夏の朝、窓の外でセミが鳴いていました。
まだ部屋の中には夜の涼しさが少しだけ残っていて、カーテンのすきまから細い光が床に落ちていました。
黒猫はその光の上に前足をそろえて座り、じっと耳を動かしていました。
ミーン、ミーン。
外から聞こえる声は、昨日よりも大きく、今日の暑さを知らせるようでした。
黒猫は最初、少し迷惑そうに目を細めました。
静かな朝が好きな黒猫にとって、セミの声は少し元気すぎるのです。
けれど、しばらく聞いているうちに、その声がただうるさいだけではないことに気づきました。
長い土の中の時間を越えて、ようやく空の下へ出てきた小さな命が、今を鳴いている。
そう思うと、黒猫は窓辺から離れられなくなりました。
庭の木には、一匹のセミがとまっていました。
大きな声で鳴いているのに、その体はとても小さく、夏の光の中で少し頼りなく見えました。
黒猫は網戸の向こうから、そのセミを見つめました。
もし外へ出られたなら、追いかけてしまうかもしれません。
けれど今日は、不思議と手を出したい気持ちにはなりませんでした。
ただ、そこにいるもの同士として、同じ朝を分け合っているような気がしたのです。
セミは短い夏を鳴き、黒猫は静かな部屋でその声を聞く。
どちらも、自分の時間を生きていました。
昼に近づくにつれて、部屋は少しずつ暑くなっていきました。
黒猫は畳の上に寝そべり、しっぽだけをゆっくり動かしました。
それでも耳は、まだ外の声を追っていました。
セミの声は、遠くなったり、近くなったりしながら、夏の空気に溶けていきます。
人間には同じように聞こえる鳴き声も、黒猫には少しずつ違って聞こえていたのかもしれません。
急いでいる声。
強がっている声。
空に向かって、自分がここにいると伝えている声。
黒猫は目を閉じました。
夢の中で、庭の木は大きな森になっていました。
セミの声は風のように広がり、黒猫は木陰をゆっくり歩いていました。
暑いけれど、いやな暑さではありません。
夏だけが持っている、少し寂しくて、少し懐かしい暑さでした。
夕方になると、セミの声は少し弱くなりました。
空の色がやわらかく変わり、庭の木の影が長く伸びていきます。
黒猫はもう一度、窓辺に戻りました。
朝と同じ場所に、セミはまだいました。
けれど鳴き声は、少し静かになっていました。
黒猫は何も言いません。
ただ、まばたきをひとつしました。
それは、さよならのようにも、また明日と言っているようにも見えました。
夏は長いようで、いつもあっという間に過ぎていきます。
セミの声も、いつか聞こえなくなります。
けれど黒猫は、きっと覚えているでしょう。
あの暑い朝、窓の向こうで小さなセミが一生懸命鳴いていたこと。
そして自分が、その声を静かに聞いていたことを。
黒猫とセミの夏は、誰にも知られないまま、部屋の窓辺にそっと残っていました。
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