はゆっくりと伸びをすると、ホームの中央まで歩き、そこにちょこんと座った。
理由はわからない。ただ、その時間になると必ずそこにいる。まるで誰かを待っているかのように。
駅の周りには、田んぼと古い民家がぽつぽつと点在するだけで、人影はほとんどない。かつては通学の学生や、街へ働きに出る人々で賑わっていたというが、今はその面影もない。改札の前には「無人駅」と書かれた小さな看板が、色あせて風に揺れている。
黒猫がこの駅に住み着いたのは、いつからだろうか。近くに暮らす老婦人の話では、三年ほど前、雨の激しい晩に、ずぶ濡れになった小さな子猫がホームの隅でうずくまっていたのを見かけたのが最初だったという。誰かが餌をやり、誰かが古い毛布を敷いてやり、いつしか黒猫はこの無人駅の「主」のような存在になっていた。
ゴトン、ゴトン、と遠くから振動が伝わってくる。黒猫の耳がぴくりと動いた。
やがて、一両編成のディーゼルカーがゆっくりとホームに滑り込んでくる。扉が開くと、降りてきたのはたった一人、大きな鞄を背負った若い男だった。
「今日も、いたんだね」
男は小さく笑って、黒猫の前にしゃがみ込んだ。黒猫は逃げるでもなく、ただじっと男を見上げている。
この男は、月に一度だけこの駅で降りる。都会で働きながら、実家の様子を見に帰ってくるのだという。誰もいない改札を抜けるたびに、この黒猫だけが変わらずそこにいることに、なぜだかほっとするのだと、彼はいつか独り言のように呟いていた。
「元気そうで良かった」
男がそっと頭を撫でると、黒猫は目を細め、小さく喉を鳴らした。ホームの向こうでは、夕日がゆっくりと山の稜線に沈もうとしている。
電車は数分後、また静かにホームを離れていった。男の姿も、田んぼ道の向こうへと消えていく。
残されたのは、黒猫とベンチと、色あせた時刻表だけ。
けれど黒猫は寂しそうな顔一つせず、またゆっくりとベンチの下へ戻っていく。明日もまた、誰かがこの駅に降り立つかもしれない。そうでないかもしれない。それでも黒猫は、変わらずこの無人駅で、静かに時間を過ごし続けるのだろう。
夕暮れの光が完全に消えた頃、駅には虫の声だけが響いていた。そして黒猫は、今日も一日を終えるように、小さくあくびをした。
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ここまで読んでくれて、ありがとうございます
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