海の近くにある小さな丘に、みかん畑が広がっていました。
冬のはじまりの空は少し白く、風は冷たいのに、枝いっぱいのみかんだけが小さな太陽のように光っていました。
その畑のすみっこに、一匹の黒猫がいました。
黒猫は、みかんの木の下で丸くなりながら、ゆっくりと畑を見渡していました。
人の声も、車の音も、ここまではあまり届きません。
聞こえるのは、葉っぱがこすれる音と、遠くの海から来る風の音だけでした。
黒猫の前に、ひとつだけ落ちたみかんがありました。
ころんと土の上に転がったそのみかんは、誰かに見つけられるのを待っているようにも見えました。
黒猫は鼻先を近づけて、少しだけ匂いをかぎました。
甘いような、すっぱいような、冬の匂いがしました。
食べるわけでもなく、遊ぶわけでもなく、黒猫はただそのみかんのそばに座っていました。
まるで、小さな実が寂しくならないように、となりにいてあげているみたいでした。
やがて、畑の向こうからおばあさんが歩いてきました。
かごを片手に、ゆっくりと木のあいだを進みながら、落ちたみかんを見つけました。
「あら、見張ってくれていたの」
おばあさんがそう言うと、黒猫は返事をするように、しっぽを一度だけ動かしました。
おばあさんは落ちたみかんを拾い、かごの中へそっと入れました。
それから、枝についていた小さなみかんをひとつ取り、黒猫の前に置きました。
もちろん黒猫は、みかんを食べません。
けれど、その丸い色をじっと見つめていると、なんだか寒い日でも心が少しだけあたたかくなる気がしました。
夕方になると、みかん畑は金色に染まりました。
黒猫の黒い毛並みにも、やわらかな光がのって、少しだけ茶色く見えました。
畑の中にあるものは、どれも大きな事件ではありません。
落ちたみかん。
風に揺れる葉っぱ。
ゆっくり歩くおばあさん。
そして、そこに座っている黒猫。
でも、そんな小さな景色の中にこそ、忘れたくない時間があるのかもしれません。
黒猫は最後にもう一度だけ、みかん畑を見渡しました。
それから細い道を歩き出し、夕焼けの中へ静かに消えていきました。
あとには、みかんの甘い香りと、冬のやさしい静けさだけが残っていました。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます
PR
よろしければ、
のぞいてみてください

0 件のコメント:
コメントを投稿