2026年8月21日金曜日

猫の家

猫の家

古い一軒家の縁側に、その猫は座っていた。

名前はまだない。この家の住人がそう呼ぶことにしているだけで、誰かがちゃんと名付けたわけではなかった。三毛の毛並みは陽に透けて、風が吹くたびにゆっくりと波打つ。

家は築五十年を超えていて、柱にはあちこち傷がついている。その傷のいくつかは、猫が子猫だった頃に爪を研いだ跡だった。誰も叱らなかった。この家では、そういうことは咎められない決まりになっているようだった。

朝は決まって台所の窓辺で日向ぼっこをする。硝子越しの光は少しぬるくて、目を細めていると、時々まぶたが勝手に落ちてくる。眠っているのか起きているのか、猫自身にもよくわからない時間が、そこには流れていた。

昼になると縁側に移動する。庭には手入れのされていない紫陽花が茂っていて、そこに来る蝶を眺めるのが日課だった。追いかけることはしない。ただ目で追う。若い頃はもっと動いていた気もするが、今はこうしているほうが性に合っている。

家の主は年老いた女で、一日のほとんどを居間で過ごしていた。猫が居間に入っていくと、女は決まって同じことを言った。

「あら、来たの」

それだけだった。それ以上の言葉はいらなかった。猫は女の膝の上に乗り、丸くなる。女の手が背中を撫でると、喉の奥から低い音が漏れた。この音がどこから出てくるのか、猫は考えたことがない。ただ自然にそうなるだけだった。

夕方、家の中に橙色の光が差し込む時間がくると、猫は決まって玄関へ向かう。誰かを待っているわけではない。ただ、その時間になるとそこに行きたくなる。玄関の三和土は少し冷たくて、その冷たさが心地よかった。

夜になれば、家は静かになる。時計の針の音だけが、廊下の奥から聞こえてくる。猫はその音を聞きながら、女の布団の足元で丸くなった。呼吸の音が二つ、重なるように続いていく。

これといって特別なことは何も起きない。同じ朝が来て、同じ昼があって、同じ夕方と夜が過ぎていく。それでも猫は、この家にいることを、他のどんな場所とも比べようとは思わなかった。

比べる必要が、そもそもなかったのだ。

猫にとって、この家はただ「そこにあるもの」だった。日が昇り、日が沈み、女がそこにいて、自分がそこにいる。それだけで、十分すぎるほど十分だった。


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