2026年8月15日土曜日
猫の島
フェリーが港を離れると、潮の匂いが少しずつ強くなっていった。
私がその島の名前を知ったのは、旅行雑誌の片隅に載っていた小さな記事がきっかけだった。「猫の島」——それが正式な地名ではないことは分かっていた。けれど、地元の人たちは皆そう呼んでいるらしい。人口より猫の数のほうが多いという、その小さな島に。
船着き場に降り立つと、さっそく一匹の茶トラが出迎えてくれた。人を恐れる様子もなく、まるで「よく来たね」とでも言いたげに、私の足元にすり寄ってくる。荷物を持ったまま立ち止まっていると、いつの間にかその周りにも二匹、三匹と集まってきた。
宿までの道は、狭い路地が入り組んでいた。石垣の上には白猫が丸くなって眠り、魚屋の軒先では黒猫が店主から小魚のおこぼれをもらっている。誰も急いでいない。時間の流れ方が、街とはまるで違っていた。
宿の女将さんに話を聞くと、この島では猫を飼うというより、猫と一緒に暮らしているのだという。「誰の猫でもないし、みんなの猫でもある」。そう笑いながら言った彼女の膝の上にも、灰色の猫がちょこんと座っていた。
夕方になると、港の防波堤に猫たちが集まってくる。漁から戻った船を待っているのだ。オレンジ色に染まった空の下、何十匹もの猫が同じ方向を見つめて並んでいる光景は、どこか厳かでさえあった。船が着き、漁師が魚をさばき始めると、堤防はあっという間に賑やかになる。それでも猫たちは決して奪い合わない。それぞれが自分の分を静かに待っている。
夜、宿の縁側に腰掛けていると、一匹の黒猫がどこからともなくやってきて、隣に座った。何を話すでもなく、ただ並んで海を眺める。波の音と、時折聞こえる猫の小さな鳴き声だけが、その場を満たしていた。
私はふと思った。この島の猫たちは、誰かに飼われているわけではないのに、誰よりも自由で、誰よりも満ち足りているように見える。人と猫の間に境界線がないというのは、こういうことなのかもしれない。
翌朝、フェリーの時間が近づいてきた。見送りに来たのは、初日に出会ったあの茶トラだった。乗船口まで一緒に歩き、船が動き出すまでその場に座って見ていた。
島が水平線の向こうに小さくなっていくのを眺めながら、私はまたいつか、あの猫たちに会いに行こうと思った。
きっと彼らは、私のことなど忘れているだろう。それでも構わない。あの静かな時間に、また身を委ねてみたいのだ。
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