湯けむりの向こうに、
黒猫が一匹いました。
もちろん、猫が温泉に入っているわけではありません。
古い温泉宿の縁側で、
まるで湯気をながめる係のように、
静かに座っていたのです。
木の床は、少しだけきしみます。
外には小さな露天風呂があり、
白い湯けむりが、
夜の空へゆっくりのぼっていました。
その湯けむりは、
雲のようでもあり、
誰かのため息のようでもありました。
黒猫は、
何も言わずにそれを見ています。
温泉というものは、
不思議です。
体をあたためるだけなのに、
心の奥にたまっていたものまで、
少しずつほどけていく気がします。
急がなくてもいい。
何かをしなくてもいい。
ただお湯がそこにあって、
湯気が立っていて、
静かな時間が流れている。
それだけで、
今日という日が少しやわらかくなります。
黒猫は縁側の端で、
前足をそろえて座っていました。
湯けむりに包まれたその姿は、
小さな置物のようにも見えます。
けれど、時々しっぽが動きます。
生きているのです。
ちゃんと、ここで。
あたたかい場所を見つけて、
静かな夜を受け止めているのです。
温泉宿の明かりは、
派手ではありません。
障子越しのやわらかな光が、
床や柱を淡く照らしています。
遠くでお湯の流れる音がして、
たまに風が木の葉をゆらします。
人の声は少なく、
時間だけがゆっくり進んでいました。
黒猫は、
湯けむりの向こうに何を見ていたのでしょう。
昼間の疲れ。
知らない誰かの旅。
それとも、
あたたかい場所を探して歩いてきた、
自分の足あとでしょうか。
温泉は、
すべてを解決してくれる場所ではありません。
でも、少しだけ休ませてくれます。
冷えた手をあたためるように、
固くなった心も、
ゆっくりほどいてくれます。
黒猫は、
最後に小さくあくびをしました。
そして、湯けむりの見える縁側で、
丸くなって眠りはじめました。
温泉の夜は、
まだ静かに続いています。
何もしない時間が、
こんなにもやさしいものだったと、
黒猫が教えてくれた気がしました。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます
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