2026年9月5日土曜日

黒猫と大阪

黒猫と大阪

大阪の下町、道頓堀から少し外れた路地に、その黒猫は住み着いていた。

名前はまだない。誰も呼んでいないから、名乗る必要もなかった。ただ、近所のたこ焼き屋のおばちゃんだけが「クロ」と呼んで、余った切れ端を時々くれる。それだけが、この猫と人間社会をつなぐ細い糸だった。

その日は朝から蒸し暑く、大阪の空は白く濁っていた。クロは商店街のアーケードの下、シャッターの隙間に体を滑り込ませて、じっと通りを眺めていた。自転車のベルの音、串カツ屋の油の匂い、遠くから聞こえる大阪弁の掛け合い。すべてがいつも通りだった。

ふと、視線の先に見慣れない男の姿があった。スーツケースを引きずり、地図アプリと路地の看板を交互に見比べては、ため息をついている。旅行者だろう。道に迷っているのは明らかだった。

クロは特に興味もなく、そのまま眺めていた。猫にとって人間の困りごとなど、どうでもいいことだ。

ところが男は、ふとクロと目が合うと、なぜか安心したように笑った。

「お前、この辺の主か?」

独り言のようにそう言うと、男はしゃがみこんでクロに手を差し出した。クロは警戒しつつも、鼻先を近づけて匂いを嗅いだ。旅の匂い、遠い街の匂いがした。

「宿、この辺のはずなんやけどな……お前、知らんか」

猫が道案内などするはずもない。だが不思議なことに、クロは立ち上がると、するりとアーケードの奥へと歩き出した。男はしばらく戸惑っていたが、他に手がかりもなく、半信半疑でその後をついていった。

路地を二つ曲がり、古い看板の並ぶ通りを抜けると、小さな民宿の灯りが見えた。まさに男が探していた宿だった。

「……マジか」

男は驚き、振り返ってクロを探した。しかし黒い影はもう、夕暮れの路地に溶けるようにして消えていた。

その夜、男は宿の主人にその話をした。主人は笑いながら言った。

「ああ、あの黒猫やろ。昔からこの辺におるんや。迷子の旅行者を、なぜか宿まで案内してくれるんよ。誰も理由は分からへんけどな」

男はふと窓の外を見た。ネオンに照らされた大阪の空の下、遠くの屋根の上に、黒い小さな影が座っているのが見えた気がした。

それから何年か経って、その男は仕事で行き詰まるたびに、ふと大阪のあの路地を思い出すようになった。迷っていた自分に、迷わず道を示してくれた、名前も知らない黒猫のことを。

大阪という街は、人情に厚く、どこか温かい。けれど、その温かさの一部を運んでいるのが、言葉も持たない一匹の黒猫だということを、知る人は少ない。

クロは今日も、誰かの助けを求める声もなく、ただ路地に座って、行き交う人々を静かに見つめている。


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