その駅は、海のすぐそばにありました。
ホームは電車二両ぶんほどの長さしかなく、屋根は少し錆びていて、ベンチの白いペンキはところどころ剥げています。改札はなく、小さな箱に切符を入れるだけ。駅名の看板は、潮風に長く当たったせいで、文字の縁がほんのり丸くなっていました。
私がこの駅に降りたのは、ほんの気まぐれでした。仕事に追われる毎日で、頭の中がいつも細かい予定でいっぱいだったのです。「今日は、どこにも急がない日にしよう」。そう決めて、いつもは通り過ぎるだけだった駅で、電車を降りました。
ドアが閉まり、電車が走り去ると、あたりは急に静かになりました。聞こえてくるのは、遠くの波の音と、かすかなカモメの声だけです。
ホームの端まで歩いてみると、防波堤の向こうに海が広がっていました。午後の光を受けて、水面が細かくきらきらと光っています。深く息を吸い込むと、胸の奥まで潮の香りが入ってきました。
「にゃあ」
足もとから、小さな声がしました。
見ると、ベンチの下から、黒い猫がゆっくり出てきたところでした。艶のある黒い毛は、日差しにあたたまって、ほのかに茶色く光っています。金色の目で私をちらりと見たあと、猫は何事もなかったように、ベンチの端にひょいと飛び乗りました。
私はそっと、少し離れた場所に腰をおろしました。
そこへ、海から風が吹いてきました。猫の長いひげが、風にあわせて、ふわり、ふわりと揺れます。猫は目を細め、鼻先を少し上げて、潮の香りを確かめているようでした。その横顔があまりに穏やかで、私は思わず時間を忘れて見入ってしまいました。
「ここ、いい場所だね」
声に出してみると、猫は耳だけをこちらに向けました。返事はしてくれません。けれど、その無関心さが、なんだか心地よかったのです。何かを答えなくていい。何かを頑張らなくていい。ただ並んで、同じ風に吹かれていればいい。そう言われているような気がしました。
しばらくして、次の電車の音が遠くから近づいてきました。時刻表を見れば、次は四十分後のはずなのに、どうやら別の路線の貨物列車か何かが通ったようでした。それでも猫は動じません。ひげだけを揺らして、変わらず海のほうを向いています。
ふと気づくと、肩に入っていた力が、すっかり抜けていました。あれほど頭の中をにぎわせていた予定も心配ごとも、波のリズムに合わせて、少しずつ遠ざかっていきます。
夕方が近づくにつれて、空の端がやわらかな茜色に染まりはじめました。海も、その色を映して、静かに揺れています。猫は立ち上がり、ベンチの上でうんと伸びをしました。背中が弓のようにしなって、尻尾がゆらりと立ち上がります。
そして、ひらりと地面に降りると、振り返りもせずに、防波堤のほうへ歩いていきました。黒い小さな背中が、夕焼けの中に溶けていきます。
やがて、本当に私が乗る電車が、ゆっくりとホームに入ってきました。
ドアが開く直前、もう一度だけ海のほうを見ました。防波堤の上に、あの黒い影が見えます。潮風に、ひげがそっと揺れていました。
電車に乗り込み、窓の外を眺めながら、私は思いました。特別なことは何もなかった一日。けれど、あの小さな駅で過ごした時間は、きっと長いあいだ、私の心をあたためてくれるのだろうと。
海沿いの小さな駅には、今日も潮風が吹いています。
その風の中で、黒猫はきっと、ひげを揺らしながら、静かに海をながめているのでしょう。
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