2026年6月27日土曜日

黒猫と蛇口

黒猫と蛇口

朝の台所に、細い光が差しこんでいました。

窓の外では、まだ町が少しだけ眠たそうで、遠くを走る車の音も、いつもよりやわらかく聞こえます。

流し台のそばには、黒猫が一匹座っていました。

黒猫は何かを待っているように、じっと蛇口を見つめています。

銀色の蛇口の先には、小さな水の粒がひとつ残っていました。

ぽたり、と落ちそうで落ちない水の粒。

黒猫は首を少しかしげて、その小さな光を見ていました。

水の粒には、台所の白い壁も、朝の光も、黒猫の丸い顔も、ぼんやり映っています。

やがて水の粒は、ぽとん、と静かに流しへ落ちました。

その音に黒猫は少しだけ目を大きくしました。

けれど驚いたのはほんの一瞬で、またすぐに蛇口を見上げます。

まるで、次の一滴を待っているようでした。

人間にとっては、ただの蛇口です。

毎日手を洗い、食器を洗い、水を出すための、見慣れた道具です。

けれど黒猫にとって、その蛇口は小さな不思議の入口なのかもしれません。

光る水の粒。

急に落ちる音。

何もないところから現れる、透明なもの。

黒猫は前足をそっと伸ばし、蛇口の下の水滴に触れました。

冷たかったのでしょう。

すぐに前足を引っこめて、少しだけ不満そうな顔をしました。

それでも、そこから離れようとはしません。

黒猫はまた座りなおし、しっぽを足元に巻きつけて、静かに蛇口を見つめました。

朝の台所には、特別な事件などありません。

大きな物語も、派手な出来事も起きません。

ただ、蛇口から落ちる小さな水の音と、それを見つめる黒猫がいるだけです。

でも、そんな何でもない時間の中に、なぜか心が少し落ち着く瞬間があります。

黒猫が見ているものを、こちらも一緒に見ていると、いつもの台所が少しだけ違って見えてきます。

水の粒は小さな宝石のようで、蛇口は朝の光を受けて静かに輝いています。

何気ない場所にも、不思議はちゃんと隠れているのだと思いました。

黒猫は最後に、流し台のふちから軽く飛び降りました。

そして何事もなかったように、部屋の奥へ歩いていきます。

残された蛇口からは、もう水の音はしません。

けれどその静けさの中に、さっきまで黒猫が見つめていた小さな世界の余韻だけが、少し残っているようでした。

今日もきっと、どこかの家の蛇口の前で、黒猫は小さな不思議を見つけているのかもしれません。


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2026年6月26日金曜日

黒猫と洗面器

黒猫と洗面器

朝の洗面所に、ひとつの洗面器が置いてありました。

白くて丸いその洗面器は、特別なものではありません。
けれど黒猫には、なぜか少し気になる存在でした。

黒猫はそっと近づいて、洗面器の中をのぞきこみます。

中には水が少しだけ入っていて、朝の光を受けて静かに揺れていました。
その水面には、黒猫の丸い顔と小さな耳がぼんやり映っています。

黒猫は首をかしげました。
そこにいるのは自分なのに、まるで洗面器の中にもう一匹の黒猫がいるように見えたからです。

前足をそっと伸ばして、水面に触れてみます。

小さな波が広がり、映っていた黒猫の顔はゆらゆらと形を変えました。
黒猫は少し驚いて、前足を引っこめます。

でも、逃げるほど怖いわけではありません。
むしろ、不思議で、もう少し見ていたくなるような気持ちでした。

洗面器の中の水は、また静かになります。
黒猫もじっと座って、その小さな水の世界を見つめました。

家の中の何気ない場所にも、ふと物語の入り口があるのかもしれません。

ただの洗面器。
ただの朝の光。
ただの黒猫。

それでも、その三つがそろうと、少しだけ本の中の一場面のように見えてきます。

黒猫は最後にもう一度だけ水面をのぞきこみ、満足したようにしっぽを揺らしました。

そして何事もなかったように、静かな朝の部屋へ戻っていきました。


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2026年6月25日木曜日

黒猫と木

黒猫と木
黒猫が一匹、古い木の下に座っていました。

その木は、町のはずれにある小さな公園のすみで、何年も同じ場所に立っている木でした。

春には若い葉をつけ、夏には強い日差しをやわらげ、秋には落ち葉を散らし、冬には静かに枝だけを空へ伸ばしていました。

黒猫は、その木のことをよく知っているようでした。

人が通っても、犬が吠えても、風が強く吹いても、黒猫は木の根元からあまり動きません。

まるで、その木と何か約束をしているようにも見えました。

本の中には、言葉を話す猫や、不思議な森へ案内してくれる動物がよく出てきます。

でも現実の黒猫は、何も語りません。

ただ、じっと木のそばにいるだけです。

それなのに、その姿を見ていると、何か小さな物語が始まりそうな気がします。

木は、黒猫に日陰を作っていました。

黒猫は、木の根元で丸くなりながら、ときどき薄く目を開けます。

葉のすき間からこぼれる光が、黒い毛の上に小さく揺れていました。

真っ黒に見える毛も、光が当たると少しだけ茶色や灰色を含んでいるように見えます。

何気ない景色なのに、そこだけ時間がゆっくり流れているようでした。

本を読んでいると、派手な事件よりも、こういう静かな場面が心に残ることがあります。

大きな冒険ではなく、古い木の下で眠る黒猫。

誰にも気づかれない午後の光。

風で落ちた一枚の葉。

そういう小さな描写があるだけで、物語の世界は急に深くなります。

黒猫は、木のそばで何を考えているのでしょうか。

昨日の雨のことかもしれません。

木の上を通り過ぎた鳥のことかもしれません。

それとも、ずっと昔からこの場所にあった物語を、猫だけが覚えているのかもしれません。

木は何も言わず、黒猫も何も言いません。

けれど、黙って並んでいるだけで、そこにはやさしい空気がありました。

本のページをめくるように、季節は少しずつ変わっていきます。

新しい葉が増え、花が咲き、雨が降り、落ち葉が積もり、やがてまた春が来ます。

その間も、黒猫はときどき木の下へやって来るのでしょう。

そこにいるだけで安心できる場所。

何も起こらなくても、心が少し落ち着く場所。

黒猫と木の景色には、そんな静かな本のような魅力があります。

特別な言葉がなくても、物語はそこにあります。

ただ一匹の黒猫と、一本の古い木。

それだけで、今日の午後を少しだけやさしくしてくれるのです。


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2026年6月24日水曜日

黒猫とマンションのベランダ

黒猫とマンションのベランダ

朝の光が、カーテンのすき間から少しだけ部屋に入ってきました。

まだ町は完全に起きていないようで、遠くを走る車の音も、どこかやわらかく聞こえます。

黒猫は、窓辺に座っていました。

まるい背中を小さく丸めて、じっとベランダのほうを見ています。

窓を開けると、少し冷たい空気が部屋に流れ込んできました。

黒猫はゆっくり立ち上がり、しっぽを一度だけ揺らして、ベランダへ出ていきました。

マンションのベランダは、広い庭ではありません。

小さな植木鉢がいくつか並び、洗濯ばさみが風に揺れ、手すりの向こうには、いつもの町並みが広がっています。

それでも黒猫にとっては、ここが小さな世界でした。

手すりの下から入ってくる風の匂い。

遠くの道路を走る車の音。

どこかの部屋から聞こえる食器の音。

向かいのマンションの窓に反射する朝の光。

黒猫は、それらをひとつずつ確かめるように、静かに耳を動かしていました。

ベランダのすみに置いた小さな鉢には、まだ名前も知らない草が伸びています。

黒猫はそのそばに座り、鼻先を近づけて、少しだけ匂いをかぎました。

けれど、すぐに興味をなくしたように顔を上げます。

その目は、手すりの向こうの空を見ていました。

マンションの上に見える空は、広いようで、少しだけ区切られています。

でも、黒猫はそんなことを気にしていないようでした。

小さなベランダから見える分だけの空を、まるで十分だと言うように眺めています。

鳥が一羽、建物の間をすっと横切りました。

黒猫の耳がぴくりと動きます。

追いかけることはできません。

ただ、目だけでその姿を追っていました。

やがて鳥が見えなくなると、黒猫は何もなかったように、その場に座り直しました。

ベランダの床には、朝日が四角く落ちています。

黒猫はその光の中へ少しずつ移動して、前足をそろえました。

黒い毛に朝の光が当たると、真っ黒ではなく、少しだけやわらかい色に見えます。

町は少しずつ起きていきます。

遠くで自転車のベルが鳴り、どこかの玄関のドアが閉まり、洗濯物を干す音が聞こえてきました。

それでも、ベランダの黒猫の時間だけは、ゆっくり流れているようでした。

何か特別なことが起きるわけではありません。

けれど、何も起きない朝にも、小さな物語はあります。

黒猫が空を見上げること。

風がひげを少し揺らすこと。

植木鉢の葉が、音もなく光を受けること。

そんな小さな出来事が、ベランダの片すみに静かに積もっていきます。

しばらくすると、黒猫は大きくあくびをしました。

そして、何も急ぐことはないという顔で、朝日の中に丸くなりました。

マンションのベランダは、小さな場所です。

けれど黒猫がそこにいるだけで、そこは少しだけ本の中の景色のようになります。

町の音と、朝の光と、黒猫の静かな背中。

今日もまた、いつものベランダで、誰にも知られない小さな時間が始まっていました。


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2026年6月23日火曜日

黒猫と田舎道

黒猫と田舎道

夕方の田舎道は、ゆっくりと一日をしまっていくようでした。

細い道の両側には、低い草が風に揺れていました。
遠くには小さな山が見えて、空は少しずつ橙色に染まっています。

その道の真ん中より少し端に、一匹の黒猫が座っていました。

黒猫は急ぐでもなく、迷うでもなく、ただ静かに前を見ています。
まるで、この道を通る人や風や夕日を、ずっと前から知っているようでした。

田舎道には、大きな音がありません。
車の音も遠く、誰かの声も遠く、聞こえるのは草のこすれる音と、鳥が帰っていく声だけです。

黒猫は、ときどき耳を動かしました。
そして、何かを思い出したように、ゆっくり立ち上がります。

道の先には、小さな家の灯りがひとつ見えていました。
その灯りは、とても弱いのに、不思議とあたたかく見えました。

黒猫は振り返りません。
でも、その後ろ姿には、少しだけ物語の続きが残っているようでした。

どこへ行くのか。
誰かの家へ帰るのか。
それとも、まだ見たことのない夜を探しに行くのか。

答えはわかりません。
けれど、田舎道を歩く黒猫の小さな背中を見ていると、急がなくてもいい気がしてきます。

道はまっすぐでなくてもいい。
遠回りでもいい。
ときどき立ち止まって、風の音を聞いてもいい。

夕暮れの田舎道には、そんなやさしい時間が流れていました。
そして黒猫は、その時間の中を、音もなく静かに歩いていきました。


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2026年6月22日月曜日

黒猫とみかん畑

黒猫とみかん畑

海の近くにある小さな丘に、みかん畑が広がっていました。

冬のはじまりの空は少し白く、風は冷たいのに、枝いっぱいのみかんだけが小さな太陽のように光っていました。

その畑のすみっこに、一匹の黒猫がいました。

黒猫は、みかんの木の下で丸くなりながら、ゆっくりと畑を見渡していました。

人の声も、車の音も、ここまではあまり届きません。

聞こえるのは、葉っぱがこすれる音と、遠くの海から来る風の音だけでした。

黒猫の前に、ひとつだけ落ちたみかんがありました。

ころんと土の上に転がったそのみかんは、誰かに見つけられるのを待っているようにも見えました。

黒猫は鼻先を近づけて、少しだけ匂いをかぎました。

甘いような、すっぱいような、冬の匂いがしました。

食べるわけでもなく、遊ぶわけでもなく、黒猫はただそのみかんのそばに座っていました。

まるで、小さな実が寂しくならないように、となりにいてあげているみたいでした。

やがて、畑の向こうからおばあさんが歩いてきました。

かごを片手に、ゆっくりと木のあいだを進みながら、落ちたみかんを見つけました。

「あら、見張ってくれていたの」

おばあさんがそう言うと、黒猫は返事をするように、しっぽを一度だけ動かしました。

おばあさんは落ちたみかんを拾い、かごの中へそっと入れました。

それから、枝についていた小さなみかんをひとつ取り、黒猫の前に置きました。

もちろん黒猫は、みかんを食べません。

けれど、その丸い色をじっと見つめていると、なんだか寒い日でも心が少しだけあたたかくなる気がしました。

夕方になると、みかん畑は金色に染まりました。

黒猫の黒い毛並みにも、やわらかな光がのって、少しだけ茶色く見えました。

畑の中にあるものは、どれも大きな事件ではありません。

落ちたみかん。

風に揺れる葉っぱ。

ゆっくり歩くおばあさん。

そして、そこに座っている黒猫。

でも、そんな小さな景色の中にこそ、忘れたくない時間があるのかもしれません。

黒猫は最後にもう一度だけ、みかん畑を見渡しました。

それから細い道を歩き出し、夕焼けの中へ静かに消えていきました。

あとには、みかんの甘い香りと、冬のやさしい静けさだけが残っていました。


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2026年6月21日日曜日

黒猫と田んぼ

黒猫と田んぼ

夕方の田んぼ道を、黒猫がゆっくり歩いていました。

田んぼには、水が張られていて、空の色がそのまま映っていました。
青かった空は少しずつ薄い橙色に変わり、遠くの山の形も、水の中で静かに揺れていました。

黒猫は、道の真ん中を歩くのではなく、草の生えた端っこを選ぶように進んでいました。
誰に教えられたわけでもないのに、ちゃんと自分の居場所を知っているようでした。

田んぼのあぜ道には、小さな花が咲いていました。
風が吹くたびに草が揺れて、黒猫のひげも少しだけ動きました。

遠くから、カエルの声が聞こえてきます。
車の音も、人の話し声も、ここでは少し遠く感じました。

黒猫は途中で立ち止まり、水の張った田んぼをじっと見つめました。
水面には、黒猫の小さな姿が映っていました。
けれど風が通ると、その姿はゆらゆらと形を変えてしまいます。

黒猫は、それを不思議そうに見ていました。
まるで、水の中にもう一匹の黒猫がいると思っているようでした。

しばらくすると、黒猫は前足をそっと出しました。
でも水には入らず、ただ田んぼのふちで止まりました。

その姿が、なんだかとても静かで、少しだけ物語の一場面のように見えました。

何か大きな出来事が起きるわけではありません。
黒猫が田んぼのそばを歩いているだけです。

でも、そういう景色の中にこそ、忘れていた時間があるのかもしれません。
急がなくてもいい時間。
誰かに見せるためではない時間。
ただ風が吹いて、水面が揺れて、黒猫がそこにいるだけの時間です。

やがて夕日が少し低くなり、田んぼの水が金色に光りました。
黒猫の背中にも、その光がやわらかく乗りました。

黒猫は振り返ることなく、また歩き出しました。
細いあぜ道を、静かに、ゆっくりと。

その後ろ姿を見ていると、田んぼという場所は、ただお米を育てる場所ではなく、季節や風や小さな命を映す場所なのだと思いました。

黒猫と田んぼ。
それは、とても静かな組み合わせです。

けれど、その静けさの中には、なぜか心を落ち着かせてくれるやさしさがありました。


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2026年6月20日土曜日

黒猫と水たまり

黒猫と水たまり

雨上がりの道に、小さな水たまりができていました。

そこは、いつもの住宅街のすみっこでした。
低い塀と古い家の前を通る、細い道です。

さっきまで降っていた雨はやみ、空には少しだけ明るい色が戻っていました。
屋根から落ちる雨粒が、ぽつん、ぽつんと静かに音を立てています。

黒猫は、その水たまりの前で足を止めました。

水たまりの中には、空が映っていました。
灰色の雲。
少しだけの青空。
電線。
そして、黒猫自身の顔。

黒猫は首をかしげました。

水の中にいる黒猫も、同じように首をかしげます。

それが少し不思議で、黒猫は前足をそっと伸ばしました。
水面に小さな波が広がります。

映っていた空がゆらゆらと揺れました。
黒猫の顔も、少しだけ別の生き物みたいに揺れました。

黒猫はびっくりして、前足を引っ込めました。
けれど、逃げたりはしません。

ただ静かに、水たまりを見つめていました。

いつもの道なのに、雨が降ったあとだけ現れる小さな世界。
そこには、空も町も黒猫も、全部やわらかく映っていました。

しばらくすると、雲のすき間から夕方の光が差しました。
水たまりの端が、ほんの少し金色に光ります。

黒猫はもう一度、そっと近づきました。

今度は水面を触らず、ただのぞき込みます。
水の中の黒猫も、静かにこちらを見上げていました。

まるで、もうひとりの自分に出会ったようでした。

黒猫は小さくまばたきをしました。
水の中の黒猫も、同じようにまばたきをしました。

そのあと黒猫は、何もなかったように歩き出しました。
しっぽをゆっくり揺らしながら、濡れた道を進んでいきます。

水たまりは、まだそこに残っていました。
空を映し、電線を映し、遠ざかっていく黒猫の後ろ姿を小さく映していました。

雨上がりの町には、ほんの少しだけ特別な時間が流れていました。

黒猫が見つけたのは、ただの水たまりだったのかもしれません。
けれどそこには、いつもの景色を少しだけ違って見せてくれる、小さな物語がありました。


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2026年6月19日金曜日

黒猫と空き缶

黒猫と空き缶

道のすみっこに、ひとつの空き缶が転がっていました。

風に押されて、ころん、と小さな音を立てます。

その音に気づいた黒猫が、ゆっくりと近づいてきました。

黒猫は、空き缶の前で立ち止まります。

それは、おもちゃではありません。

食べものでもありません。

けれど、夕方の光を受けた空き缶は、少しだけ不思議なものに見えました。

黒猫は、鼻先を近づけます。

かすかに残った甘い匂い。

人が飲み終えて、忘れていったもの。

黒猫には、それがどういうものなのか、はっきりとはわかりません。

ただ、さっきまで誰かがここにいた気配だけが、空き缶のまわりに残っていました。

黒猫が前足でそっと触れると、空き缶はころころと転がりました。

静かな道に、小さな音が響きます。

ころん。

からん。

まるで、空き缶が返事をしているようでした。

黒猫は少し驚いて、しっぽをぴんと立てました。

でも、逃げません。

もう一度、そっと前足を出します。

空き缶はまた転がり、夕焼けの色を細く映しました。

ただの空き缶なのに、そこには小さな物語があるようでした。

誰かが歩きながら飲んだのかもしれません。

ベンチに座って、ひと息ついたのかもしれません。

急いでいて、片づけることを忘れてしまったのかもしれません。

黒猫は、そんな人間の事情など知りません。

けれど、空き缶がこの道にぽつんと残されていることだけは、ちゃんと見ていました。

やがて風が吹きます。

空き缶は少しだけ道の端へ転がりました。

黒猫はそのあとを追いかけるように、ゆっくり歩きます。

遊んでいるようにも見えました。

見守っているようにも見えました。

夕方の町は、少しずつ静かになっていきます。

遠くで自転車の音がして、家の窓には明かりがともりはじめます。

黒猫は空き缶の横に座りました。

そして、じっと空を見上げました。

空き缶は何も言いません。

黒猫も何も言いません。

それでも、ふたつは少しだけ同じ場所にいて、同じ夕暮れを見ていました。

いつか誰かが、この空き缶を拾っていくかもしれません。

明日の朝には、もうここにないかもしれません。

けれど今日の夕方だけは、黒猫と空き缶は、道のすみっこで小さな時間を分け合っていました。

忘れられたものにも、見つめてくれる誰かがいる。

そんなことを教えるように、黒猫は最後に一度だけ、空き缶を前足でそっと押しました。

ころん、と音がしました。

それは、夕暮れの町に落ちた、小さな返事のようでした。


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2026年6月18日木曜日

黒猫と車

黒猫と車

道の端に、黒猫が一匹座っていました。

夕方の町は、少しだけ急ぎ足です。
家へ帰る人。
買い物袋を持った人。
自転車で通り過ぎる人。

そして、車が一台、また一台と走っていきます。

黒猫は、その音をじっと聞いていました。

ブーンと低く響く音。
タイヤが道をなでる音。
信号で止まり、またゆっくり動き出す音。

黒猫にとって、車は少し不思議なものでした。

人が中に入ると、遠くまで連れていってくれる箱。
雨の日でも濡れない箱。
寒い日でも、あたたかそうな箱。

でも、近づきすぎると危ない箱でもあります。

黒猫は道に飛び出したりしません。
ちゃんと、少し離れた場所から見ています。

車の窓には、夕焼けが映っていました。
オレンジ色の空。
細く伸びた雲。
電線の影。

その中を、黒猫の小さな姿も一瞬だけ映りました。

黒猫は、自分が車の窓に映ったことに気づいたのか、少し首をかしげました。

「これは、どこへ行くものなんだろう」

そんなことを考えているようにも見えました。

車に乗れば、知らない町へ行けるのかもしれません。
海の見える道へ行けるのかもしれません。
山の向こうまで行けるのかもしれません。

けれど、黒猫は今いる場所から動きませんでした。

いつもの塀。
いつもの道。
いつもの夕方のにおい。

そこにも、黒猫だけが知っている世界があります。

車は遠くへ行くためのもの。
黒猫は、今いる場所を静かに見つめるもの。

どちらが正しいわけでもありません。

遠くへ行きたい日もあれば、
ここにいたい日もあります。

黒猫は、最後の一台が通り過ぎるのを見送ると、ゆっくり立ち上がりました。

しっぽを少しだけ上げて、細い路地へ入っていきます。

車の音は、だんだん遠くなっていきました。

夕方の町に残ったのは、黒猫の足音と、少しだけやわらかい風でした。

もしかすると黒猫は、遠くへ行く車をうらやましいと思ったのかもしれません。

でも、路地の奥には、黒猫だけの帰り道があります。

どこかへ行くことだけが、旅ではありません。

いつもの道を、昨日とは少し違う気持ちで歩くこと。
それも、小さな旅なのだと思います。


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2026年6月17日水曜日

黒猫と消しゴム

黒猫と消しゴム

机の上に、小さな消しゴムがひとつ転がっていました。

それは、角が少し丸くなった白い消しゴムでした。
何度も使われて、端のほうに鉛筆の黒い跡がついています。

黒猫は、その消しゴムをじっと見つめていました。

消しゴムは、ただそこにあるだけなのに、黒猫には小さな不思議な石ころのように見えたのです。

前足でちょん、と触ってみると、消しゴムは机の上を少しだけすべりました。

黒猫は耳をぴくりと動かしました。
もう一度、ちょん。

消しゴムは、また少しだけ動きました。

机の上には、書きかけのノートがありました。
ノートには、うまく書けなかった文字がいくつか残っていました。

消しゴムは、その文字を消すために置かれていたのでしょう。

間違えたところを消して、もう一度書き直す。
それは、とても小さなことのようで、実は少しやさしいことなのかもしれません。

黒猫は、消しゴムを鼻先で軽く押しました。

ころん、と転がった消しゴムは、ノートの端で止まりました。
まるで「失敗しても大丈夫」と言っているようでした。

人は、間違えた文字を消すことができます。
でも、気持ちまで簡単に消せるわけではありません。

それでも、消しゴムが机の上にあるだけで、少しだけ安心できます。

書き直せる。
やり直せる。
もう一度、白い場所から始められる。

黒猫は、消しゴムのそばに丸くなりました。

窓の外では、夕方の光がゆっくり薄くなっていきます。
部屋の中は静かで、机の上だけがほんの少し明るく見えました。

黒猫と消しゴム。

小さな机の上にある、なんでもない組み合わせです。
けれど、その景色には、失敗を責めないやさしさがありました。

今日うまくいかなかったことも、明日になれば少しだけ書き直せるかもしれません。

黒猫は目を細めて、消しゴムの隣で静かに眠りました。
まるで、小さなやり直しを見守っているように。


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2026年6月16日火曜日

黒猫とスイカ

黒猫とスイカ

夏の昼下がり、台所のすみで黒猫がじっと座っていました。

窓の外では蝉が鳴いていて、白いカーテンが風に少しだけ揺れています。

テーブルの上には、大きなスイカがひとつ置かれていました。

黒いしま模様の入った丸いスイカは、まるで小さな夏の星みたいに、そこだけ特別な存在感を放っていました。

黒猫は、スイカのまわりをゆっくり一周します。

くんくんと匂いをかいで、前足で少しだけ触れて、それから首をかしげました。

「これは食べものなのか、それとも丸い友だちなのか」

そんなことを考えているような顔でした。

やがてスイカは包丁で切られ、赤い中身が顔を出します。

みずみずしい赤色と、小さな黒い種。

その色を見た黒猫は、少しだけ目を大きくしました。

夏の光がスイカの表面に反射して、台所の中まで少し涼しくなったように見えます。

お皿にのせられたスイカのそばで、黒猫は静かに座りました。

食べるわけでもなく、ただそこにいます。

赤いスイカと黒猫。

その組み合わせは、絵本の一ページみたいにかわいくて、少し不思議でした。

冷たいスイカをひと口食べると、甘い水分が口の中に広がります。

暑かった部屋の空気も、少しだけやわらかくなった気がしました。

黒猫はスイカを見つめたあと、ゆっくりと床に寝そべります。

ひんやりした床が気持ちいいのか、しっぽを小さく動かしながら目を細めました。

夏は少し暑くて、少し退屈で、少しだけ特別です。

大きな出来事がなくても、冷えたスイカと黒猫がいるだけで、その日はちゃんと物語になります。

食べ終わったあとのお皿には、赤い果汁が少しだけ残っていました。

黒猫はそれを見て、また首をかしげます。

まるで、夏の秘密を見つけたような顔でした。

黒猫とスイカ。

それは、暑い日の中に置かれた、小さくて涼しい物語なのかもしれません。


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2026年6月15日月曜日

黒猫とリンゴ

黒猫とリンゴ

机の上に、赤いリンゴがひとつ置いてありました。

それは誰かが食べ忘れたリンゴではなく、まるで小さな物語のはじまりのように、朝の光を受けて静かに光っていました。

黒猫は窓辺からそれを見つけると、音を立てずに机の上へ近づきました。

赤いもの。
丸いもの。
少しだけ甘い匂いのするもの。

黒猫にとってリンゴは、食べ物というより、不思議な置物のようでした。

前足でちょん、と触れてみると、リンゴはほんの少しだけ転がりました。

黒猫はびっくりして、一歩後ろへ下がりました。

けれど、リンゴは逃げません。
怒りもしません。
ただ、赤い顔をして、そこにいるだけです。

黒猫はもう一度近づきました。

今度は鼻を寄せて、そっと匂いをかぎます。

甘くて、少し冷たくて、どこか遠い畑の風を思い出すような匂いでした。

黒猫はリンゴを見つめながら、きっとこの赤い実にも旅があったのだろうと思いました。

木の枝にぶら下がっていた時間。
雨に濡れた日。
太陽に照らされた午後。
誰かの手に包まれて、ここまで運ばれてきた道。

そう考えると、ただのリンゴが、急に小さな旅人のように見えてきました。

黒猫はリンゴの横に座り、しっぽをくるりと巻きました。

外では風が吹いて、カーテンが少しだけ揺れています。

机の上には、黒猫とリンゴ。

何も起きていないようで、でも確かに、静かな時間が流れていました。

しばらくして、人の足音が近づいてきました。

黒猫はリンゴから離れることもなく、ただ顔を上げました。

その人は机の上の光景を見て、少し笑いました。

黒猫は何も言いません。
リンゴも、もちろん何も言いません。

けれどその朝、部屋の中には少しだけやさしい空気がありました。

食べられる前のリンゴと、見つめるだけの黒猫。

そんな何気ない場面にも、物語はちゃんと隠れているのかもしれません。

大きな出来事ではなくても、心に残る景色があります。

黒猫とリンゴが並んでいた朝のことを、きっと誰かはすぐに忘れてしまうでしょう。

でも黒猫だけは、あの赤い丸いもののことを、少しだけ覚えているのだと思います。

甘い匂いがしたこと。
ころんと転がったこと。
窓の光を受けて、まるで小さな太陽みたいだったこと。

そしてまたいつか、机の上に赤いリンゴが置かれたら、黒猫はきっと同じように近づいていくのでしょう。

物語のはじまりを見つけるように。


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2026年6月14日日曜日

黒猫と船

黒猫と船

海の近くに、小さな港がありました。

朝になると、港にはいくつもの船が並びます。
白い船、青い船、少し古びた木の船。

その中の一そうに、黒猫がちょこんと座っていました。

黒猫は船の先に座り、遠くの海をじっと見ています。
波の音を聞いているのか、海の向こうに何かを探しているのか、誰にもわかりません。

船はゆっくりと揺れていました。
大きく揺れるわけではありません。
まるで眠っているように、静かに、静かに動いています。

黒猫のしっぽも、その揺れに合わせるように、少しだけ動きました。

港には、魚のにおいと潮のにおいが混ざっています。
遠くでは、カモメが鳴いていました。
古いロープがきしむ音も、どこか懐かしく聞こえます。

黒猫は船に乗って、どこかへ行きたいのでしょうか。
それとも、どこかへ行ってしまった誰かを待っているのでしょうか。

海を見ている黒猫の背中は、小さいのに、とても静かで、少しだけ大人びて見えました。

船はまだ出ません。
港に結ばれたまま、今日も波に揺れています。

けれど黒猫にとって、その船はただの船ではないのかもしれません。
遠い場所を思うための場所。
誰かを待つための場所。
そして、ひとりで静かに夢を見るための場所。

黒猫は目を細めました。
海の上には、朝の光がきらきらと広がっています。

どこまでも続く青い道のようでした。

船は動かなくても、心だけは少し遠くへ行ける。
黒猫はそんなことを知っているように、今日も静かに海を見つめていました。


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2026年6月13日土曜日

黒猫と雷

黒猫と雷

夕方から夜に変わるころ、空が急に暗くなりました。

さっきまで静かだった部屋の窓に、ぽつぽつと雨の音が当たりはじめます。

黒猫は、いつもの窓辺に座っていました。

しっぽを体に巻きつけて、じっと外を見ています。

遠くの空が、白く光りました。

そのあと少し遅れて、低い雷の音が聞こえてきます。

ごろごろ、という音は、まるで空の奥で大きな何かが寝返りをうったようでした。

黒猫は耳をぴくりと動かしました。

でも、逃げるわけではありません。

ただ少しだけ目を細めて、また外を見つめます。

窓の向こうでは、雨に濡れた屋根が街灯の光を受けて、静かに光っていました。

電線にも、木の葉にも、細かな雨粒が並んでいます。

また空が光りました。

今度はさっきよりも近く、部屋の中まで一瞬だけ白く照らされます。

机の上の本。

読みかけのしおり。

湯気の消えたお茶。

そして、窓辺にいる黒猫の横顔。

すべてが一瞬だけ、絵本の一ページのように浮かび上がりました。

雷は少し怖いものです。

大きな音も、突然の光も、心をびくっとさせます。

けれど黒猫を見ていると、不思議と部屋の中は落ち着いて見えました。

怖いものが外にあるからこそ、部屋の静けさに気づくことがあります。

雨の音があるから、灯りのやさしさがわかります。

雷が鳴るから、そばにいる小さな気配があたたかく感じられます。

黒猫は、窓ガラスに映った自分の姿を少し見てから、小さくあくびをしました。

まるで「大丈夫」と言っているようでした。

外ではまだ、雷が遠くで鳴っています。

でも部屋の中には、本とお茶と黒猫がいます。

それだけで、少し安心できる夜でした。

黒猫と雷。

怖い音の中に、静かなぬくもりを見つけた夜の話です。


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2026年6月12日金曜日

写真を見ている黒猫

写真を見ている黒猫

部屋のすみで、黒猫が一枚の写真を見ていました。

それは、古い木の机の上に置かれた、小さな写真でした。

写真の中には、今より少し若い誰かと、まだ子猫だったころの黒猫が写っていました。

黒猫は、何も言わずにその写真を見つめています。

まるで、写真の中に残っている時間の匂いを、そっと思い出しているようでした。

部屋には、午後のやわらかい光が入っていました。

白いカーテンが少しだけ揺れて、机の上の写真に淡い影を落とします。

黒猫の丸い目には、写真の白いふちと、窓から入る光が小さく映っていました。

人間にとって写真は、昔を思い出すためのものかもしれません。

でも黒猫にとっては、少し違うものなのかもしれません。

そこに写っている顔。

そのときの部屋の空気。

呼ばれた名前。

なでられた手の温度。

そういう言葉にならないものを、黒猫は静かに思い出しているようでした。

写真の中の黒猫は、今よりずっと小さくて、少し不安そうな顔をしています。

けれど、今の黒猫は落ち着いた顔で、その小さな自分を見ていました。

「大丈夫だよ」

そんなふうに、写真の中の自分に話しかけているようにも見えました。

時間は戻りません。

けれど、写真を見ると、戻れないはずの時間が、ほんの少しだけ近くに来ることがあります。

それは、さみしいだけのものではなくて、あたたかいものでもあります。

黒猫は、しばらく写真を見たあと、そっと前足を伸ばしました。

写真に触れるか触れないかくらいの距離で、前足を止めます。

そして、まぶたをゆっくり閉じました。

たぶん黒猫は、写真の中にあるものを、ちゃんと覚えているのだと思います。

声にならない記憶も。

もう戻らない日の光も。

小さかったころの自分も。

全部、心のどこかにしまっているのだと思います。

写真は、ただの紙かもしれません。

でも、ときどきそこには、過ぎていった時間が静かに座っています。

黒猫は今日も、その写真を見ています。

何かを探すように。

何かを確かめるように。

そして、もう一度だけ、あの日のぬくもりに会いに行くように。


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2026年6月11日木曜日

黒猫とラジオ

黒猫とラジオ

夕方の部屋に、古いラジオの音が流れていた。

窓の外では、空の色が少しずつ薄くなっていく。
昼と夜のあいだにある、短い時間だった。

机の上には読みかけの本。
湯気の消えかけたお茶。
そして、少しだけ音の割れるラジオ。

黒猫は窓辺に座っていた。

外を見るでもなく、眠るでもなく、ただ耳だけを小さく動かしている。

ラジオから流れる声は、知らない誰かのものだった。
今日の天気の話。
どこか遠い町の出来事。
昔よく聞かれていた歌。

どれも大きな事件ではない。
けれど、その小さな音が部屋の中にあるだけで、なぜか寂しさが少し薄くなる。

黒猫は、ときどきラジオの方を振り返る。

まるで、その箱の中に誰かがいると思っているようだった。
けれど近づいて確かめることはしない。

ただ、ほどよい距離を保っている。

人も猫も、近づきすぎないから安心できるものがあるのかもしれない。

ラジオの音は、テレビのようにこちらを急かさない。
画面もなく、眩しい光もなく、ただ静かに話しかけてくる。

聞いていてもいい。
聞き流してもいい。
途中で眠ってしまってもいい。

そのゆるさが、夕方の部屋にはよく似合っていた。

黒猫は前足をそろえたまま、じっとしている。
しっぽの先だけが、ゆっくり右へ左へ揺れていた。

古い歌が流れ始める。
どこか懐かしいのに、いつ聞いたのかは思い出せない。

もしかすると、懐かしさというものは、記憶そのものではなく、心が少し休んだときにだけ現れる気配なのかもしれない。

部屋の明かりをつけるには、まだ少し早い。
外は暗くなりきっていない。
本の文字は、ぎりぎり読める。

黒猫は小さくあくびをした。
そして、ラジオのそばではなく、少し離れた座布団の上に丸くなった。

音はまだ続いている。

誰かの声。
遠い町の話。
名前も知らない歌。

それらが部屋のすみずみに薄く広がって、静かな夜の準備をしている。

黒猫とラジオ。

何か特別なことが起きるわけではない。
けれど、何も起きない時間の中にだけ、そっと残るものがある。

今日という一日が、静かに閉じていく音。

黒猫は目を細めた。
ラジオは小さく鳴り続けていた。


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2026年6月10日水曜日

黒猫と万華鏡

黒猫と万華鏡

本棚の奥から、古い万華鏡が出てきました。

いつ買ったものなのか、誰にもらったものなのか、もうはっきりとは覚えていません。

細い筒のまわりには、少しだけ色あせた模様がありました。

手に取ると、思っていたよりも軽くて、けれどどこか大事なもののように感じました。

窓辺では、黒猫が丸くなっていました。

午後の光がカーテンを通って、部屋の中にやわらかく落ちていました。

私はなんとなく、その万華鏡をのぞいてみました。

小さな光のかけらが、筒の中で静かに広がりました。

赤、青、黄色、紫。

ほんの少し回すだけで、形はすぐに変わっていきます。

さっきまできれいだった模様は、もう二度と同じ形には戻りません。

それが少し寂しくて、少し不思議でした。

黒猫が、こちらを見ました。

何をしているのか気になったのか、ゆっくり近づいてきます。

机の上に置いた万華鏡の先を、鼻でそっと触りました。

もちろん黒猫には、中の模様は見えないのかもしれません。

それでも、光るものや小さな筒には、何か気配があるのでしょう。

黒猫は万華鏡の横に座り、しばらくじっとしていました。

私はまた、万華鏡をのぞきました。

すると、さっきとはまったく違う世界が広がっていました。

きれいだけれど、すぐに消えてしまうもの。

手の中にあるのに、つかまえられないもの。

万華鏡の中の模様は、日々の記憶に少し似ている気がしました。

楽しかったことも、悲しかったことも、何でもない普通の一日も、時間がたつと少しずつ形を変えていきます。

同じ出来事でも、あとから思い出すと違って見えることがあります。

嫌だったことが、少しだけ笑える話になることもあります。

何でもなかった景色が、あとになって妙に大切に思えることもあります。

黒猫は、そんなことなど知らない顔で、万華鏡のそばに前足をそろえていました。

けれど、その静かな姿を見ていると、今この瞬間も、いつか違う模様になって思い出すのだろうと思いました。

本棚。

午後の光。

古い万華鏡。

そして、その横にいる黒猫。

何か大きな出来事があったわけではありません。

ただ、静かな部屋で、少しだけきれいなものを見ただけです。

でも、そういう時間のほうが、あとから心に残ることがあります。

万華鏡を回すたびに、世界は少しずつ変わります。

でも、変わってしまうからこそ、今見えている模様がきれいなのかもしれません。

黒猫は小さくあくびをして、また窓辺へ戻っていきました。

私は万華鏡を本棚の上に置きました。

またいつか、何でもない午後にのぞいてみようと思います。

そのときには、今日とは違う光が見えるはずです。

そしてきっと、黒猫もまた、何も言わずにそばへ来るのだと思います。


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2026年6月9日火曜日

黒猫と歩道橋

黒猫と歩道橋

夕方の町に、少しだけ冷たい風が吹いていました。

車の音が下から流れてきて、歩道橋の階段は、昼の熱をまだ少しだけ残していました。

その階段の下に、一匹の黒猫がいました。

黒猫は急いでいるようでもなく、迷っているようでもなく、ただ静かに上を見上げていました。

歩道橋の上には、人が何人か通っていきます。

学校帰りの子ども。
買い物袋を持った人。
スマホを見ながら歩く人。

誰も、階段の下にいる黒猫には気づきません。

黒猫は、ひとつだけ前足を階段にのせました。

そして、少し考えるように止まりました。

歩道橋というものは、人間にはただの道かもしれません。

車の多い道を渡るための、少し面倒な階段。

でも、小さな黒猫にとっては、それは町を見下ろす高い橋でした。

一段。
また一段。

黒猫は、音もなく階段を上っていきました。

途中で風が吹き、細いしっぽが少しだけ揺れました。

歩道橋の真ん中まで来ると、黒猫は立ち止まりました。

下には、車のライトが流れていました。

白いライトと赤いライトが、まるで小さな川のように行ったり来たりしています。

黒猫は、その光をじっと見つめていました。

どこかへ急ぐ人たち。
どこかへ帰る車たち。
誰かを待っている信号。

町はいつも動いているのに、黒猫だけは、その真ん中で静かでした。

夕焼けの色が、歩道橋の手すりを薄く染めていきます。

黒猫の背中にも、ほんの少しだけオレンジ色の光がのりました。

真っ黒に見える毛並みの中に、やわらかい輪郭が浮かびます。

それは、夜になる前の短い時間だけ見える、小さな影絵のようでした。

黒猫は鳴きませんでした。

ただ、町を見ていました。

もしかすると、何かを探していたのかもしれません。

帰る場所。
会いたい誰か。
それとも、ただ今日という日が終わっていく景色。

歩道橋の上を、また人が通り過ぎました。

その人は一瞬だけ黒猫に気づき、少し足をゆるめました。

けれど、声はかけませんでした。

黒猫も、その人を見ませんでした。

お互いに、邪魔をしない距離がありました。

それが、少しだけやさしい時間に思えました。

やがて信号が変わり、下の車がまた動き出しました。

黒猫はゆっくりと向きを変えました。

歩道橋の反対側へ向かって、また一歩ずつ歩いていきます。

その先に何があるのかは、誰にもわかりません。

小さな公園かもしれません。
古い家の塀かもしれません。
誰かが置いてくれた水の皿かもしれません。

黒猫は、何も言わずに階段を下りていきました。

そして町の影の中へ、すっと溶けていきました。

歩道橋には、夕方の風だけが残りました。

さっきまでそこに黒猫がいたことも、すぐに町の音にまぎれてしまいます。

でも、ふと歩道橋を見上げたとき。

あの黒い小さな背中を、思い出すことがあります。

何も言わずに町を渡っていく姿。

人間の知らない道を、静かに選んで歩いていく姿。

歩道橋は、ただ道を越えるための場所ではなくて。

少しだけ立ち止まって、町を眺めるための場所でもあるのかもしれません。

黒猫はきっと、今日もどこかの夕方を歩いています。

急がず、騒がず、誰にも説明せずに。

小さな足音だけを残して。

町の上を、静かに渡っていくのです。


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2026年6月8日月曜日

黒猫と横断歩道

黒猫と横断歩道

夕方の町に、
少しだけ冷たい風が吹いていました。

昼間のにぎやかさがゆっくり薄れて、
道路の上には、車の音と、
遠くの人の声だけが残っていました。

その横断歩道の前に、
一匹の黒猫が座っていました。

黒猫は、
急いでいるわけでもなく、
迷っているわけでもなく、
ただ静かに信号を見上げていました。

黒い毛並みは夕方の影に溶けそうでしたが、
街灯のやわらかな光が、
耳の先と背中の丸みを少しだけ照らしていました。

横断歩道の白い線は、
町の向こう側へ続く小さな橋のようでした。

向こう側には、
古い本屋さんの明かりが見えました。

ガラス戸の向こうに、
背の低い本棚と、
積まれた文庫本と、
小さな椅子が見えました。

黒猫はそこへ行きたいのかもしれません。

それとも、
ただ信号が変わるのを待っているだけなのかもしれません。

町の人たちは、
黒猫の横を通り過ぎていきました。

買い物袋を持った人。

自転車を押す人。

スマホを見ながら歩く人。

誰もがそれぞれの用事を持っていて、
それぞれの帰る場所へ急いでいました。

けれど黒猫だけは、
時間から少し外れた場所にいるようでした。

信号が赤から青に変わりました。

電子音が、
小さく町に流れます。

黒猫はすぐには動きませんでした。

右を見て、
左を見て、
もう一度、前を見ました。

それから、
白い線の上に、
そっと前足を置きました。

一歩。

また一歩。

黒猫は急がずに、
横断歩道を渡っていきました。

小さな体なのに、
その歩き方はどこか堂々としていました。

まるで、
この町の道をずっと前から知っているようでした。

車は止まり、
人も少しだけ歩く速さをゆるめました。

誰かが小さく笑いました。

誰かが、
「気をつけてね」
と声に出さずに思いました。

黒猫は振り返りませんでした。

ただ、
まっすぐ向こう側へ渡っていきました。

横断歩道を渡り終えると、
黒猫は本屋さんの前で立ち止まりました。

閉まりかけたガラス戸のすきまから、
本の匂いと、
古い紙の静けさが流れてきます。

黒猫は、
その匂いを知っているように、
小さく鼻を動かしました。

店の奥から、
白髪まじりの店主が顔を出しました。

「ああ、来たのか」

その声は、
誰かを迎える時のようにやさしく、
少しだけ眠たそうでした。

黒猫は返事をするかわりに、
しっぽをゆっくり揺らしました。

そして、
店の中へ入っていきました。

横断歩道の信号は、
また赤に変わりました。

町はいつものように動き続けています。

けれど、
さっき黒猫が渡った白い線の上には、
ほんの少しだけ、
やさしい物語が残っているようでした。

道を渡るだけのことでも、
誰かにとっては小さな冒険なのかもしれません。

向こう側へ行くこと。

立ち止まって待つこと。

ちゃんと見てから歩き出すこと。

黒猫は何も教えてくれません。

けれどその背中は、
ゆっくりでいいから、
自分の歩幅で渡ればいいと、
静かに言っているようでした。


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2026年6月7日日曜日

黒猫の後ろ姿

黒猫の後ろ姿

黒猫の後ろ姿を見ていると、
なぜか少しだけ静かな気持ちになります。

こちらを向いているわけでもなく、
何かを語ってくれるわけでもありません。

ただ、窓のそばに座って、
外の景色をじっと見ているだけです。

その背中は小さいのに、
どこか大きな世界を見ているようにも見えます。

風でカーテンが少し揺れて、
午後の光が床にやわらかく落ちています。

黒猫の耳だけが、
ときどき小さく動きます。

遠くの鳥の声。
通り過ぎる車の音。
誰かの足音。

黒猫はそれらを聞きながら、
何も急がず、何も求めず、
ただそこにいます。

人間はすぐに、
答えを探したくなります。

これでいいのか。
間違っていないのか。
どこへ向かえばいいのか。

けれど黒猫の後ろ姿は、
そんなことを少しだけ忘れさせてくれます。

今日という日を、
ただ静かに眺める時間があってもいい。

何もしない午後が、
心をそっと休ませてくれることもある。

黒猫は振り返りません。

でもその背中は、
「大丈夫」と言っているように見えました。

言葉ではなく、
静けさで寄り添ってくれる存在。

黒猫の後ろ姿には、
そんなやさしさがあるのかもしれません。


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2026年6月6日土曜日

黒猫と貯金箱

黒猫と貯金箱

机のすみっこに、
小さな貯金箱が置いてありました。

丸くて、少し古くて、
振ると小さくちゃりんと音がします。

黒猫は、その音が気になるようでした。

前足をそっと伸ばして、
貯金箱の横をちょんと触ります。

ちゃりん。

部屋の中に、
小さな音がひとつ落ちました。

黒猫は驚いたように耳を立て、
それから何もなかったふりをして、
静かに座り直しました。

貯金箱の中には、
たくさんのお金が入っているわけではありません。

買い物のあとに残った小銭。

机の上に置きっぱなしだった十円玉。

いつか使うかもしれないと思って、
なんとなく入れてきた小さなお金たち。

でも、貯金箱は黙っていました。

少なくても、
急がなくても、
ひとつずつ入ってくる音を、
ちゃんと覚えているようでした。

黒猫は貯金箱の前で丸くなります。

まるで、
その小さな宝物を守っているみたいに。

外では風が吹いて、
カーテンが少しだけ揺れました。

部屋の中は静かで、
貯金箱も、黒猫も、
何も急いでいません。

大きな夢も、
小さな願いも、
最初はきっと、
こんな小さな音から始まるのかもしれません。

ちゃりん。

またひとつ、
明日の分の音が入りました。


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2026年6月5日金曜日

黒猫と花火

黒猫と花火

夜の空に、最初の花火が上がりました。

どん、と低い音がして、
窓ガラスがほんの少し震えました。

部屋のすみで丸くなっていた黒猫が、
ゆっくりと顔を上げます。

驚いたような顔ではなく、
「なんだろう」と確かめるような顔でした。

窓の外では、
赤や青や金色の光が、
夜の空にふわっと開いては消えていきます。

黒猫は窓辺まで歩いていき、
カーテンのすきまから外を見ました。

遠くの花火は、
音だけ少し大きくて、
光はとても静かでした。

人の声も、屋台のにぎわいも、
ここまでは届きません。

届くのは、
夜空に咲く光と、
少し遅れてやってくる音だけです。

黒猫の目に、
小さな花火の光が映りました。

金色の光が映ったかと思うと、
すぐに青くなり、
また暗い瞳に戻ります。

花火はきれいだけれど、
ずっと残るものではありません。

咲いたと思ったら消えて、
消えたと思ったら、
また別の光が空に開きます。

黒猫は、それを急かすこともなく、
ただ静かに見つめていました。

大きな音が鳴るたびに、
耳だけ少し動かします。

それでも逃げずに、
窓辺に座ったままです。

まるで、夏の夜にだけ見えるものを、
ちゃんと覚えておこうとしているみたいでした。

やがて花火の間隔が少しずつ長くなり、
夜空はまた、いつもの暗さに戻っていきました。

最後の一発が遠くで開き、
金色の光がゆっくり落ちていきます。

黒猫はしばらく外を見てから、
何も言わずに部屋へ戻りました。

そして、さっきまで眠っていた場所に、
また小さく丸くなります。

花火はもう見えません。

けれど部屋の中には、
ほんの少しだけ、
夏の夜の明るさが残っているようでした。

黒猫は目を閉じます。

遠くで鳴った最後の音が、
ゆっくりと消えていきました。


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黒猫とクーラー

黒猫とクーラー

夏の午後、部屋の中は少しだけ暑くなっていました。

窓の外では、まぶしい光が白いカーテンを通りぬけて、床の上にやわらかく落ちていました。

机の上には読みかけの本。

その横には、少しだけぬるくなったお茶。

そして部屋のすみっこには、黒猫が一匹、じっと座っていました。

黒猫は暑いのが苦手です。

けれど、冷たすぎる風もあまり好きではありません。

クーラーのスイッチを入れると、部屋の空気が少しずつ変わっていきました。

さっきまで重たかった空気が、ゆっくり軽くなっていきます。

黒猫は耳を少しだけ動かしました。

風の音を聞いているようでした。

クーラーの風が直接当たる場所には行かず、少し離れた床の上に移動します。

そこは冷えすぎず、暑すぎず、ちょうどいい場所でした。

黒猫は前足をそろえて座り、しばらく部屋の中を見渡しました。

まるで、ここなら安心して休めると確認しているようでした。

やがて黒猫は、ゆっくり体を丸めました。

しっぽを体の横にそっと寄せて、目を細めます。

クーラーの小さな音。

カーテンのゆれ。

本のページが少しだけ開いたままの静かな机。

何か特別なことがあるわけではありません。

でも、暑い日に少し涼しい部屋があるだけで、心まで休まるような気がしました。

黒猫は、気持ちよさそうに眠りはじめました。

その寝顔を見ていると、クーラーの風まで少しやさしくなったように感じます。

夏の午後。

黒猫とクーラー。

小さな部屋の中に、静かな涼しさが流れていました。


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黒猫と温泉

黒猫と温泉

湯けむりの向こうに、
黒猫が一匹いました。

もちろん、猫が温泉に入っているわけではありません。

古い温泉宿の縁側で、
まるで湯気をながめる係のように、
静かに座っていたのです。

木の床は、少しだけきしみます。

外には小さな露天風呂があり、
白い湯けむりが、
夜の空へゆっくりのぼっていました。

その湯けむりは、
雲のようでもあり、
誰かのため息のようでもありました。

黒猫は、
何も言わずにそれを見ています。

温泉というものは、
不思議です。

体をあたためるだけなのに、
心の奥にたまっていたものまで、
少しずつほどけていく気がします。

急がなくてもいい。

何かをしなくてもいい。

ただお湯がそこにあって、
湯気が立っていて、
静かな時間が流れている。

それだけで、
今日という日が少しやわらかくなります。

黒猫は縁側の端で、
前足をそろえて座っていました。

湯けむりに包まれたその姿は、
小さな置物のようにも見えます。

けれど、時々しっぽが動きます。

生きているのです。

ちゃんと、ここで。

あたたかい場所を見つけて、
静かな夜を受け止めているのです。

温泉宿の明かりは、
派手ではありません。

障子越しのやわらかな光が、
床や柱を淡く照らしています。

遠くでお湯の流れる音がして、
たまに風が木の葉をゆらします。

人の声は少なく、
時間だけがゆっくり進んでいました。

黒猫は、
湯けむりの向こうに何を見ていたのでしょう。

昼間の疲れ。

知らない誰かの旅。

それとも、
あたたかい場所を探して歩いてきた、
自分の足あとでしょうか。

温泉は、
すべてを解決してくれる場所ではありません。

でも、少しだけ休ませてくれます。

冷えた手をあたためるように、
固くなった心も、
ゆっくりほどいてくれます。

黒猫は、
最後に小さくあくびをしました。

そして、湯けむりの見える縁側で、
丸くなって眠りはじめました。

温泉の夜は、
まだ静かに続いています。

何もしない時間が、
こんなにもやさしいものだったと、
黒猫が教えてくれた気がしました。


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