夕方の町に、
少しだけ冷たい風が吹いていました。
昼間のにぎやかさがゆっくり薄れて、
道路の上には、車の音と、
遠くの人の声だけが残っていました。
その横断歩道の前に、
一匹の黒猫が座っていました。
黒猫は、
急いでいるわけでもなく、
迷っているわけでもなく、
ただ静かに信号を見上げていました。
黒い毛並みは夕方の影に溶けそうでしたが、
街灯のやわらかな光が、
耳の先と背中の丸みを少しだけ照らしていました。
横断歩道の白い線は、
町の向こう側へ続く小さな橋のようでした。
向こう側には、
古い本屋さんの明かりが見えました。
ガラス戸の向こうに、
背の低い本棚と、
積まれた文庫本と、
小さな椅子が見えました。
黒猫はそこへ行きたいのかもしれません。
それとも、
ただ信号が変わるのを待っているだけなのかもしれません。
町の人たちは、
黒猫の横を通り過ぎていきました。
買い物袋を持った人。
自転車を押す人。
スマホを見ながら歩く人。
誰もがそれぞれの用事を持っていて、
それぞれの帰る場所へ急いでいました。
けれど黒猫だけは、
時間から少し外れた場所にいるようでした。
信号が赤から青に変わりました。
電子音が、
小さく町に流れます。
黒猫はすぐには動きませんでした。
右を見て、
左を見て、
もう一度、前を見ました。
それから、
白い線の上に、
そっと前足を置きました。
一歩。
また一歩。
黒猫は急がずに、
横断歩道を渡っていきました。
小さな体なのに、
その歩き方はどこか堂々としていました。
まるで、
この町の道をずっと前から知っているようでした。
車は止まり、
人も少しだけ歩く速さをゆるめました。
誰かが小さく笑いました。
誰かが、
「気をつけてね」
と声に出さずに思いました。
黒猫は振り返りませんでした。
ただ、
まっすぐ向こう側へ渡っていきました。
横断歩道を渡り終えると、
黒猫は本屋さんの前で立ち止まりました。
閉まりかけたガラス戸のすきまから、
本の匂いと、
古い紙の静けさが流れてきます。
黒猫は、
その匂いを知っているように、
小さく鼻を動かしました。
店の奥から、
白髪まじりの店主が顔を出しました。
「ああ、来たのか」
その声は、
誰かを迎える時のようにやさしく、
少しだけ眠たそうでした。
黒猫は返事をするかわりに、
しっぽをゆっくり揺らしました。
そして、
店の中へ入っていきました。
横断歩道の信号は、
また赤に変わりました。
町はいつものように動き続けています。
けれど、
さっき黒猫が渡った白い線の上には、
ほんの少しだけ、
やさしい物語が残っているようでした。
道を渡るだけのことでも、
誰かにとっては小さな冒険なのかもしれません。
向こう側へ行くこと。
立ち止まって待つこと。
ちゃんと見てから歩き出すこと。
黒猫は何も教えてくれません。
けれどその背中は、
ゆっくりでいいから、
自分の歩幅で渡ればいいと、
静かに言っているようでした。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます
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