2026年6月8日月曜日

黒猫と横断歩道

黒猫と横断歩道

夕方の町に、
少しだけ冷たい風が吹いていました。

昼間のにぎやかさがゆっくり薄れて、
道路の上には、車の音と、
遠くの人の声だけが残っていました。

その横断歩道の前に、
一匹の黒猫が座っていました。

黒猫は、
急いでいるわけでもなく、
迷っているわけでもなく、
ただ静かに信号を見上げていました。

黒い毛並みは夕方の影に溶けそうでしたが、
街灯のやわらかな光が、
耳の先と背中の丸みを少しだけ照らしていました。

横断歩道の白い線は、
町の向こう側へ続く小さな橋のようでした。

向こう側には、
古い本屋さんの明かりが見えました。

ガラス戸の向こうに、
背の低い本棚と、
積まれた文庫本と、
小さな椅子が見えました。

黒猫はそこへ行きたいのかもしれません。

それとも、
ただ信号が変わるのを待っているだけなのかもしれません。

町の人たちは、
黒猫の横を通り過ぎていきました。

買い物袋を持った人。

自転車を押す人。

スマホを見ながら歩く人。

誰もがそれぞれの用事を持っていて、
それぞれの帰る場所へ急いでいました。

けれど黒猫だけは、
時間から少し外れた場所にいるようでした。

信号が赤から青に変わりました。

電子音が、
小さく町に流れます。

黒猫はすぐには動きませんでした。

右を見て、
左を見て、
もう一度、前を見ました。

それから、
白い線の上に、
そっと前足を置きました。

一歩。

また一歩。

黒猫は急がずに、
横断歩道を渡っていきました。

小さな体なのに、
その歩き方はどこか堂々としていました。

まるで、
この町の道をずっと前から知っているようでした。

車は止まり、
人も少しだけ歩く速さをゆるめました。

誰かが小さく笑いました。

誰かが、
「気をつけてね」
と声に出さずに思いました。

黒猫は振り返りませんでした。

ただ、
まっすぐ向こう側へ渡っていきました。

横断歩道を渡り終えると、
黒猫は本屋さんの前で立ち止まりました。

閉まりかけたガラス戸のすきまから、
本の匂いと、
古い紙の静けさが流れてきます。

黒猫は、
その匂いを知っているように、
小さく鼻を動かしました。

店の奥から、
白髪まじりの店主が顔を出しました。

「ああ、来たのか」

その声は、
誰かを迎える時のようにやさしく、
少しだけ眠たそうでした。

黒猫は返事をするかわりに、
しっぽをゆっくり揺らしました。

そして、
店の中へ入っていきました。

横断歩道の信号は、
また赤に変わりました。

町はいつものように動き続けています。

けれど、
さっき黒猫が渡った白い線の上には、
ほんの少しだけ、
やさしい物語が残っているようでした。

道を渡るだけのことでも、
誰かにとっては小さな冒険なのかもしれません。

向こう側へ行くこと。

立ち止まって待つこと。

ちゃんと見てから歩き出すこと。

黒猫は何も教えてくれません。

けれどその背中は、
ゆっくりでいいから、
自分の歩幅で渡ればいいと、
静かに言っているようでした。


ここまで読んでくれて、ありがとうございます

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