2026年8月16日日曜日

猫の読書

猫の読書

古い本棚のある部屋に、一匹の猫が住んでいた。

名前はまだ、ない。飼い主はそう呼んでいた。名前をつけると、どこか特別になりすぎる気がして、あえてつけなかったのだという。
まだ、は毎日同じ場所で丸くなる。窓際に置かれた、革張りの古い椅子。そこに西日が差し込む午後三時から四時のあいだだけ、まだの特等席になる。

その日も、まだはいつものように椅子に飛び乗った。すると、前の日に置き忘れられた文庫本が座面に転がっていた。表紙は色褪せていて、誰かが何度も読み返した跡がある。

まだは本の上に顎を乗せて、目を閉じた。

猫が本を読むわけがない。そんなことは、まだ自身がいちばんよく知っている。文字の意味も、物語の筋も、まだには関係のないことだった。ただ、本のページの間から立ちのぼる、紙とインクの匂いが好きだった。誰かが長い時間をかけてそこに込めた何かが、じんわりと伝わってくるような気がしたから。

「今日は何を読んでるの」

飼い主が部屋に入ってきて、そう声をかけた。まだは薄目を開けて、答えるかわりに小さく喉を鳴らした。

飼い主はその文庫本を手に取ろうとして、ふと手を止めた。まだが本の上で気持ちよさそうに眠っていたからだ。仕方なく、隣にあった別の本を開いて、椅子の横の床に座り込んだ。

しばらくのあいだ、部屋には紙をめくる音と、猫の寝息だけが響いていた。

まだが選ぶ本には、いつも共通点があった。誰かがたくさん読み返した本。何度も持ち歩かれて、角が丸くなった本。まだは字が読めなくても、その本にしみ込んだ時間の重さのようなものを、ちゃんと感じ取っているようだった。

西日がすこしずつ傾いていく。まだはまだ、本の上で眠っている。

物語の続きは、いつも読まれないまま。それでも、まだにとってはそれでよかった。結末を知ることよりも、誰かが物語を大切にしてきた、その気配のそばにいることのほうが、ずっと大事だったから。

やがて日が沈み、部屋は少しずつ暗くなっていく。飼い主は本を閉じて、灯りをつけた。

「そろそろごはんの時間だよ」

その声に、まだはゆっくりと体を起こした。名残惜しそうに、もう一度だけ本の匂いを嗅いでから、椅子を飛び降りる。

明日もきっと、同じ時間に、同じ場所で。まだはまた、誰かの物語のそばで眠るのだろう。


ここまで読んでくれて、ありがとうございます

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