昼下がりの田舎道に、小さなバス停がありました。
透明な屋根の下には、古びたベンチがひとつ。
そこに、白い袖と赤い袴の巫女さんが、背すじを伸ばして座っていました。
となりには、小さな包み。
足元には、黒猫がちょこんと座っています。
黒猫は、巫女さんの猫ではありません。
けれど、いつのまにか神社の境内に現れて、
いつのまにか巫女さんのそばにいるようになった猫でした。
朝、掃き掃除をしているときも。
夕方、鈴の音が静かに残るころも。
黒猫は少し離れた場所から、巫女さんを見ていました。
その日は、巫女さんが町へ出かける日でした。
山の向こうから来るバスに乗って、少し遠くの町まで行くのです。
黒猫は、それを知っているような顔で、バス停までついてきました。
「ついてきても、バスには乗れないよ」
巫女さんがそう言うと、黒猫は返事をするかわりに、しっぽを一度だけゆらしました。
風が吹くと、草花が小さく揺れました。
遠くの家の屋根が、夏の光を受けて白く光っていました。
青い空には雲がゆっくり流れていて、時間まで一緒にゆっくりになったようでした。
バスは、なかなか来ません。
巫女さんは時刻表を見ました。
黒猫も、まるで読めるような顔で時刻表を見上げました。
「まだ少しあるみたい」
そう言って、巫女さんは笑いました。
黒猫は何も言いません。
でも、その沈黙は冷たいものではなく、ちゃんと隣にいてくれる沈黙でした。
待つ時間というのは、不思議です。
何も起きていないようで、心の中ではいろいろなことが動いています。
行きたい気持ち。
少しだけ不安な気持ち。
帰ってくる場所を思い出す気持ち。
巫女さんは、黒猫の小さな背中を見つめました。
この猫は、バスに乗らない。
町にも行かない。
それでも、ここまで見送りに来てくれたのだと思うと、
胸の奥が少しあたたかくなりました。
やがて、遠くの道の向こうから、低いエンジンの音が聞こえてきました。
黒猫の耳がぴくりと動きます。
巫女さんは包みを持ち、静かに立ち上がりました。
「行ってくるね」
黒猫は、金色の目で巫女さんを見上げました。
まるで、
ちゃんと帰ってくるなら、行ってもいいよ。
そう言っているようでした。
バスが停まり、扉が開きました。
巫女さんは一度だけ振り返ります。
バス停のベンチの前に、黒猫が座っていました。
青空の下で、小さな黒い影のように。
でもその姿は、どこか神様の使いのようにも見えました。
バスが走り出しても、黒猫はしばらくそこにいました。
田んぼの風が吹き、木の葉が光り、白い雲が流れていきます。
バス停には、また静けさが戻りました。
けれどそこには、ただの静けさではなく、
誰かを見送ったあとの、やさしい余韻が残っていました。
そして黒猫は、ゆっくりと立ち上がります。
神社へ帰る道を知っているように、草の間を静かに歩いていきました。
夕方になれば、巫女さんはまたこの道を帰ってくるでしょう。
そのとき黒猫は、きっと何も言わずに迎えに来るのです。
まるで、朝からずっと待っていたことなど、
少しも大げさなことではないみたいに。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます
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