2026年5月31日日曜日

黒猫と雲

黒猫と雲
窓辺に、黒猫が座っていました。

外はよく晴れていて、
青い空の中を、白い雲がゆっくり流れていました。

黒猫は、何も言わずに、
その雲をじっと見つめていました。

まるで、雲の形が変わっていくたびに、
そこに小さな物語を見つけているようでした。

丸い雲は、ふわふわの毛糸玉に見えました。

長く伸びた雲は、
どこか遠くへ続く道のようにも見えました。

黒猫は、その道を歩いていく自分を、
少しだけ想像していたのかもしれません。

雲の上には、音のしない世界があって、
やわらかな光だけが広がっている。

そこでは、急がなくてもよくて、
誰かに呼ばれることもなくて、
ただ好きな場所で丸くなって眠れる。

そんな世界を、
黒猫は空の向こうに見ていたようでした。

部屋の中には、静かな時間が流れていました。

本のページをめくる音も、
時計の針の音も、
今日は少しだけやさしく聞こえました。

雲は、少しずつ形を変えていきます。

さっきまで毛糸玉だった雲は、
いつの間にか小さな船のようになっていました。

黒猫は、しっぽをゆっくり揺らしました。

もしかすると、
その船に乗ってみたいと思ったのかもしれません。

雲の船に乗って、
屋根の上を越えて、
町を越えて、
知らない場所まで行ってみる。

けれど、黒猫は窓辺から動きません。

遠くへ行きたい気持ちと、
この場所にいたい気持ち。

そのどちらも大切にしているように、
ただ静かに空を見上げていました。

やがて、雲は太陽の前を通りました。

部屋の光が少しやわらかくなり、
黒猫の背中にも淡い影が落ちました。

その姿は、まるで一冊の本の中に出てくる、
小さな旅人のようでした。

どこにも行かなくても、
心だけは遠くへ行ける日があります。

空を眺めるだけで、
雲の形を追いかけるだけで、
少しだけ世界が広く見える日があります。

黒猫と雲。

ただそれだけの景色なのに、
そこには静かな物語がありました。

今日も黒猫は、窓辺に座っています。

そして流れていく雲を見ながら、
誰にも聞こえない小さな夢を、
そっと空に浮かべているのかもしれません。


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2026年5月30日土曜日

黒猫と鳥居

黒猫と鳥居

夕方の道を歩いていると、
小さな神社の前に出ました。

そこには赤い鳥居があり、
その下に一匹の黒猫が座っていました。

黒猫は逃げるでもなく、
こちらを見るでもなく、
ただ静かに鳥居の向こうを見つめていました。

まるで、
その先にあるものを知っているようでした。

鳥居の向こうには、
石畳の参道が続いていました。

夕日の光が少しだけ差し込み、
赤い鳥居も、黒猫の背中も、
やわらかく照らされていました。

黒猫というだけで、
どこか不思議な存在に見えることがあります。

ただそこにいるだけなのに、
何かの物語が始まりそうな気がするのです。

神社の鳥居も同じです。

普段の道の途中にあるのに、
そこをくぐると少しだけ空気が変わる。

日常の中にある、
小さな境目のような場所です。

黒猫はゆっくり立ち上がり、
鳥居の下をくぐっていきました。

細いしっぽを揺らしながら、
何も言わずに奥へ進んでいきます。

その後ろ姿を見ていると、
こちらも少しだけ、
鳥居の向こうをのぞいてみたくなりました。

特別なことが起きるわけではありません。

けれど、
何気ない夕方の景色の中に、
少しだけ不思議な時間が流れていました。

黒猫と鳥居。

それだけで、
なんでもない道が、
物語の入口のように見えてくるのです。


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2026年5月29日金曜日

黒猫と本

黒猫と本

机の上に、一冊の本が置かれていました。

表紙は少し古く、
角はやわらかく丸くなっていて、
何度も開かれてきたことがわかります。

その本のそばに、
黒猫が一匹、静かに座っていました。

黒猫は文字を読めるわけではありません。

けれど、
ページのにおいも、
紙をめくる音も、
本を読んでいる人の静かな呼吸も、
ちゃんと知っていました。

部屋には、午後の光が入っていました。

窓の外では、
風が少しだけ木の葉を揺らしています。

本のページが、
ふわりと一枚だけ動きました。

黒猫はそれを見て、
小さく首をかしげました。

まるで本の中から、
誰かがそっと話しかけてきたようでした。

「ここから先へ、おいで」

そんな声が聞こえた気がして、
黒猫は前足を本のそばに置きました。

ページには、
遠い森のことが書かれていました。

月明かりの道。

小さな家。

眠らない時計。

そして、
黒い猫を待っている誰か。

もちろん、黒猫には文字は読めません。

それでも不思議なことに、
そのページの上には、
どこか懐かしい景色が広がっているように見えました。

黒猫は本の上に乗ることはしませんでした。

ただ、そばに丸くなって、
じっとその本を見つめていました。

本を読むということは、
どこかへ行くことなのかもしれません。

椅子に座ったままでも、
部屋の中にいても、
心だけは遠くへ歩いていける。

黒猫はそれを、
人間より少し早く知っていたのかもしれません。

やがて日が傾き、
部屋の中が夕方の色に変わりました。

本の影が長く伸び、
黒猫のしっぽにそっと重なります。

黒猫は目を細めました。

本はまだ開いたままです。

物語は終わっていません。

けれど、
今日のところは、
ここまででいいのです。

続きはまた、
明日の光の中で読めばいい。

黒猫は本のそばで丸くなり、
小さな寝息を立てはじめました。

その寝顔は、
もう本の中の森を歩いているようでした。

机の上には、一冊の本。

そのそばには、黒猫。

何も起きていないようで、
本当は小さな物語が、
静かに始まっていたのでした。


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2026年5月28日木曜日

黒猫とテレビ

黒猫とテレビ

夜になると、部屋の中は少しだけ静かになりました。

窓の外では、遠くの車の音が小さく流れていて、
机の上の明かりだけが、ぽつんと部屋を照らしていました。

その部屋の真ん中に、黒猫が一匹いました。

黒猫は、いつものようにソファの端に丸くなっていましたが、
その日は少しだけ顔を上げていました。

目の前にあるテレビから、いろいろな光がこぼれていたからです。

青い光。

白い光。

ときどき、夕焼けみたいなオレンジ色の光。

画面の中では、知らない町が映っていました。

誰かが歩いていて、誰かが笑っていて、雨が降ったり、空が晴れたりしていました。

黒猫には、その意味はわかりません。

けれど、画面の中で動く光を見ていると、少しだけ不思議な気持ちになりました。

まるで、小さな窓の向こうに、別の世界があるみたいでした。

黒猫は、しっぽをゆっくり動かしました。

テレビの中の人が笑うと、黒猫は少し耳を動かしました。

テレビの中で風が吹くと、黒猫は窓の方を見ました。

本当に風が吹いたのか、画面の中だけのことなのか、少し迷ったのかもしれません。

やがて、画面は静かな夜の景色に変わりました。

暗い海。

遠くの灯台。

波の音のようなものが、部屋の中に小さく流れました。

黒猫は、テレビの前まで歩いていきました。

そして、画面の中の海をじっと見つめました。

そこには行けないと、黒猫はきっと知っていました。

でも、見ているだけなら、どこへでも行けるような気がしました。

ソファの上に戻った黒猫は、丸くなって目を細めました。

テレビの光が、黒い毛並みにやさしく映っていました。

まるで夜空に、小さな星の光が落ちたみたいでした。

テレビの中の世界は、まだ続いています。

けれど黒猫は、もう半分夢の中でした。

夢の中で、黒猫はテレビの向こう側を歩いていました。

光る町を抜けて、雨の道を越えて、静かな海のそばまで行きました。

そして、遠くで光る灯台を見上げました。

朝になれば、テレビはただの黒い画面に戻ります。

でも黒猫は、知っているのです。

夜になるとまた、あの小さな窓が開くことを。

そこには、知らない世界が映っていて。

そこには、行けない場所の光があって。

ただ静かに眺めているだけで、少しだけ旅をした気持ちになれるのです。


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2026年5月27日水曜日

黒猫とスマホ

黒猫とスマホ
机の上に置いたスマホが、ふいに小さく光りました。

画面には、誰かからの知らせが届いています。
けれど黒猫は、その文字を読むわけでもなく、ただじっと見つめていました。

黒い耳が少しだけ動きます。
しっぽは、ゆっくりと右へ左へ揺れています。

人間にとってスマホは、遠くの誰かとつながる道具です。
知らない場所のことを知ったり、言葉を送ったり、写真を見たりできます。

でも黒猫にとっては、ただ光る小さな箱なのかもしれません。
音が鳴って、画面が明るくなって、指で触ると景色が変わる。

それは少しだけ、不思議な窓のようでした。

黒猫は前足をそっと伸ばして、スマホの画面に触れました。
すると画面が動きます。

人間は少し笑いました。
黒猫は、何もしていないような顔をしました。

まるで、世界の秘密をひとつ見つけたのに、知らないふりをしているみたいでした。

スマホの中には、たくさんの言葉があります。
たくさんの写真があります。
たくさんの誰かの毎日があります。

けれど、そのそばで丸くなっている黒猫の静けさには、スマホの中にはない時間が流れていました。

急がなくてもいい時間。
何かを返さなくてもいい時間。
ただそこにいてくれるだけで、少し安心できる時間。

黒猫はスマホの横で、ゆっくり目を閉じました。
画面の光は、黒い毛にやさしく反射しています。

人間はスマホを手に取ろうとして、少しだけやめました。

今は、画面の中を見るよりも、目の前の黒猫を見ていたくなったのです。

スマホは、世界とつながるためのもの。
黒猫は、今ここに戻ってくるためのもの。

そんなことを思いながら、静かな部屋の中で、黒猫とスマホは並んでいました。


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2026年5月26日火曜日

黒猫と雨

黒猫と雨

雨の日になると、黒猫は窓辺に座ります。

外へ出たいわけでもなく、
雨がやむのを待っているわけでもなく、
ただ、しとしとと落ちてくる雨を見ています。

窓の向こうでは、
庭の草が小さく揺れて、
石の上には丸い雨粒が並んでいました。

黒猫は、しっぽをゆっくり動かしながら、
まるで雨の音を読んでいるようでした。

ぽつん。
ぽつん。
ざあ、ざあ。

雨には、いろいろな声があります。

屋根をたたく音。
葉っぱを濡らす音。
水たまりに小さな輪を描く音。

黒猫は、そのひとつひとつを聞きながら、
今日の世界は少し静かだと思いました。

晴れた日には、鳥が鳴きます。
風が通ります。
子どもたちの声が遠くから聞こえてきます。

でも雨の日は、
世界がそっと布をかぶったみたいに、
すべての音がやわらかくなります。

黒猫は、その静けさが嫌いではありませんでした。

濡れた道を歩く人の足音。
傘に落ちる雨の粒。
遠くで小さく通り過ぎる車の音。

どれも、いつもより少しだけ遠く聞こえます。

黒猫は窓ガラスに鼻を近づけました。

ガラスはひんやりしていて、
そこに映った黒猫の顔は、
少しだけ考えごとをしているように見えました。

雨の日は、急がなくていい日。

どこかへ行かなくてもいい日。
何かを頑張らなくてもいい日。
ただ、雨の音を聞いていればいい日。

黒猫は、そう思いました。

やがて、部屋の中にあたたかい明かりが灯りました。

窓の外はまだ灰色でしたが、
その明かりがガラスに映ると、
雨の景色も少しだけやさしく見えました。

黒猫は丸くなり、
雨音を子守歌のように聞きながら、
ゆっくり目を閉じました。

雨はまだ降っています。

けれど、その雨はもう、
さみしい音ではありませんでした。

黒猫にとって雨の日は、
世界が静かに休んでいることを教えてくれる、
小さな物語の時間なのです。


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2026年5月25日月曜日

黒猫とシャボン玉

黒猫とシャボン玉

庭のすみで、黒猫が空を見上げていました。

春でも夏でもない、
少しだけ風のやさしい午後でした。

そのとき、ふわりと一つ、
シャボン玉が飛んできました。

黒猫は、ぴくりと耳を動かしました。

それは鳥でもなく、虫でもなく、
音も立てずに光る、不思議な丸いものでした。

シャボン玉は、空の色を少しだけ映しながら、
ゆっくりと黒猫の前を通り過ぎていきました。

黒猫は追いかけませんでした。

ただ、じっと見ていました。

触れたら消えてしまいそうなものを、
どう扱えばいいのか、知っているようでした。

二つ目のシャボン玉が飛んできました。

今度は、黒猫の鼻先の近くまで来て、
小さく揺れました。

黒猫はそっと顔を近づけました。

その丸い光の中には、
庭の草も、白い雲も、黒猫自身の顔も、
ほんの少しだけ映っていました。

まるで、小さな世界が浮かんでいるようでした。

けれど次の瞬間、
シャボン玉は音もなく消えました。

黒猫は少しだけ目を細めました。

消えてしまったものを探すように、
空を見上げました。

そこには、もう何もありません。

でも黒猫は、
さっきまでそこに光があったことを覚えていました。

形が残らなくても、
心に残るものはあるのかもしれません。

シャボン玉は、次々と空へ上がっていきました。

黒猫はその下で、
静かに座ったまま見送っていました。

追いかければ割れてしまう。

つかまえようとすれば消えてしまう。

だから、ただ見つめる。

それだけで十分なものも、
この世界にはあるのだと思います。

黒猫のまわりに、
いくつもの小さな光が浮かびました。

午後の庭は、
ほんの少しだけ夢の中のようでした。

そして黒猫は、
最後のシャボン玉が空に消えるまで、
まばたきも忘れて見つめていました。


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2026年5月24日日曜日

黒猫の島

黒猫の島

海のむこうに、黒猫だけが知っている島がありました。

その島は、地図には小さな点のようにしか描かれていません。
けれど、夕方になると、海の色が少しだけ金色に変わり、波の音がやさしくなる場所でした。

島には、古い石の階段がありました。
その階段をのぼると、小さな灯台がありました。
灯台のそばには、いつも一匹の黒猫が座っていました。

黒猫は、誰かを待っているようにも見えました。
それとも、誰も待っていないようにも見えました。

ただ、海を見ていました。

風が吹くと、黒猫のひげが少し揺れました。
遠くでカモメが鳴き、白い雲がゆっくり流れていきました。
島の家々は静かで、窓辺には小さな花が咲いていました。

この島では、時間が急ぎません。
時計の針も、波の音に合わせて進んでいるようでした。

黒猫は、朝になると港へ行きます。
漁から帰ってきた小さな船を見つめ、魚屋さんの前をゆっくり歩きます。
でも、魚をねだったりはしません。

ただ、そこにいるだけです。

昼になると、白い壁の路地を歩きます。
細い道の向こうには青い海が見えて、坂道には光がこぼれていました。
黒猫の足音は、とても小さくて、まるで島の秘密を踏まないように歩いているみたいでした。

そして夕方になると、また灯台のそばへ戻ります。

海は少しずつ色を変えていきます。
青から水色へ。
水色から金色へ。
金色から、静かな紫へ。

黒猫は、その全部を知っていました。
この島の一日が、どうやって終わっていくのかを。
そして、夜が来ても怖くないことを。

灯台に明かりがともると、黒猫の背中がほんのり照らされました。
その姿は、島を守っている小さな影のようでした。

もしかすると、この島は黒猫のものなのかもしれません。
いえ、黒猫が島を持っているのではなく、島のほうが黒猫を大切にしているのかもしれません。

風も、波も、石段も、灯台も。
みんな黒猫の歩く速さを知っているようでした。

黒猫の島には、大きな事件は起きません。
宝物が眠っているわけでも、冒険が待っているわけでもありません。

けれど、そこには静かな物語があります。

誰かに急かされず、ただ海を見ている時間。
何も言わなくても、そばにいるだけで満たされる空気。
遠くへ行かなくても、心が少し旅をしたように感じる夕暮れ。

黒猫は今日も、灯台のそばに座っています。

しっぽをゆっくり揺らしながら、海のむこうを見ています。

その瞳には、波の光が映っていました。
まるで、島じゅうのやさしい時間を、ひとりで受け止めているようでした。

もしもいつか、心が少し疲れた日に。
何も考えず、静かな場所へ行きたくなったなら。

海のむこうにある、黒猫の島を思い出したいと思います。

そこではきっと、黒猫が今日も待っています。
何も言わずに。
ただ、静かな海を見ながら。


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2026年5月23日土曜日

黒猫とアゲハ蝶

黒猫とアゲハ蝶

庭のすみで、黒猫がじっと座っていました。

夏のはじまりのような光が、
草の上にやわらかく落ちていました。

黒猫は、何かを待っているようでした。

風が少しだけ吹いて、
葉っぱが小さく揺れました。

そのとき、
一匹のアゲハ蝶がやってきました。

黄色と黒の羽をひらひらさせながら、
花から花へと、静かに飛んでいました。

黒猫は追いかけませんでした。

ただ、その小さな羽の動きを、
まばたきも忘れたように見つめていました。

アゲハ蝶は、黒猫の前を通りすぎ、
少し高く舞い上がりました。

まるで、
「こっちへおいで」と言っているようでした。

けれど黒猫は動きません。

草の上に座ったまま、
世界の秘密を見つけたような顔をしていました。

アゲハ蝶は空へ向かって飛び、
やがて光の中に溶けるように見えなくなりました。

黒猫はしばらく、
その先の空を見上げていました。

庭にはまた、
静かな時間が戻ってきました。

でも、さっきまでとは少し違っていました。

黒猫のまわりには、
アゲハ蝶が残していった小さな物語が、
まだふわりと漂っているようでした。

何も言葉はありません。

ただ、黒猫とアゲハ蝶が出会っただけ。

それだけなのに、
その庭は少しだけ、
本の中の世界みたいに見えました。


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2026年5月22日金曜日

黒猫とカタツムリ

黒猫とカタツムリ

雨上がりの庭に、
黒猫が一匹すわっていました。

空にはまだ、
灰色の雲が少し残っていて、
葉っぱの先からは、
しずくがぽたりと落ちていました。

黒猫は、
濡れた石の上をじっと見つめています。

そこには、
小さなカタツムリがいました。

とてもゆっくり、
とても静かに、
カタツムリは前へ進んでいました。

黒猫は首を少しかしげました。

「そんなにゆっくりで、
どこまで行けるのだろう」

そんなことを思ったのかもしれません。

カタツムリは、
急ぐこともなく、
焦ることもなく、
自分の家を背負ったまま、
少しずつ進んでいきます。

黒猫は、
その後ろを追いかけるでもなく、
前に回り込むでもなく、
ただそばで見ていました。

庭の草は雨に洗われて、
いつもより緑が深く見えました。

小さな水たまりには、
曇り空と黒猫の耳が、
ゆらゆら映っています。

カタツムリは、
小さな葉っぱの下で一度止まりました。

黒猫も、
同じように動きを止めました。

まるで二匹だけが、
雨上がりの時間の中に
取り残されたようでした。

速く走れる黒猫と、
ゆっくり進むカタツムリ。

けれどその日、
黒猫は走りませんでした。

ただ、
小さな命が進んでいくのを、
静かに見守っていました。

やがて雲のすき間から、
やわらかな光が差し込みました。

カタツムリの殻が、
少しだけきらりと光りました。

黒猫はまばたきをして、
しっぽをゆっくり揺らしました。

小さな世界にも、
ちゃんと物語はある。

急がなくても、
遠くまで行けることがある。

黒猫はそれを、
雨上がりの庭で、
カタツムリから教えてもらったのかもしれません。


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2026年5月21日木曜日

黒猫と麦わら帽子

黒猫と麦わら帽子

夏のはじまりの午後、
窓ぎわに一つの麦わら帽子が置いてありました。

それは、朝の散歩から帰ってきた誰かが、
そのまま椅子の上に置き忘れた帽子でした。

帽子には、まだ少しだけ外の匂いが残っていました。

乾いた草の匂い。

日なたの道の匂い。

遠くで鳴いていた蝉の声まで、
そこに少しだけ編み込まれているようでした。

黒猫は、音もなく部屋に入ってきました。

そして、その麦わら帽子の前で足を止めました。

帽子をじっと見つめ、
鼻先を近づけて、
くん、と小さく匂いをかぎました。

それから、まるで大切な宝物を見つけたみたいに、
帽子のそばに丸くなりました。

窓の外では、
白い雲がゆっくり流れていました。

風がカーテンを少しだけ揺らし、
部屋の中にやわらかな光が入ってきます。

麦わら帽子の影が、
床の上に小さな輪を作っていました。

黒猫はその影の中に前足を入れて、
目を細めました。

もしかすると黒猫は、
その帽子がどこへ行ってきたのかを、
想像していたのかもしれません。

青い空の下。

ひまわりの咲く道。

草むらを抜ける風。

遠くの坂道。

人間にはただの麦わら帽子でも、
黒猫にとっては、
外の世界を連れて帰ってきた不思議なものに見えたのでしょう。

しばらくすると、
黒猫はそっと顔を帽子のふちに乗せました。

麦わらの感触が気持ちよかったのか、
ひげを少し動かして、
そのまま眠ってしまいました。

帽子は何も言いません。

黒猫も何も言いません。

ただ、夏の光だけが、
二つを静かに包んでいました。

忘れられた麦わら帽子と、
それを見つけた黒猫。

その小さな出会いは、
誰にも知られないまま、
午後の部屋の中で、
やさしい物語になっていました。


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2026年5月20日水曜日

黒猫と扇風機

黒猫と扇風機

夏の部屋には、少しだけ不思議な時間が流れている。

窓の外では、セミの声が遠くから聞こえていた。
カーテンはゆっくり揺れて、畳の上には午後の光が四角く落ちている。

その部屋のすみで、古い扇風機が首を振っていた。
右へ、左へ。
また右へ。

白い羽根はくるくる回り、やわらかい風を部屋の中へ送っている。

黒猫は、その扇風機の前に座っていた。

まるで、何か大事な話を聞いているみたいに。

黒猫の毛は、風を受けて少しだけ揺れた。
耳の先がぴくりと動き、長いしっぽが畳の上で小さく曲がる。

扇風機がこちらを向くたびに、黒猫のひげがふわっと揺れた。
そして風が通りすぎると、また静かになる。

それが面白いのか、涼しいのか。
それとも、ただ風の正体を考えているのか。
黒猫はしばらく、じっと扇風機を見つめていた。

扇風機は何も言わない。
ただ、同じ速さで回りつづける。

でも黒猫には、その音が何かの言葉に聞こえていたのかもしれない。

ぶうん。
ぶうん。
夏は長いよ。
少し休んでいきなさい。

そんなふうに、扇風機が話しかけているようにも見えた。

やがて黒猫は、ゆっくり前足を伸ばした。
扇風機の風に向かって、そっと肉球を出す。

風はつかめない。
つかめないけれど、そこにある。

黒猫は不思議そうに首をかしげた。

見えないのに、たしかに触れてくるもの。
音もなく、形もなく、でも体をなでていくもの。

それは、風だった。

そしてたぶん、夏の記憶もそんなものなのだと思う。

何か大きな出来事があったわけではない。
特別な一日だったわけでもない。

ただ、黒猫が扇風機の前に座っていた。
古い羽根が回っていた。
カーテンが揺れていた。
セミの声が遠くで鳴っていた。

それだけのことなのに、あとになって思い出すと、なぜか少しだけ胸がやわらかくなる。

黒猫はそのまま畳の上に寝ころんだ。
扇風機の風が、黒い背中をゆっくりなでていく。

目を細めた黒猫は、もう扇風機の正体を考えるのをやめたようだった。

わからないものは、わからないままでいい。
気持ちいいものは、気持ちいいままでいい。

そんな顔をしていた。

夏の午後は、少しずつ静かになっていく。

扇風機は今日も、同じ場所で首を振る。
黒猫は今日も、その風の中で目を閉じる。

まるで一冊の小さな物語みたいに。

黒猫と扇風機だけが知っている、涼しい夏の時間だった。


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2026年5月19日火曜日

黒猫と電車

黒猫と電車

夕方の駅のホームに、黒猫が一匹いました。

誰かに飼われているのか、
それともこの町を自分の家だと思っているのか、
黒猫はいつも、ホームの端にある古いベンチの下で丸くなっていました。

その駅は、大きな駅ではありません。

一日に何本かの電車が止まり、
人が少し乗って、
人が少し降りて、
また静かになるような駅でした。

黒猫は、電車が来る時間を知っているようでした。

遠くの線路が小さく震えはじめると、
黒猫はゆっくり顔を上げます。

まだ姿は見えません。

けれど、空気の奥から、
ごとん、ごとん、という音が近づいてきます。

黒猫の耳が少しだけ動きました。

やがて、夕焼け色の光をまとった電車が、
町の向こうから姿を見せます。

線路の上をまっすぐに走ってくるその姿は、
まるで遠いどこかの物語を運んでくるようでした。

電車がホームに着くと、
扉が開きます。

学生服の子が降りてきて、
買い物袋を持った人が降りてきて、
眠そうな顔をした人が、足早に改札へ向かっていきます。

黒猫は、その人たちをじっと見ていました。

誰かを待っているようにも見えました。

でも、誰かが近づくと、
黒猫は少しだけ体を引いて、
またベンチの下に戻ってしまいます。

電車は、少し休んだあと、
また次の町へ向かって走り出しました。

ごとん、ごとん。

音はだんだん小さくなっていきます。

黒猫は、その音が消えるまで、
ずっと線路の先を見つめていました。

電車に乗れば、遠くへ行ける。

知らない町にも、
知らない海にも、
知らない朝にも、
きっとたどり着ける。

けれど黒猫は、電車には乗りません。

ただ毎日、
来る電車を見送り、
去っていく電車を見送り、
この小さな駅に残っていました。

それは少し寂しいことのようで、
でも、少しやさしいことのようにも見えました。

ある雨の日のことです。

駅のホームには、ほとんど人がいませんでした。

屋根の端から雨粒が落ちて、
線路の石を濡らし、
ホームの床に小さな水たまりを作っていました。

黒猫は、ベンチの下で雨を見ていました。

そこへ、一人の男の子がやってきました。

男の子は、小さなリュックを背負い、
手には一冊の本を持っていました。

電車を待つあいだ、
男の子はベンチに座り、
本を開きました。

黒猫は、そっと顔を出しました。

男の子は黒猫に気づくと、
驚かせないように、静かに笑いました。

「きみも、電車を待っているの?」

黒猫は答えません。

ただ、雨の音を聞きながら、
男の子の足元に少しだけ近づきました。

やがて電車が来ました。

扉が開き、
男の子は本を閉じて立ち上がります。

でも、乗る前に一度だけ振り返りました。

黒猫は、ホームの上で男の子を見上げていました。

男の子は小さく手を振りました。

黒猫のしっぽが、ほんの少し揺れました。

電車は雨の中を走り出しました。

窓の向こうで、男の子の姿が少しずつ遠ざかっていきます。

黒猫はいつものように、
その電車が見えなくなるまで見送っていました。

次の日も、
その次の日も、
黒猫は駅にいました。

電車は来て、
電車は去って、
町には朝が来て、夜が来ました。

けれど黒猫は知っていました。

電車は、遠くへ行くだけのものではないのだと。

誰かを連れていき、
誰かを連れて帰ってくるものでもあるのだと。

だから黒猫は、今日もホームに座っています。

線路の向こうから聞こえてくる、
ごとん、ごとん、という音に耳をすませながら。

もしかすると、次の電車には、
あの日の男の子が乗っているかもしれません。

もしかすると、まだ会ったことのない誰かが、
黒猫にそっと笑いかけてくれるかもしれません。

黒猫は、それを急がずに待っています。

夕焼けに染まる小さな駅で、
電車の音と、町の静けさに包まれながら。

今日も、黒猫はそこにいます。

遠くへ行く物語と、
ここに残る物語の、
ちょうど真ん中に座るように。


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2026年5月18日月曜日

ベタと黒猫

ベタと黒猫

湖の底から見上げると、
世界は少しだけ違って見える。

水面は、空と光をゆらゆら映していて、
そこに黒猫の顔が、ぼんやりと浮かんでいた。

黒猫は、何も言わない。
ただ、静かに湖の中を見つめている。

その視線の先には、
一匹の美しいベタが泳いでいた。

青、紫、白、赤、金色。
その長いヒレは、水の中で絹のように広がり、
光を受けるたびに、宝石みたいにきらめいた。

ベタは、黒猫のことを知っているのかもしれない。
黒猫もまた、ベタのことを見つけたのかもしれない。

けれど、ふたりの間には水がある。
近いようで、遠い。
触れられそうで、触れられない。

それでも不思議と、
さみしい感じはしなかった。

水面の向こうから見守る黒猫と、
水の中で静かに泳ぐベタ。

言葉もなく、鳴き声もなく、
ただ同じ光の中にいる。

そんな出会いも、きっとあるのだと思う。

近づけないからこそ、
きれいに残るものがある。

触れられないからこそ、
心の中で長く揺れ続ける景色がある。

ベタはまた、ゆっくりとヒレを広げた。

そのたびに小さな泡が生まれ、
湖の光が、少しだけ明るくなった。

黒猫の瞳も、
水面の向こうでやさしく揺れていた。

まるで、夢の中で一度だけ出会った友だちを、
忘れないように見つめているみたいに。


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2026年5月17日日曜日

黒猫と踏切

黒猫と踏切

夕方の町を歩いていると、
小さな踏切の前に黒猫が座っていました。

遮断機はまだ上がったままで、
線路の向こうには、少し古い本屋さんが見えます。

黒猫は、まるで誰かを待っているように、
じっと向こう側を見つめていました。

その姿があまりに静かだったので、
私は思わず足を止めてしまいました。

踏切のそばには、
風に揺れる草がありました。

遠くから、電車の音が近づいてきます。

カン、カン、カン。

遮断機がゆっくり下りると、
黒猫は少しだけ耳を動かしました。

それでも逃げるわけでもなく、
怖がるわけでもなく、
ただ落ち着いた顔でそこにいます。

やがて電車が通り過ぎました。

窓の明かりがいくつも流れていき、
その一瞬だけ、町全体が本のページみたいに見えました。

誰かの帰り道。
誰かの会話。
誰かの小さな物語。

電車の中にも、
踏切のこちら側にも、
きっといろいろな続きがあるのでしょう。

遮断機が上がると、
黒猫はゆっくり立ち上がりました。

そして、線路の向こう側へ渡っていきます。

その先にある本屋さんの前で、
黒猫は一度だけ振り返りました。

まるで、
「この先にも物語はあるよ」
と言っているようでした。

私はその後ろ姿を見送りながら、
少しだけ胸があたたかくなりました。

踏切は、こちら側と向こう側を分ける場所です。

でも同時に、
こちら側の物語と、
向こう側の物語をつなぐ場所でもあるのかもしれません。

黒猫が渡っていった先には、
どんな本が待っているのでしょう。

どんな人が、
どんなページを開いているのでしょう。

夕方の小さな踏切で見かけた黒猫は、
ただそこにいただけなのに、
一冊の本を読み終えたような余韻を残していきました。


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2026年5月16日土曜日

バスを待つ巫女さんと黒猫の話

バスを待つ巫女さんと黒猫の話

昼下がりの田舎道に、小さなバス停がありました。

透明な屋根の下には、古びたベンチがひとつ。

そこに、白い袖と赤い袴の巫女さんが、背すじを伸ばして座っていました。

となりには、小さな包み。

足元には、黒猫がちょこんと座っています。

黒猫は、巫女さんの猫ではありません。

けれど、いつのまにか神社の境内に現れて、
いつのまにか巫女さんのそばにいるようになった猫でした。

朝、掃き掃除をしているときも。

夕方、鈴の音が静かに残るころも。

黒猫は少し離れた場所から、巫女さんを見ていました。

その日は、巫女さんが町へ出かける日でした。

山の向こうから来るバスに乗って、少し遠くの町まで行くのです。

黒猫は、それを知っているような顔で、バス停までついてきました。

「ついてきても、バスには乗れないよ」

巫女さんがそう言うと、黒猫は返事をするかわりに、しっぽを一度だけゆらしました。

風が吹くと、草花が小さく揺れました。

遠くの家の屋根が、夏の光を受けて白く光っていました。

青い空には雲がゆっくり流れていて、時間まで一緒にゆっくりになったようでした。

バスは、なかなか来ません。

巫女さんは時刻表を見ました。

黒猫も、まるで読めるような顔で時刻表を見上げました。

「まだ少しあるみたい」

そう言って、巫女さんは笑いました。

黒猫は何も言いません。

でも、その沈黙は冷たいものではなく、ちゃんと隣にいてくれる沈黙でした。

待つ時間というのは、不思議です。

何も起きていないようで、心の中ではいろいろなことが動いています。

行きたい気持ち。

少しだけ不安な気持ち。

帰ってくる場所を思い出す気持ち。

巫女さんは、黒猫の小さな背中を見つめました。

この猫は、バスに乗らない。

町にも行かない。

それでも、ここまで見送りに来てくれたのだと思うと、
胸の奥が少しあたたかくなりました。

やがて、遠くの道の向こうから、低いエンジンの音が聞こえてきました。

黒猫の耳がぴくりと動きます。

巫女さんは包みを持ち、静かに立ち上がりました。

「行ってくるね」

黒猫は、金色の目で巫女さんを見上げました。

まるで、

ちゃんと帰ってくるなら、行ってもいいよ。

そう言っているようでした。

バスが停まり、扉が開きました。

巫女さんは一度だけ振り返ります。

バス停のベンチの前に、黒猫が座っていました。

青空の下で、小さな黒い影のように。

でもその姿は、どこか神様の使いのようにも見えました。

バスが走り出しても、黒猫はしばらくそこにいました。

田んぼの風が吹き、木の葉が光り、白い雲が流れていきます。

バス停には、また静けさが戻りました。

けれどそこには、ただの静けさではなく、

誰かを見送ったあとの、やさしい余韻が残っていました。

そして黒猫は、ゆっくりと立ち上がります。

神社へ帰る道を知っているように、草の間を静かに歩いていきました。

夕方になれば、巫女さんはまたこの道を帰ってくるでしょう。

そのとき黒猫は、きっと何も言わずに迎えに来るのです。

まるで、朝からずっと待っていたことなど、

少しも大げさなことではないみたいに。


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2026年5月15日金曜日

黒猫と犬

黒猫と犬

黒猫は、犬にあこがれていました。

それは、ある春の日のことでした。

黒猫は、古い木の塀の上に座って、道の向こうを歩いていく犬を見ていました。

犬は、しっぽを大きく振りながら、飼い主のおじいさんの横を歩いていました。

ときどき立ち止まっては、草のにおいをかぎ、空を見上げ、また嬉しそうに歩き出します。

黒猫は思いました。

「犬って、なんだか楽しそうだな」

黒猫はいつも、ひとりで歩いていました。

屋根の上も、路地のすみも、夕方の公園も、黒猫にとっては全部、自分だけの道でした。

それは自由で、悪くはありません。

でも、ときどき、誰かの横を歩いてみたいと思う日もありました。

次の日、黒猫は犬のまねをしてみることにしました。

道の真ん中を歩き、しっぽを少し大きく動かし、草むらのにおいをかいでみました。

けれど、どうしても犬のようにはなりません。

犬の足音は、ぽんぽんと明るい音がします。

黒猫の足音は、すっと静かに消えていきます。

犬は人を見ると嬉しそうに近づきます。

黒猫は人を見ると、少しだけ距離を取ってしまいます。

「ぼくは、犬にはなれないのかな」

黒猫は、小さな神社の石段に座りました。

夕方の光が、石畳の上に長く伸びています。

そこへ、あの犬がやってきました。

犬は黒猫を見ると、近づきすぎない場所で止まりました。

そして、静かにしっぽを振りました。

黒猫も、少しだけしっぽを揺らしました。

ふたりは何も言わずに、しばらく並んで夕日を見ていました。

犬は犬のままで、黒猫は黒猫のままでした。

でも、その時間は、どちらかがどちらかになる必要のない、やさしい時間でした。

黒猫は思いました。

「犬になれなくても、犬と一緒にいることはできるんだ」

それから黒猫は、ときどき犬の散歩道に現れるようになりました。

一緒に歩くわけではありません。

少し離れて、同じ道を歩くだけです。

犬は前を歩き、黒猫は塀の上を歩きます。

おじいさんは、それに気づいているのかいないのか、いつもゆっくり歩いていました。

ある日、おじいさんが笑って言いました。

「おや、うちの犬に、黒猫の友だちができたのかね」

黒猫は、聞こえないふりをしました。

でも、その夜、月明かりの下で、少しだけうれしそうに目を細めました。

犬みたいになりたかった黒猫は、犬にはなれませんでした。

けれど、犬のそばにいる黒猫にはなれました。

それはきっと、黒猫にしかなれない、少し不思議で、あたたかい姿だったのです。


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2026年5月14日木曜日

黒猫とバッタ

黒猫とバッタ

庭のすみで、黒猫がじっとしていました。

夏の終わりに近い午後でした。
草の色はまだ濃いのに、風の中には少しだけ、次の季節の匂いが混ざっていました。

黒猫は、低い姿勢のまま、草むらを見つめています。

その先にいたのは、一匹のバッタでした。

小さな体で、草の葉の上にとまり、世界の様子をうかがっているようでした。
黒猫が少しだけ前足を動かすと、バッタもまた、ぴくりと体を震わせます。

追いかけるのか。
逃げるのか。

ほんの短い時間なのに、そこだけ物語の中の一場面みたいに見えました。

黒猫は急ぎません。
目だけをまん丸にして、バッタの小さな動きを見ています。

バッタもまた、すぐには飛びません。
まるで、黒猫が本当に怖い相手なのか、それともただ不思議そうに見ているだけなのか、考えているようでした。

やがて、風が草を揺らしました。

その瞬間、バッタはぴょんと跳ねました。
黒猫の前足も、少しだけ空を切りました。

けれど、捕まえることはできませんでした。

バッタは草むらの奥へ消えていき、黒猫はその先をしばらく見つめていました。

悔しそうというより、どこか満足そうでした。
追いかけたかったのではなく、ただ、その小さな命の動きを見ていたかったのかもしれません。

人間には見過ごしてしまうような小さな出来事も、黒猫にとっては大きな冒険になるのでしょう。

草の揺れ。
小さな羽音。
跳ねる影。

それだけで、午後は少しだけ特別な時間になります。

黒猫はゆっくりと座り直し、何事もなかったように目を細めました。

けれど、そのしっぽの先だけが、まだ少し揺れていました。

きっと黒猫の中では、さっきのバッタが、まだ草むらのどこかを跳ねているのです。

小さな出会いは、すぐに終わってしまうことがあります。
でも、その一瞬が残す余韻は、思ったより長く続くことがあります。

黒猫とバッタ。

ただそれだけの午後が、なぜか少し、絵本のページみたいに見えました。


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2026年5月13日水曜日

黒猫と屋根

黒猫と屋根

夕方になると、
町の屋根は少しだけ静かになります。

昼間は人の声や車の音でいっぱいだった通りも、
日が傾くころには、
どこか遠くの物語みたいに見えてきます。

その屋根の上を、
一匹の黒猫が歩いていました。

瓦の上を、
とてもゆっくり、
音を立てないように。

黒猫は急いでいるようには見えません。

どこかへ行く途中なのか、
ただ夕焼けを見に来ただけなのか、
それは誰にもわかりません。

屋根の上から見る町は、
地面から見る町とは少し違います。

洗濯物が風に揺れていて、
小さな窓に明かりがともり、
どこかの家から晩ごはんの匂いがしてきます。

黒猫は、
そういう暮らしの気配を、
黙って見下ろしていました。

人はそれぞれの家へ帰り、
一日を終わらせていきます。

けれど黒猫には、
決まった帰り道があるのかどうかもわかりません。

それでも、
屋根の上にいる黒猫は、
少しも寂しそうには見えませんでした。

夕焼けの光を背中に受けて、
まるで町の一番高いところで、
今日という日を見守っているようでした。

屋根は、
家を守るためにあります。

雨の日も、
風の日も、
強い日差しの日も、
そこに住む人たちを静かに守っています。

黒猫はきっと、
そのことを知っているのかもしれません。

だから屋根の上を歩くとき、
少しだけ丁寧に、
少しだけやさしく足を置くのです。

やがて空の色が、
橙から紫へ変わっていきました。

黒猫は一度だけ立ち止まり、
町の向こうを見つめました。

そこには特別なものはありません。

ただ、
いつもの町があり、
いつもの家々があり、
いつもの夜が近づいているだけです。

でも、その何でもない景色が、
黒猫のいる屋根の上から見ると、
少しだけ大切なものに見えました。

黒猫はまた、
ゆっくりと歩き出します。

どこへ行くのかは、
やっぱり誰にもわかりません。

けれどその小さな背中は、
今日も町の上を静かに渡っていきます。

まるで、
誰かの一日が無事に終わるのを、
そっと確かめるように。


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2026年5月12日火曜日

黒猫とコンビニ

黒猫とコンビニ

夜の道を、黒猫が一匹歩いていました。

商店街の明かりはもう少なくなっていて、シャッターの下りた店の前には、
昼間のにぎやかさだけが少し残っていました。

その先に、ぽつんとコンビニの明かりが見えました。

白くて、まぶしくて、少しだけさみしい明かりでした。

黒猫は入口の前まで来ると、自動ドアの少し横に座りました。

中からは、お弁当を温める音や、袋のこすれる音が聞こえてきます。

レジの前に立つ人。
飲み物を選んでいる人。
疲れた顔でパンをひとつ買っていく人。

みんな、それぞれの夜を持っているようでした。

黒猫は何も言わずに、その光景を見ていました。

コンビニは不思議な場所です。

夜遅くても明かりがついていて、誰かの小さな空腹や、少し足りない気持ちを受け止めてくれます。

楽しい場所というより、帰り道に少しだけ息をつける場所なのかもしれません。

やがて、若い店員さんが外に出てきました。

黒猫を見つけると、驚かせないように少し離れたところで立ち止まりました。

「また来たのか」

そんな小さな声が、夜の空気に溶けました。

黒猫は返事のかわりに、しっぽをゆっくり動かしました。

店員さんは笑って、すぐに店の中へ戻っていきました。

黒猫はまだ、そこに座っていました。

自動ドアが開くたびに、あたたかい空気と、少しだけ甘い匂いが流れてきます。

それは、誰かの一日の終わりに似ていました。

大きな出来事がなくても、疲れていても、何かを買って、また歩き出す。

黒猫は、その小さな繰り返しを知っているようでした。

しばらくして、空に細い月が見えました。

黒猫は立ち上がり、コンビニの明かりを背中に受けながら、また夜の道へ歩いていきました。

その姿は、夜に消えていく影のようでもあり、
誰かの帰り道をそっと見守る小さな物語のようでもありました。

コンビニの明かりは、まだついていました。

黒猫がいなくなったあとも、そこだけは、夜の中で少しだけあたたかく光っていました。


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2026年5月11日月曜日

黒猫と商店街

黒猫と商店街

夕方の商店街は、少しだけ眠たそうな顔をしていた。

八百屋さんの前には、売れ残ったみかんが並び、魚屋さんのシャッターは半分だけ下りている。

そのすき間を、黒猫が一匹、静かに歩いていた。

黒猫は急がない。

まるで、この商店街の時間を全部知っているように、ゆっくりと石畳の上を進んでいく。

コロッケ屋さんの前を通ると、油のにおいがふわりと鼻をくすぐった。

店のおばあさんが、黒猫に気づいて小さく笑った。

「今日も来たんか」

黒猫は返事をしない。

けれど、しっぽを少しだけ揺らした。

昔はもっと人が多かった商店街。

子どもたちの声が響いて、夕方になると買い物袋を持った人たちが行き交っていた。

今は少し静かになった。

閉まった店もある。

色あせた看板もある。

それでも、どこかあたたかい。

黒猫は、それを知っているのかもしれない。

パン屋さんの前で立ち止まり、ガラス越しに残った食パンを眺める。

文房具屋さんの前では、古いノートのにおいをかぐように鼻を近づける。

誰かの暮らしが、まだここに残っている。

誰かの思い出が、シャッターの奥で静かに息をしている。

黒猫は商店街の端まで歩くと、振り返った。

夕焼けがアーケードの屋根を赤く染めていた。

その光の中で、商店街は少しだけ昔に戻ったように見えた。

黒猫は小さく目を細める。

そしてまた、何も言わずに路地の奥へ消えていった。

明日もきっと、黒猫はこの商店街を歩く。

誰かに呼ばれるわけでもなく、何かを探しているわけでもなく。

ただ、ここに残っているぬくもりを、確かめるように。


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2026年5月10日日曜日

黒猫とカーネーション

黒猫とカーネーション

夕方の花屋さんの前に、
黒猫が一匹すわっていました。

店先には、
赤やピンクや白のカーネーションが
並んでいました。

風が吹くたびに、
花びらが小さく揺れています。

黒猫は、
花の名前を知っているわけではありません。

けれど、
その花のそばにいると、
なんとなくやさしい気持ちになるようでした。

通りを歩く人たちは、
カーネーションを手に取って、
少し照れたような顔をしていました。

誰かに渡すための花。

ありがとうを言うための花。

ふだんは口にできない気持ちを、
そっと代わりに持ってくれる花。

黒猫は、
じっとその様子を見ていました。

やがて花屋さんのおばあさんが、
少しだけ折れてしまった
小さなカーネーションを一本、
店の端に置きました。

「これは売りものにはならないね」

そう言いながらも、
おばあさんはその花を捨てませんでした。

黒猫は、
その小さなカーネーションに
鼻を近づけました。

赤い花びらは、
少し曲がっていたけれど、
夕方の光を受けて、
とてもきれいに見えました。

完璧じゃなくても、
誰かの心をあたためることはできる。

黒猫はそんなことを考えたのか、
花のそばで丸くなりました。

その姿はまるで、
小さなカーネーションを
守っているようでした。

日が暮れて、
店先の明かりがともるころ。

黒猫の隣で、
赤いカーネーションは
静かに咲いていました。

誰かに渡されなかった花にも、
ちゃんと物語はあるのだと思います。

そして黒猫は、
その物語を一番近くで聞いている、
小さな読者のようでした。


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2026年5月9日土曜日

黒猫と土管

黒猫と土管

道のすみっこに、古い土管がひとつ置かれていました。

もう誰かに使われることもなく、草の間で静かに眠っているような土管でした。

そこへ、黒猫がやってきました。

黒猫は土管の入口をじっと見つめて、それからゆっくり中へ入りました。

中は少しひんやりしていて、外の風の音も遠くに聞こえました。

黒猫にとって、その土管はただの古いものではありませんでした。

雨をよける場所であり、昼寝をする場所であり、世界から少しだけ隠れられる小さな部屋でした。

土管の丸い出口から見える空は、いつもより小さく見えました。

けれど、その小さな空が、黒猫にはちょうどよかったのです。

広すぎる世界を全部見なくてもいい。

今日はこの丸い窓から見える分だけでいい。

そんなふうに思いながら、黒猫は前足をそろえて座りました。

夕方になると、土管の中にやわらかな光が差し込みました。

黒猫の影は細長く伸びて、土管の丸みに沿って静かに揺れました。

どこか懐かしくて、少しだけ寂しくて、でも不思議と安心する時間でした。

誰にも見つからない場所にいるようで、ちゃんと世界の中にいる。

黒猫と土管は、言葉もなく、ただ同じ夕暮れを過ごしていました。

古い土管にも、黒猫にも、それぞれの居場所があるのかもしれません。

派手ではないけれど、そこにいるだけで物語になるような、そんな小さな景色でした。


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