2026年8月23日日曜日
黒猫と水たまり
雨上がりの路地には、まだ空の匂いが残っていた。
古びた古書店の軒先で、一匹の黒猫が水たまりをじっと見つめている。名前はまだ、誰もつけていない。
水たまりには、ひび割れた空と、古書店の看板と、猫自身の輪郭が映り込んでいた。風が吹くたびに、その像はゆっくりと揺れて崩れ、また元に戻る。猫はその繰り返しに、飽きることなく前足をそっと近づけては、引っ込めていた。
店の奥では、店主がページの黄ばんだ文庫本を一冊、棚に戻すところだった。開けっ放しの引き戸から漏れる灯りが、水たまりの端にほんの少しだけ触れている。
「今日も来たのか」
店主が声をかけると、黒猫は耳だけをぴくりと動かして、こちらを見た。けれど水たまりから離れようとはしない。まるで、そこに何か大切なものを探しているかのように。
実のところ、この猫がこの場所に居着くようになったのは、半年ほど前――店主が処分するはずだった古い一冊の絵本を、雨の日にここへ置き忘れたことがきっかけだった。翌朝、濡れた表紙の上に、小さな黒い塊が丸くなっていた。それがこの猫だった。
以来、雨が降るたびに、猫は決まってこの水たまりのそばに来る。まるで、あの絵本の中の景色をもう一度探しているみたいに。
店主はふと、店内から一冊の本を持ち出し、猫の隣にしゃがみこんだ。表紙には、雨上がりの街を歩く黒い猫の絵が描かれている。
「お前によく似てるだろう」
猫は答えない。ただ、水面に映るページの色を、じっと見つめていた。
しばらくして、雲の切れ間から光が差し込むと、水たまりの表面がきらりと光った。その瞬間だけ、猫の瞳もまた、同じ色に染まった気がした。
店主は静かに立ち上がり、本を閉じて猫の傍らにそっと置いた。
「また、いつでも読みにおいで」
黒猫は水たまりから顔を上げると、一度だけ小さく鳴いて、本の上に体を寄せた。
雨の匂いがまだ残る路地に、ページをめくるようなかすかな音がした気がした。
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