2026年9月8日火曜日

黒猫と家の屋根

黒猫と家の屋根

 その家の屋根に黒猫が現れるようになったのは、いつからだったか、誰も正確には覚えていない。

 古い瓦屋根の家は、坂の途中にぽつんと建っていた。持ち主は数年前に引っ越してしまい、庭の木々だけが季節ごとに葉の色を変えながら、静かに時を刻んでいた。近所の人々はその家を「空き家」と呼んでいたが、黒猫にとっては違った。そこは彼だけの、特別な見晴らし台だった。

 夕暮れになると、黒猫はどこからともなく現れ、雨どいを伝って屋根の上へと登っていく。瓦の隙間に爪先を引っかけ、身体をしならせながら一番高い場所まで辿り着くと、そこにゆったりと腰を下ろした。

 屋根の上からは、坂の下に広がる町並みが見渡せた。オレンジ色に染まった空の下、家々の窓に明かりが灯り始める。誰かの夕食の匂いが風に乗って漂ってくることもあった。黒猫はそれを眺めながら、尻尾をゆっくりと揺らした。

 瓦は昼間の日差しをまだ少し覚えていて、ほんのりと温かかった。その温もりに身体を預けると、黒猫の目はいつも半分だけ閉じられる。眠っているようで、実は町のすべての音を聞いている。子どもたちの笑い声、自転車のベルの音、遠くの犬の鳴き声。

 ある日、屋根の上に小さな来客があった。一羽の雀が瓦の縁に舞い降り、ちょこちょこと歩き回っていたのだ。黒猫は片目を開けてそれを見つめたが、動こうとはしなかった。ここは彼にとって狩り場ではなく、休息の場所だったから。雀もそれを察したのか、しばらく屋根の上で羽を休めてから、また空へと飛び立っていった。

 夜がすっかり更けると、屋根はひんやりとしてくる。星が瓦の上に降り積もるように瞬き始めると、黒猫はようやく身体を起こし、大きく伸びをした。それから静かに屋根を下り、闇の中へと溶けていく。

 次の日も、その次の日も、黒猫は同じ時刻に同じ屋根へと登っていった。誰に見られるためでもなく、誰かに褒められるためでもなく。ただその場所からの景色と、瓦の温もりと、静けさが好きだったから。

 空き家の屋根は、今日も一匹の黒猫のための特等席として、そこにあり続けている。


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