2026年6月19日金曜日

黒猫と空き缶

黒猫と空き缶

道のすみっこに、ひとつの空き缶が転がっていました。

風に押されて、ころん、と小さな音を立てます。

その音に気づいた黒猫が、ゆっくりと近づいてきました。

黒猫は、空き缶の前で立ち止まります。

それは、おもちゃではありません。

食べものでもありません。

けれど、夕方の光を受けた空き缶は、少しだけ不思議なものに見えました。

黒猫は、鼻先を近づけます。

かすかに残った甘い匂い。

人が飲み終えて、忘れていったもの。

黒猫には、それがどういうものなのか、はっきりとはわかりません。

ただ、さっきまで誰かがここにいた気配だけが、空き缶のまわりに残っていました。

黒猫が前足でそっと触れると、空き缶はころころと転がりました。

静かな道に、小さな音が響きます。

ころん。

からん。

まるで、空き缶が返事をしているようでした。

黒猫は少し驚いて、しっぽをぴんと立てました。

でも、逃げません。

もう一度、そっと前足を出します。

空き缶はまた転がり、夕焼けの色を細く映しました。

ただの空き缶なのに、そこには小さな物語があるようでした。

誰かが歩きながら飲んだのかもしれません。

ベンチに座って、ひと息ついたのかもしれません。

急いでいて、片づけることを忘れてしまったのかもしれません。

黒猫は、そんな人間の事情など知りません。

けれど、空き缶がこの道にぽつんと残されていることだけは、ちゃんと見ていました。

やがて風が吹きます。

空き缶は少しだけ道の端へ転がりました。

黒猫はそのあとを追いかけるように、ゆっくり歩きます。

遊んでいるようにも見えました。

見守っているようにも見えました。

夕方の町は、少しずつ静かになっていきます。

遠くで自転車の音がして、家の窓には明かりがともりはじめます。

黒猫は空き缶の横に座りました。

そして、じっと空を見上げました。

空き缶は何も言いません。

黒猫も何も言いません。

それでも、ふたつは少しだけ同じ場所にいて、同じ夕暮れを見ていました。

いつか誰かが、この空き缶を拾っていくかもしれません。

明日の朝には、もうここにないかもしれません。

けれど今日の夕方だけは、黒猫と空き缶は、道のすみっこで小さな時間を分け合っていました。

忘れられたものにも、見つめてくれる誰かがいる。

そんなことを教えるように、黒猫は最後に一度だけ、空き缶を前足でそっと押しました。

ころん、と音がしました。

それは、夕暮れの町に落ちた、小さな返事のようでした。


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