2026年6月9日火曜日

黒猫と歩道橋

黒猫と歩道橋

夕方の町に、少しだけ冷たい風が吹いていました。

車の音が下から流れてきて、歩道橋の階段は、昼の熱をまだ少しだけ残していました。

その階段の下に、一匹の黒猫がいました。

黒猫は急いでいるようでもなく、迷っているようでもなく、ただ静かに上を見上げていました。

歩道橋の上には、人が何人か通っていきます。

学校帰りの子ども。
買い物袋を持った人。
スマホを見ながら歩く人。

誰も、階段の下にいる黒猫には気づきません。

黒猫は、ひとつだけ前足を階段にのせました。

そして、少し考えるように止まりました。

歩道橋というものは、人間にはただの道かもしれません。

車の多い道を渡るための、少し面倒な階段。

でも、小さな黒猫にとっては、それは町を見下ろす高い橋でした。

一段。
また一段。

黒猫は、音もなく階段を上っていきました。

途中で風が吹き、細いしっぽが少しだけ揺れました。

歩道橋の真ん中まで来ると、黒猫は立ち止まりました。

下には、車のライトが流れていました。

白いライトと赤いライトが、まるで小さな川のように行ったり来たりしています。

黒猫は、その光をじっと見つめていました。

どこかへ急ぐ人たち。
どこかへ帰る車たち。
誰かを待っている信号。

町はいつも動いているのに、黒猫だけは、その真ん中で静かでした。

夕焼けの色が、歩道橋の手すりを薄く染めていきます。

黒猫の背中にも、ほんの少しだけオレンジ色の光がのりました。

真っ黒に見える毛並みの中に、やわらかい輪郭が浮かびます。

それは、夜になる前の短い時間だけ見える、小さな影絵のようでした。

黒猫は鳴きませんでした。

ただ、町を見ていました。

もしかすると、何かを探していたのかもしれません。

帰る場所。
会いたい誰か。
それとも、ただ今日という日が終わっていく景色。

歩道橋の上を、また人が通り過ぎました。

その人は一瞬だけ黒猫に気づき、少し足をゆるめました。

けれど、声はかけませんでした。

黒猫も、その人を見ませんでした。

お互いに、邪魔をしない距離がありました。

それが、少しだけやさしい時間に思えました。

やがて信号が変わり、下の車がまた動き出しました。

黒猫はゆっくりと向きを変えました。

歩道橋の反対側へ向かって、また一歩ずつ歩いていきます。

その先に何があるのかは、誰にもわかりません。

小さな公園かもしれません。
古い家の塀かもしれません。
誰かが置いてくれた水の皿かもしれません。

黒猫は、何も言わずに階段を下りていきました。

そして町の影の中へ、すっと溶けていきました。

歩道橋には、夕方の風だけが残りました。

さっきまでそこに黒猫がいたことも、すぐに町の音にまぎれてしまいます。

でも、ふと歩道橋を見上げたとき。

あの黒い小さな背中を、思い出すことがあります。

何も言わずに町を渡っていく姿。

人間の知らない道を、静かに選んで歩いていく姿。

歩道橋は、ただ道を越えるための場所ではなくて。

少しだけ立ち止まって、町を眺めるための場所でもあるのかもしれません。

黒猫はきっと、今日もどこかの夕方を歩いています。

急がず、騒がず、誰にも説明せずに。

小さな足音だけを残して。

町の上を、静かに渡っていくのです。


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