2026年10月8日木曜日

秋のお地蔵さんの前に供えられた一輪のコスモスと黒猫

秋のお地蔵さんの前に供えられた一輪のコスモスと黒猫

 峠へ向かう細い道の脇に、小さなお地蔵さんが立っている。

苔むした石の肩には、長い年月が薄く積もっていた。赤い前掛けは雨と日差しに洗われて、いつのまにか桜色よりも淡い色になっている。お地蔵さんはそこで、通る人も通らない人も、同じ顔で見守っていた。

その朝、足元には一輪のコスモスが供えられていた。

誰が置いたのだろう。畑仕事に向かうおばあさんか、学校へ急ぐ子どもか。茎の切り口はまだ新しく、淡い桃色の花びらが、朝の冷えた空気のなかでかすかに揺れていた。花瓶もなければ、手紙もない。ただ一輪、石の前にそっと置かれているだけだった。

秋の空は高く、澄んでいた。道の向こうでは、刈り入れの終わった田んぼが静かに日を浴びている。遠くで、軽トラックのエンジン音が一度だけ鳴って、消えた。

そのとき、石垣の陰から、黒い影がするりと現れた。

黒猫だった。

艶のある毛並みが、朝の光を吸い込んで、深い藍色にも見える。首輪はない。けれど痩せてもいなくて、ゆったりとした足取りは、この道のことをよく知っている者のそれだった。金色の目が、ちらりとお地蔵さんを見上げる。

黒猫は急ぐでもなく、供えられたコスモスの前で足を止めた。

鼻先をそっと近づけて、花の匂いを確かめる。ひげが花びらに触れて、コスモスがふわりと揺れた。猫は一瞬だけ目を細めると、花を倒すことも、くわえることもなく、ただ静かに隣へ腰を下ろした。

お地蔵さんと、コスモスと、黒猫。

風が通り抜けるたびに、足元のススキがさらさらと鳴る。どこかの庭で金木犀が咲いているのだろう。甘い香りが、ほんの少しだけ道に流れてきた。

黒猫は前足をきちんと揃えて座り、尻尾を石の台座に沿わせている。まるで、そこが自分の持ち場だとでもいうように。お地蔵さんの穏やかな顔と、猫の澄ました横顔が、並んで朝日のほうを向いていた。

どれくらい経っただろう。

太陽が少しずつ高くなって、コスモスの影が短くなっていく。黒猫のまぶたが、とろりと重たくなった。日だまりの温もりに誘われて、猫は丸くなる。黒い背中が、ゆっくりと上下する。

そこへ、自転車を押したおじいさんがやって来た。

おじいさんは、お地蔵さんの前でふと立ち止まった。帽子をとって、小さく頭を下げる。それから、眠る黒猫と、その横のコスモスを見て、皺の多い顔をゆるめた。

「今日はお客さんが来とるんやな」

誰に言うともなくそう呟いて、おじいさんはもう一度会釈をすると、起こさないように静かに自転車を押して去っていった。タイヤが砂利をふむ音が、遠ざかっていく。

あとには、秋の光と、風の音。

黒猫は夢のなかで何を見ているのだろう。ひげがぴくりと動いて、尻尾の先が一度だけ揺れた。コスモスの花びらも、同じように風に揺れた。

お地蔵さんは、何も言わない。

けれど、石の口もとには、昨日よりも少しだけ、やわらかな笑みが宿っているように見えた。

願いごとを聞くことも、叶えることもできないお地蔵さんが、それでも長いあいだそこに立ち続けている理由。その答えは、きっとこの朝の風景のなかにある。誰かが置いた一輪の花と、通りがかった猫のぬくもり。そんな小さなものを、黙って受け止めてくれる場所があること。

道ばたの静けさは、人の心をそっとほどいてくれる。

急ぎ足の毎日のなかで、ふと立ち止まる場所。秋の澄んだ空気のなかで、花と猫と石の仏さまが、ただ静かに並んでいる。それだけで、世界は十分にやさしかった。

黒猫が、ゆっくりと目を開ける。

大きなあくびをひとつ。伸びをして、金色の目でもう一度コスモスを見やると、猫は軽やかに石垣の向こうへ姿を消した。

残された一輪のコスモスは、秋風のなかで、まだ静かに揺れている。

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