2026年8月20日木曜日
散歩が好きな猫
朝の光が窓辺に差し込むと、その猫はいつも同じことをする。伸びをして、体を丸めて、それから玄関の方をじっと見つめるのだ。
名前はまだない。近所の人たちは「白と灰色の猫」と呼んでいたが、彼にとってそんなことはどうでもよかった。大事なのは、今日もあの道を歩けるかどうか、それだけだった。
彼の散歩は決まって同じ時間に始まる。太陽が塀の高さまで昇り、隣の家の洗濯物が風に揺れ始めるころ。まず庭を横切り、低い塀の隙間をすり抜けて、細い路地に出る。そこから先は、彼だけの世界だった。
路地の奥には小さな公園がある。誰もいない早朝のベンチは、まだ夜露に濡れていて冷たい。それでも彼はそこに座り、しばらく耳を澄ませる。鳥の声、遠くの車の音、隣町から聞こえてくる電車の響き。すべてが混ざり合って、朝という時間を作っているのだと、彼はなんとなく感じていた。
公園を抜けると、いつもの八百屋の前を通る。店主のおじさんは彼のことをよく知っていて、ときどき「おう、また来たか」と声をかけてくれる。彼はそのたびに立ち止まり、少しだけ尻尾を揺らして応える。それが彼なりの挨拶だった。
歩くことに理由なんてない。ただ、歩いているとき、体の中の何かがほどけていく感覚があった。狭い家の中では感じられない風のにおい、地面の温度、季節の変わり目のかすかな気配。それらすべてが、彼を少しずつ満たしていく。
ある日、いつもより少し遠くまで足を延ばしたことがあった。見知らぬ路地に迷い込み、知らない猫たちとすれ違い、知らない景色を見た。不安がなかったわけではない。それでも、新しい道の先に何があるのか知りたいという気持ちの方が、いつも少しだけ強かった。
夕方になると、彼は決まって同じ道を戻る。行きとは違う顔を見せる町並みを眺めながら、ゆっくりと、急がずに。家の前まで戻ると、窓辺で誰かが待っているのが見える。その温かい光を見るたびに、彼は今日も無事に歩き終えたことを、静かに噛みしめるのだった。
明日もきっと、同じ時間に目が覚めて、同じ道を、少しだけ違う気持ちで歩くのだろう。散歩とは、彼にとって、ただの習慣ではなかった。それは、世界と自分をつなぐ、小さくて確かな儀式だったのだ。
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