2026年5月16日土曜日

バスを待つ巫女さんと黒猫の話

バスを待つ巫女さんと黒猫の話

昼下がりの田舎道に、小さなバス停がありました。

透明な屋根の下には、古びたベンチがひとつ。

そこに、白い袖と赤い袴の巫女さんが、背すじを伸ばして座っていました。

となりには、小さな包み。

足元には、黒猫がちょこんと座っています。

黒猫は、巫女さんの猫ではありません。

けれど、いつのまにか神社の境内に現れて、
いつのまにか巫女さんのそばにいるようになった猫でした。

朝、掃き掃除をしているときも。

夕方、鈴の音が静かに残るころも。

黒猫は少し離れた場所から、巫女さんを見ていました。

その日は、巫女さんが町へ出かける日でした。

山の向こうから来るバスに乗って、少し遠くの町まで行くのです。

黒猫は、それを知っているような顔で、バス停までついてきました。

「ついてきても、バスには乗れないよ」

巫女さんがそう言うと、黒猫は返事をするかわりに、しっぽを一度だけゆらしました。

風が吹くと、草花が小さく揺れました。

遠くの家の屋根が、夏の光を受けて白く光っていました。

青い空には雲がゆっくり流れていて、時間まで一緒にゆっくりになったようでした。

バスは、なかなか来ません。

巫女さんは時刻表を見ました。

黒猫も、まるで読めるような顔で時刻表を見上げました。

「まだ少しあるみたい」

そう言って、巫女さんは笑いました。

黒猫は何も言いません。

でも、その沈黙は冷たいものではなく、ちゃんと隣にいてくれる沈黙でした。

待つ時間というのは、不思議です。

何も起きていないようで、心の中ではいろいろなことが動いています。

行きたい気持ち。

少しだけ不安な気持ち。

帰ってくる場所を思い出す気持ち。

巫女さんは、黒猫の小さな背中を見つめました。

この猫は、バスに乗らない。

町にも行かない。

それでも、ここまで見送りに来てくれたのだと思うと、
胸の奥が少しあたたかくなりました。

やがて、遠くの道の向こうから、低いエンジンの音が聞こえてきました。

黒猫の耳がぴくりと動きます。

巫女さんは包みを持ち、静かに立ち上がりました。

「行ってくるね」

黒猫は、金色の目で巫女さんを見上げました。

まるで、

ちゃんと帰ってくるなら、行ってもいいよ。

そう言っているようでした。

バスが停まり、扉が開きました。

巫女さんは一度だけ振り返ります。

バス停のベンチの前に、黒猫が座っていました。

青空の下で、小さな黒い影のように。

でもその姿は、どこか神様の使いのようにも見えました。

バスが走り出しても、黒猫はしばらくそこにいました。

田んぼの風が吹き、木の葉が光り、白い雲が流れていきます。

バス停には、また静けさが戻りました。

けれどそこには、ただの静けさではなく、

誰かを見送ったあとの、やさしい余韻が残っていました。

そして黒猫は、ゆっくりと立ち上がります。

神社へ帰る道を知っているように、草の間を静かに歩いていきました。

夕方になれば、巫女さんはまたこの道を帰ってくるでしょう。

そのとき黒猫は、きっと何も言わずに迎えに来るのです。

まるで、朝からずっと待っていたことなど、

少しも大げさなことではないみたいに。


ここまで読んでくれて、ありがとうございます

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