2026年6月5日金曜日

黒猫と温泉

黒猫と温泉

湯けむりの向こうに、
黒猫が一匹いました。

もちろん、猫が温泉に入っているわけではありません。

古い温泉宿の縁側で、
まるで湯気をながめる係のように、
静かに座っていたのです。

木の床は、少しだけきしみます。

外には小さな露天風呂があり、
白い湯けむりが、
夜の空へゆっくりのぼっていました。

その湯けむりは、
雲のようでもあり、
誰かのため息のようでもありました。

黒猫は、
何も言わずにそれを見ています。

温泉というものは、
不思議です。

体をあたためるだけなのに、
心の奥にたまっていたものまで、
少しずつほどけていく気がします。

急がなくてもいい。

何かをしなくてもいい。

ただお湯がそこにあって、
湯気が立っていて、
静かな時間が流れている。

それだけで、
今日という日が少しやわらかくなります。

黒猫は縁側の端で、
前足をそろえて座っていました。

湯けむりに包まれたその姿は、
小さな置物のようにも見えます。

けれど、時々しっぽが動きます。

生きているのです。

ちゃんと、ここで。

あたたかい場所を見つけて、
静かな夜を受け止めているのです。

温泉宿の明かりは、
派手ではありません。

障子越しのやわらかな光が、
床や柱を淡く照らしています。

遠くでお湯の流れる音がして、
たまに風が木の葉をゆらします。

人の声は少なく、
時間だけがゆっくり進んでいました。

黒猫は、
湯けむりの向こうに何を見ていたのでしょう。

昼間の疲れ。

知らない誰かの旅。

それとも、
あたたかい場所を探して歩いてきた、
自分の足あとでしょうか。

温泉は、
すべてを解決してくれる場所ではありません。

でも、少しだけ休ませてくれます。

冷えた手をあたためるように、
固くなった心も、
ゆっくりほどいてくれます。

黒猫は、
最後に小さくあくびをしました。

そして、湯けむりの見える縁側で、
丸くなって眠りはじめました。

温泉の夜は、
まだ静かに続いています。

何もしない時間が、
こんなにもやさしいものだったと、
黒猫が教えてくれた気がしました。


ここまで読んでくれて、ありがとうございます

PR
楽天市場

よろしければ、
のぞいてみてください


0 件のコメント:

コメントを投稿