2026年5月20日水曜日

黒猫と扇風機

黒猫と扇風機

夏の部屋には、少しだけ不思議な時間が流れている。

窓の外では、セミの声が遠くから聞こえていた。
カーテンはゆっくり揺れて、畳の上には午後の光が四角く落ちている。

その部屋のすみで、古い扇風機が首を振っていた。
右へ、左へ。
また右へ。

白い羽根はくるくる回り、やわらかい風を部屋の中へ送っている。

黒猫は、その扇風機の前に座っていた。

まるで、何か大事な話を聞いているみたいに。

黒猫の毛は、風を受けて少しだけ揺れた。
耳の先がぴくりと動き、長いしっぽが畳の上で小さく曲がる。

扇風機がこちらを向くたびに、黒猫のひげがふわっと揺れた。
そして風が通りすぎると、また静かになる。

それが面白いのか、涼しいのか。
それとも、ただ風の正体を考えているのか。
黒猫はしばらく、じっと扇風機を見つめていた。

扇風機は何も言わない。
ただ、同じ速さで回りつづける。

でも黒猫には、その音が何かの言葉に聞こえていたのかもしれない。

ぶうん。
ぶうん。
夏は長いよ。
少し休んでいきなさい。

そんなふうに、扇風機が話しかけているようにも見えた。

やがて黒猫は、ゆっくり前足を伸ばした。
扇風機の風に向かって、そっと肉球を出す。

風はつかめない。
つかめないけれど、そこにある。

黒猫は不思議そうに首をかしげた。

見えないのに、たしかに触れてくるもの。
音もなく、形もなく、でも体をなでていくもの。

それは、風だった。

そしてたぶん、夏の記憶もそんなものなのだと思う。

何か大きな出来事があったわけではない。
特別な一日だったわけでもない。

ただ、黒猫が扇風機の前に座っていた。
古い羽根が回っていた。
カーテンが揺れていた。
セミの声が遠くで鳴っていた。

それだけのことなのに、あとになって思い出すと、なぜか少しだけ胸がやわらかくなる。

黒猫はそのまま畳の上に寝ころんだ。
扇風機の風が、黒い背中をゆっくりなでていく。

目を細めた黒猫は、もう扇風機の正体を考えるのをやめたようだった。

わからないものは、わからないままでいい。
気持ちいいものは、気持ちいいままでいい。

そんな顔をしていた。

夏の午後は、少しずつ静かになっていく。

扇風機は今日も、同じ場所で首を振る。
黒猫は今日も、その風の中で目を閉じる。

まるで一冊の小さな物語みたいに。

黒猫と扇風機だけが知っている、涼しい夏の時間だった。


ここまで読んでくれて、ありがとうございます

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