2026年10月3日土曜日

癒される秋のリュウノウギクが咲く岩場と黒猫

 

 朝の空気は、少しだけ冷たかった。

 海へ向かう細い道を登りきると、風の音が変わる。木々の葉ずれがふっと途切れて、代わりに遠くから波の気配が聞こえてくる。足元の土は、いつのまにか灰色の岩に変わっていた。

 岩場の割れ目という割れ目に、白い小さな花が咲いている。

 リュウノウギクだ。

 菊と呼ぶにはあまりにも控えめで、野の花と呼ぶには凛としている。秋の光を受けた花びらは、うすく透けるように白かった。岩の隙間に根を下ろし、風に吹かれても、じっとそこに立っている。

 ぼくは思わず足を止めて、しゃがみこんだ。顔を近づけると、ほのかに清々しい香りがした。甘さはない。けれど、胸の奥のこわばりが、ゆっくりほどけていくような香りだった。

 「ここなら、誰にも会わないだろう」

 そう思って来た場所だった。最近は、考えごとばかりが増えていた。やらなければならないこと、返さなければならない連絡、うまく言葉にならない焦り。そういうものを少しのあいだ、置いて来たかった。

 そのとき、ふいに視線を感じた。

 顔を上げると、岩の上に、黒い影があった。

 猫だった。

 つややかな黒い毛並みが、秋の光を吸い込んで、ところどころ深い藍色に光っている。丸い金色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。

 逃げるでもなく、近づくでもなく、ただそこに座っている。まるで、前からこの岩場の主であったかのように。

 「やあ」

 小さく声をかけると、黒猫は耳をぴくりと動かした。それから、ゆっくりと瞬きをした。猫の瞬きは、「敵意はないよ」という合図だと聞いたことがある。ぼくも、ゆっくり瞬きを返した。

 黒猫はしばらくぼくを眺めたあと、おもむろに立ち上がり、岩の上をとん、とん、と軽やかに歩き出した。尻尾がまっすぐ空に向かって伸びている。

 そして、リュウノウギクの群れのすぐそばで、ぴたりと止まった。

 白い花と、黒い猫。

 その対比があまりにも美しくて、ぼくは息をするのを忘れてしまった。

 猫は、花に鼻先を近づけて、すん、と匂いを嗅いだ。それから、くしゃみをひとつした。

 「ふっ」

 思わず笑ってしまった。声を出して笑ったのは、いつぶりだろう。

 黒猫は、少しだけ不満そうにこちらを振り返った。けれど、すぐにどうでもよくなったのか、岩の上にころんと横になった。おなかを日なたに向けて、前足を軽く丸めて。

 風が吹いた。

 リュウノウギクがいっせいに揺れた。波の音が、遠くで寄せては返している。海はまだ見えないけれど、空の青さがその向こうにあることを教えてくれていた。

 ぼくは、岩に腰を下ろした。

 不思議なものだ。何かをしなければと思っていたはずなのに、ここでは、何もしなくていいような気持ちになる。花が咲いて、猫が寝て、風が吹いている。それだけで、世界はちゃんと成り立っている。

 黒猫が、片目だけ開けてぼくを見た。

 「おまえも、ここで休んでいけばいい」

 そう言われた気がした。

 どれくらい時間が経っただろう。

 太陽が少し傾いて、岩場の影が長くなってきた。黒猫はいつのまにか起き上がり、毛づくろいをしている。丁寧に前足をなめては、顔をこする。その仕草が、なんともいえず愛らしかった。

 やがて猫は、ぼくの足元までやってきた。

 そして、ほんの一瞬だけ、ぼくのくるぶしに頭をこつんと押しつけた。

 それだけだった。

 次の瞬間には、もう岩を軽く蹴って、道の向こうへ歩いていく。振り返りもしない。尻尾だけが、さよならのように、ゆらりと揺れた。

 ぼくは、その背中が見えなくなるまで見送った。

 足首に残った、わずかなぬくもり。

 それは、とても小さなものだった。けれど、ぼくの胸の中では、思っていたよりもずっと長く、あたたかく残り続けた。

 帰り道、ぼくはもう一度だけ岩場を振り返った。

 夕方の光に染まったリュウノウギクが、白く、やさしく、光っていた。

 きっと明日も、あの花はあそこで咲いている。そして、あの黒猫も、どこかでのんびり昼寝をしているのだろう。

 そう思うだけで、不思議と明日が少し楽になった。

 秋は、ひとを静かにする季節だ。

 岩場に咲く小さな白い花と、通りすがりの黒猫が、そっと教えてくれた。

 急がなくていい。
 頑張りすぎなくていい。
 ただ、ここにいるだけで、いいのだと。

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 ――癒される秋の、ある午後の話。

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