夕方の駅のホームに、黒猫が一匹いました。
誰かに飼われているのか、
それともこの町を自分の家だと思っているのか、
黒猫はいつも、ホームの端にある古いベンチの下で丸くなっていました。
その駅は、大きな駅ではありません。
一日に何本かの電車が止まり、
人が少し乗って、
人が少し降りて、
また静かになるような駅でした。
黒猫は、電車が来る時間を知っているようでした。
遠くの線路が小さく震えはじめると、
黒猫はゆっくり顔を上げます。
まだ姿は見えません。
けれど、空気の奥から、
ごとん、ごとん、という音が近づいてきます。
黒猫の耳が少しだけ動きました。
やがて、夕焼け色の光をまとった電車が、
町の向こうから姿を見せます。
線路の上をまっすぐに走ってくるその姿は、
まるで遠いどこかの物語を運んでくるようでした。
電車がホームに着くと、
扉が開きます。
学生服の子が降りてきて、
買い物袋を持った人が降りてきて、
眠そうな顔をした人が、足早に改札へ向かっていきます。
黒猫は、その人たちをじっと見ていました。
誰かを待っているようにも見えました。
でも、誰かが近づくと、
黒猫は少しだけ体を引いて、
またベンチの下に戻ってしまいます。
電車は、少し休んだあと、
また次の町へ向かって走り出しました。
ごとん、ごとん。
音はだんだん小さくなっていきます。
黒猫は、その音が消えるまで、
ずっと線路の先を見つめていました。
電車に乗れば、遠くへ行ける。
知らない町にも、
知らない海にも、
知らない朝にも、
きっとたどり着ける。
けれど黒猫は、電車には乗りません。
ただ毎日、
来る電車を見送り、
去っていく電車を見送り、
この小さな駅に残っていました。
それは少し寂しいことのようで、
でも、少しやさしいことのようにも見えました。
ある雨の日のことです。
駅のホームには、ほとんど人がいませんでした。
屋根の端から雨粒が落ちて、
線路の石を濡らし、
ホームの床に小さな水たまりを作っていました。
黒猫は、ベンチの下で雨を見ていました。
そこへ、一人の男の子がやってきました。
男の子は、小さなリュックを背負い、
手には一冊の本を持っていました。
電車を待つあいだ、
男の子はベンチに座り、
本を開きました。
黒猫は、そっと顔を出しました。
男の子は黒猫に気づくと、
驚かせないように、静かに笑いました。
「きみも、電車を待っているの?」
黒猫は答えません。
ただ、雨の音を聞きながら、
男の子の足元に少しだけ近づきました。
やがて電車が来ました。
扉が開き、
男の子は本を閉じて立ち上がります。
でも、乗る前に一度だけ振り返りました。
黒猫は、ホームの上で男の子を見上げていました。
男の子は小さく手を振りました。
黒猫のしっぽが、ほんの少し揺れました。
電車は雨の中を走り出しました。
窓の向こうで、男の子の姿が少しずつ遠ざかっていきます。
黒猫はいつものように、
その電車が見えなくなるまで見送っていました。
次の日も、
その次の日も、
黒猫は駅にいました。
電車は来て、
電車は去って、
町には朝が来て、夜が来ました。
けれど黒猫は知っていました。
電車は、遠くへ行くだけのものではないのだと。
誰かを連れていき、
誰かを連れて帰ってくるものでもあるのだと。
だから黒猫は、今日もホームに座っています。
線路の向こうから聞こえてくる、
ごとん、ごとん、という音に耳をすませながら。
もしかすると、次の電車には、
あの日の男の子が乗っているかもしれません。
もしかすると、まだ会ったことのない誰かが、
黒猫にそっと笑いかけてくれるかもしれません。
黒猫は、それを急がずに待っています。
夕焼けに染まる小さな駅で、
電車の音と、町の静けさに包まれながら。
今日も、黒猫はそこにいます。
遠くへ行く物語と、
ここに残る物語の、
ちょうど真ん中に座るように。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます
PR
よろしければ、
のぞいてみてください

0 件のコメント:
コメントを投稿