朝の台所に、細い光が差しこんでいました。
窓の外では、まだ町が少しだけ眠たそうで、遠くを走る車の音も、いつもよりやわらかく聞こえます。
流し台のそばには、黒猫が一匹座っていました。
黒猫は何かを待っているように、じっと蛇口を見つめています。
銀色の蛇口の先には、小さな水の粒がひとつ残っていました。
ぽたり、と落ちそうで落ちない水の粒。
黒猫は首を少しかしげて、その小さな光を見ていました。
水の粒には、台所の白い壁も、朝の光も、黒猫の丸い顔も、ぼんやり映っています。
やがて水の粒は、ぽとん、と静かに流しへ落ちました。
その音に黒猫は少しだけ目を大きくしました。
けれど驚いたのはほんの一瞬で、またすぐに蛇口を見上げます。
まるで、次の一滴を待っているようでした。
人間にとっては、ただの蛇口です。
毎日手を洗い、食器を洗い、水を出すための、見慣れた道具です。
けれど黒猫にとって、その蛇口は小さな不思議の入口なのかもしれません。
光る水の粒。
急に落ちる音。
何もないところから現れる、透明なもの。
黒猫は前足をそっと伸ばし、蛇口の下の水滴に触れました。
冷たかったのでしょう。
すぐに前足を引っこめて、少しだけ不満そうな顔をしました。
それでも、そこから離れようとはしません。
黒猫はまた座りなおし、しっぽを足元に巻きつけて、静かに蛇口を見つめました。
朝の台所には、特別な事件などありません。
大きな物語も、派手な出来事も起きません。
ただ、蛇口から落ちる小さな水の音と、それを見つめる黒猫がいるだけです。
でも、そんな何でもない時間の中に、なぜか心が少し落ち着く瞬間があります。
黒猫が見ているものを、こちらも一緒に見ていると、いつもの台所が少しだけ違って見えてきます。
水の粒は小さな宝石のようで、蛇口は朝の光を受けて静かに輝いています。
何気ない場所にも、不思議はちゃんと隠れているのだと思いました。
黒猫は最後に、流し台のふちから軽く飛び降りました。
そして何事もなかったように、部屋の奥へ歩いていきます。
残された蛇口からは、もう水の音はしません。
けれどその静けさの中に、さっきまで黒猫が見つめていた小さな世界の余韻だけが、少し残っているようでした。
今日もきっと、どこかの家の蛇口の前で、黒猫は小さな不思議を見つけているのかもしれません。
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