2026年6月15日月曜日
黒猫とリンゴ
机の上に、赤いリンゴがひとつ置いてありました。
それは誰かが食べ忘れたリンゴではなく、まるで小さな物語のはじまりのように、朝の光を受けて静かに光っていました。
黒猫は窓辺からそれを見つけると、音を立てずに机の上へ近づきました。
赤いもの。
丸いもの。
少しだけ甘い匂いのするもの。
黒猫にとってリンゴは、食べ物というより、不思議な置物のようでした。
前足でちょん、と触れてみると、リンゴはほんの少しだけ転がりました。
黒猫はびっくりして、一歩後ろへ下がりました。
けれど、リンゴは逃げません。
怒りもしません。
ただ、赤い顔をして、そこにいるだけです。
黒猫はもう一度近づきました。
今度は鼻を寄せて、そっと匂いをかぎます。
甘くて、少し冷たくて、どこか遠い畑の風を思い出すような匂いでした。
黒猫はリンゴを見つめながら、きっとこの赤い実にも旅があったのだろうと思いました。
木の枝にぶら下がっていた時間。
雨に濡れた日。
太陽に照らされた午後。
誰かの手に包まれて、ここまで運ばれてきた道。
そう考えると、ただのリンゴが、急に小さな旅人のように見えてきました。
黒猫はリンゴの横に座り、しっぽをくるりと巻きました。
外では風が吹いて、カーテンが少しだけ揺れています。
机の上には、黒猫とリンゴ。
何も起きていないようで、でも確かに、静かな時間が流れていました。
しばらくして、人の足音が近づいてきました。
黒猫はリンゴから離れることもなく、ただ顔を上げました。
その人は机の上の光景を見て、少し笑いました。
黒猫は何も言いません。
リンゴも、もちろん何も言いません。
けれどその朝、部屋の中には少しだけやさしい空気がありました。
食べられる前のリンゴと、見つめるだけの黒猫。
そんな何気ない場面にも、物語はちゃんと隠れているのかもしれません。
大きな出来事ではなくても、心に残る景色があります。
黒猫とリンゴが並んでいた朝のことを、きっと誰かはすぐに忘れてしまうでしょう。
でも黒猫だけは、あの赤い丸いもののことを、少しだけ覚えているのだと思います。
甘い匂いがしたこと。
ころんと転がったこと。
窓の光を受けて、まるで小さな太陽みたいだったこと。
そしてまたいつか、机の上に赤いリンゴが置かれたら、黒猫はきっと同じように近づいていくのでしょう。
物語のはじまりを見つけるように。
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