2026年6月24日水曜日

黒猫とマンションのベランダ

黒猫とマンションのベランダ

朝の光が、カーテンのすき間から少しだけ部屋に入ってきました。

まだ町は完全に起きていないようで、遠くを走る車の音も、どこかやわらかく聞こえます。

黒猫は、窓辺に座っていました。

まるい背中を小さく丸めて、じっとベランダのほうを見ています。

窓を開けると、少し冷たい空気が部屋に流れ込んできました。

黒猫はゆっくり立ち上がり、しっぽを一度だけ揺らして、ベランダへ出ていきました。

マンションのベランダは、広い庭ではありません。

小さな植木鉢がいくつか並び、洗濯ばさみが風に揺れ、手すりの向こうには、いつもの町並みが広がっています。

それでも黒猫にとっては、ここが小さな世界でした。

手すりの下から入ってくる風の匂い。

遠くの道路を走る車の音。

どこかの部屋から聞こえる食器の音。

向かいのマンションの窓に反射する朝の光。

黒猫は、それらをひとつずつ確かめるように、静かに耳を動かしていました。

ベランダのすみに置いた小さな鉢には、まだ名前も知らない草が伸びています。

黒猫はそのそばに座り、鼻先を近づけて、少しだけ匂いをかぎました。

けれど、すぐに興味をなくしたように顔を上げます。

その目は、手すりの向こうの空を見ていました。

マンションの上に見える空は、広いようで、少しだけ区切られています。

でも、黒猫はそんなことを気にしていないようでした。

小さなベランダから見える分だけの空を、まるで十分だと言うように眺めています。

鳥が一羽、建物の間をすっと横切りました。

黒猫の耳がぴくりと動きます。

追いかけることはできません。

ただ、目だけでその姿を追っていました。

やがて鳥が見えなくなると、黒猫は何もなかったように、その場に座り直しました。

ベランダの床には、朝日が四角く落ちています。

黒猫はその光の中へ少しずつ移動して、前足をそろえました。

黒い毛に朝の光が当たると、真っ黒ではなく、少しだけやわらかい色に見えます。

町は少しずつ起きていきます。

遠くで自転車のベルが鳴り、どこかの玄関のドアが閉まり、洗濯物を干す音が聞こえてきました。

それでも、ベランダの黒猫の時間だけは、ゆっくり流れているようでした。

何か特別なことが起きるわけではありません。

けれど、何も起きない朝にも、小さな物語はあります。

黒猫が空を見上げること。

風がひげを少し揺らすこと。

植木鉢の葉が、音もなく光を受けること。

そんな小さな出来事が、ベランダの片すみに静かに積もっていきます。

しばらくすると、黒猫は大きくあくびをしました。

そして、何も急ぐことはないという顔で、朝日の中に丸くなりました。

マンションのベランダは、小さな場所です。

けれど黒猫がそこにいるだけで、そこは少しだけ本の中の景色のようになります。

町の音と、朝の光と、黒猫の静かな背中。

今日もまた、いつものベランダで、誰にも知られない小さな時間が始まっていました。


ここまで読んでくれて、ありがとうございます

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