2026年5月19日火曜日

黒猫と電車

黒猫と電車

夕方の駅のホームに、黒猫が一匹いました。

誰かに飼われているのか、
それともこの町を自分の家だと思っているのか、
黒猫はいつも、ホームの端にある古いベンチの下で丸くなっていました。

その駅は、大きな駅ではありません。

一日に何本かの電車が止まり、
人が少し乗って、
人が少し降りて、
また静かになるような駅でした。

黒猫は、電車が来る時間を知っているようでした。

遠くの線路が小さく震えはじめると、
黒猫はゆっくり顔を上げます。

まだ姿は見えません。

けれど、空気の奥から、
ごとん、ごとん、という音が近づいてきます。

黒猫の耳が少しだけ動きました。

やがて、夕焼け色の光をまとった電車が、
町の向こうから姿を見せます。

線路の上をまっすぐに走ってくるその姿は、
まるで遠いどこかの物語を運んでくるようでした。

電車がホームに着くと、
扉が開きます。

学生服の子が降りてきて、
買い物袋を持った人が降りてきて、
眠そうな顔をした人が、足早に改札へ向かっていきます。

黒猫は、その人たちをじっと見ていました。

誰かを待っているようにも見えました。

でも、誰かが近づくと、
黒猫は少しだけ体を引いて、
またベンチの下に戻ってしまいます。

電車は、少し休んだあと、
また次の町へ向かって走り出しました。

ごとん、ごとん。

音はだんだん小さくなっていきます。

黒猫は、その音が消えるまで、
ずっと線路の先を見つめていました。

電車に乗れば、遠くへ行ける。

知らない町にも、
知らない海にも、
知らない朝にも、
きっとたどり着ける。

けれど黒猫は、電車には乗りません。

ただ毎日、
来る電車を見送り、
去っていく電車を見送り、
この小さな駅に残っていました。

それは少し寂しいことのようで、
でも、少しやさしいことのようにも見えました。

ある雨の日のことです。

駅のホームには、ほとんど人がいませんでした。

屋根の端から雨粒が落ちて、
線路の石を濡らし、
ホームの床に小さな水たまりを作っていました。

黒猫は、ベンチの下で雨を見ていました。

そこへ、一人の男の子がやってきました。

男の子は、小さなリュックを背負い、
手には一冊の本を持っていました。

電車を待つあいだ、
男の子はベンチに座り、
本を開きました。

黒猫は、そっと顔を出しました。

男の子は黒猫に気づくと、
驚かせないように、静かに笑いました。

「きみも、電車を待っているの?」

黒猫は答えません。

ただ、雨の音を聞きながら、
男の子の足元に少しだけ近づきました。

やがて電車が来ました。

扉が開き、
男の子は本を閉じて立ち上がります。

でも、乗る前に一度だけ振り返りました。

黒猫は、ホームの上で男の子を見上げていました。

男の子は小さく手を振りました。

黒猫のしっぽが、ほんの少し揺れました。

電車は雨の中を走り出しました。

窓の向こうで、男の子の姿が少しずつ遠ざかっていきます。

黒猫はいつものように、
その電車が見えなくなるまで見送っていました。

次の日も、
その次の日も、
黒猫は駅にいました。

電車は来て、
電車は去って、
町には朝が来て、夜が来ました。

けれど黒猫は知っていました。

電車は、遠くへ行くだけのものではないのだと。

誰かを連れていき、
誰かを連れて帰ってくるものでもあるのだと。

だから黒猫は、今日もホームに座っています。

線路の向こうから聞こえてくる、
ごとん、ごとん、という音に耳をすませながら。

もしかすると、次の電車には、
あの日の男の子が乗っているかもしれません。

もしかすると、まだ会ったことのない誰かが、
黒猫にそっと笑いかけてくれるかもしれません。

黒猫は、それを急がずに待っています。

夕焼けに染まる小さな駅で、
電車の音と、町の静けさに包まれながら。

今日も、黒猫はそこにいます。

遠くへ行く物語と、
ここに残る物語の、
ちょうど真ん中に座るように。


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