朝の川べりに、ひとりの釣り人がいた。
まだ空気は少し冷たくて、川の水はゆっくりと光を揺らしていた。
釣り人は古びた椅子に腰かけ、長い竿を水面に向けている。
急いでいる様子はない。
魚が釣れても釣れなくても、そこにいる時間そのものを楽しんでいるようだった。
その少し後ろに、黒猫が一匹いた。
黒猫は草の上にちょこんと座り、じっと釣り人の背中を見ていた。
魚を狙っているのか。
それとも、ただその人の静けさが気になったのか。
黒猫にしかわからない。
釣り人は、ときどき竿先を見つめ、ときどき空を見上げた。
黒猫は、ときどきしっぽを揺らし、ときどき川の音に耳を動かした。
ふたりのあいだに会話はない。
けれど、不思議と同じ時間を分け合っているように見えた。
川は流れ、風は草をなで、遠くで鳥が鳴いた。
そのたびに、黒猫の耳がぴくりと動く。
釣り人はそれに気づいているのか、気づいていないのか、少しだけ口元をゆるめた。
やがて、浮きが小さく揺れた。
釣り人は静かに竿を持ち上げた。
黒猫も立ち上がった。
川面に小さな銀色が跳ねた。
釣り人は魚を見て、黒猫も魚を見た。
まるで、ふたりで同じ秘密を見つけたみたいだった。
でも釣り人は、魚をそっと川へ返した。
黒猫は少しだけ不満そうに見えた。
けれど、すぐにまた草の上へ座った。
たぶん黒猫も、少しだけわかっていたのだと思う。
ここにあるのは、魚を手に入れる時間ではなく、川と朝と静けさを眺める時間なのだと。
釣り人はまた竿を下ろした。
黒猫はそのそばで丸くなった。
川の音だけが、ふたりの間をゆっくり流れていく。
何か特別なことが起きたわけではない。
けれど、その朝は少しだけ物語のようだった。
黒猫と釣り人。
名前も知らないふたりが、同じ川辺で、同じ静けさの中にいた。
それだけで、なんだかやさしい一日が始まった気がした。
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