朝の空気は、少しだけ冷たかった。
海へ向かう細い道を登りきると、風の音が変わる。木々の葉ずれがふっと途切れて、代わりに遠くから波の気配が聞こえてくる。足元の土は、いつのまにか灰色の岩に変わっていた。
岩場の割れ目という割れ目に、白い小さな花が咲いている。
リュウノウギクだ。
菊と呼ぶにはあまりにも控えめで、野の花と呼ぶには凛としている。秋の光を受けた花びらは、うすく透けるように白かった。岩の隙間に根を下ろし、風に吹かれても、じっとそこに立っている。
ぼくは思わず足を止めて、しゃがみこんだ。顔を近づけると、ほのかに清々しい香りがした。甘さはない。けれど、胸の奥のこわばりが、ゆっくりほどけていくような香りだった。
「ここなら、誰にも会わないだろう」
そう思って来た場所だった。最近は、考えごとばかりが増えていた。やらなければならないこと、返さなければならない連絡、うまく言葉にならない焦り。そういうものを少しのあいだ、置いて来たかった。
そのとき、ふいに視線を感じた。
顔を上げると、岩の上に、黒い影があった。
猫だった。
つややかな黒い毛並みが、秋の光を吸い込んで、ところどころ深い藍色に光っている。丸い金色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
逃げるでもなく、近づくでもなく、ただそこに座っている。まるで、前からこの岩場の主であったかのように。
「やあ」
小さく声をかけると、黒猫は耳をぴくりと動かした。それから、ゆっくりと瞬きをした。猫の瞬きは、「敵意はないよ」という合図だと聞いたことがある。ぼくも、ゆっくり瞬きを返した。
黒猫はしばらくぼくを眺めたあと、おもむろに立ち上がり、岩の上をとん、とん、と軽やかに歩き出した。尻尾がまっすぐ空に向かって伸びている。
そして、リュウノウギクの群れのすぐそばで、ぴたりと止まった。
白い花と、黒い猫。
その対比があまりにも美しくて、ぼくは息をするのを忘れてしまった。
猫は、花に鼻先を近づけて、すん、と匂いを嗅いだ。それから、くしゃみをひとつした。
「ふっ」
思わず笑ってしまった。声を出して笑ったのは、いつぶりだろう。
黒猫は、少しだけ不満そうにこちらを振り返った。けれど、すぐにどうでもよくなったのか、岩の上にころんと横になった。おなかを日なたに向けて、前足を軽く丸めて。
風が吹いた。
リュウノウギクがいっせいに揺れた。波の音が、遠くで寄せては返している。海はまだ見えないけれど、空の青さがその向こうにあることを教えてくれていた。
ぼくは、岩に腰を下ろした。
不思議なものだ。何かをしなければと思っていたはずなのに、ここでは、何もしなくていいような気持ちになる。花が咲いて、猫が寝て、風が吹いている。それだけで、世界はちゃんと成り立っている。
黒猫が、片目だけ開けてぼくを見た。
「おまえも、ここで休んでいけばいい」
そう言われた気がした。
どれくらい時間が経っただろう。
太陽が少し傾いて、岩場の影が長くなってきた。黒猫はいつのまにか起き上がり、毛づくろいをしている。丁寧に前足をなめては、顔をこする。その仕草が、なんともいえず愛らしかった。
やがて猫は、ぼくの足元までやってきた。
そして、ほんの一瞬だけ、ぼくのくるぶしに頭をこつんと押しつけた。
それだけだった。
次の瞬間には、もう岩を軽く蹴って、道の向こうへ歩いていく。振り返りもしない。尻尾だけが、さよならのように、ゆらりと揺れた。
ぼくは、その背中が見えなくなるまで見送った。
足首に残った、わずかなぬくもり。
それは、とても小さなものだった。けれど、ぼくの胸の中では、思っていたよりもずっと長く、あたたかく残り続けた。
帰り道、ぼくはもう一度だけ岩場を振り返った。
夕方の光に染まったリュウノウギクが、白く、やさしく、光っていた。
きっと明日も、あの花はあそこで咲いている。そして、あの黒猫も、どこかでのんびり昼寝をしているのだろう。
そう思うだけで、不思議と明日が少し楽になった。
秋は、ひとを静かにする季節だ。
岩場に咲く小さな白い花と、通りすがりの黒猫が、そっと教えてくれた。
急がなくていい。
頑張りすぎなくていい。
ただ、ここにいるだけで、いいのだと。
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――癒される秋の、ある午後の話。

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