朝の空気は、少しだけ冷たかった。
駅から続く土手の道を、わたしはゆっくり歩いていた。ここ数日は仕事のことばかり考えていて、気づけば空を見上げる余裕もなかった。それが今朝は、窓を開けた瞬間に青い光が部屋へ流れ込んできて、気づいたら上着を羽織って外に出ていた。
空が、高い。
夏のあいだ重たく垂れ込めていた雲は、どこかへ引っ越してしまったらしい。かわりに、刷毛でひと撫でしたような薄い雲が、ずっと遠くに浮かんでいる。川面はその青をそのまま映して、さらさらと小さな音を立てていた。
土手のススキが、風に合わせて銀色の穂をゆらす。その向こう、田んぼの果てのさらに先に、小さな白い影が見えた。
風車だ。
三枚の羽根が、ゆっくり、ゆっくりと回っている。ここからだと指先ほどの大きさしかないのに、その回転だけは不思議とはっきり見えた。急ぐでもなく、止まるでもなく、ただ秋の風を受けて回り続けている。
わたしは土手の斜面に腰をおろした。草は日なたの匂いがして、座った場所からじんわりと温かさが伝わってくる。
そのときだった。
「にゃ」
小さな声に振り向くと、すこし離れた石垣の上に、茶トラの猫が座っていた。丸い目でこちらを見て、しっぽをくるりと足もとに巻いている。
「おはよう」
そう声をかけると、猫は返事のかわりに、ゆっくりまばたきをした。
それが合図だったように、草むらの奥から、もう一匹、また一匹と猫が顔を出した。白い足先をした黒猫。灰色のしま模様の、少し太めの猫。小さくて、まだ耳ばかり大きな子猫まで。
野良猫たちは、まるで約束でもしていたみたいに、土手の日だまりに集まってきた。
わたしは何も持っていなかった。おやつも、おもちゃも。ただ座って、空を見ているだけだった。それなのに、猫たちはそれぞれ好きな場所を選んで、のんびりと体を丸めはじめる。
灰色の猫は、わたしの二歩ほど先で横になった。黒猫は石垣の上で前足をそろえ、遠くの風車をじっと見つめている。茶トラは大きなあくびをして、そのまま日向に溶けていきそうな顔をした。
子猫だけが、ススキの穂に前足を伸ばして遊んでいる。ゆれる穂を追いかけて、ぴょんと跳ねて、くるんと転んで、また立ち上がる。その姿があまりに一生懸命で、わたしは思わず笑ってしまった。
笑ったのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
風が吹く。ススキがさわさわと鳴る。遠くで風車が回る。川がきらきらと光る。
誰も急いでいない。誰も、何かを成し遂げようとしていない。猫たちは、ただ今日の日だまりを味わっている。それがどれほど贅沢なことか、わたしは今まで忘れていたのだと思う。
しばらくして、黒猫が石垣から降りてきて、わたしの隣に座った。触れるほど近くはないけれど、遠くもない、ちょうどいい距離。
同じ方向を向いて、同じ風車を眺める。
「きれいだね」
黒猫は答えない。ただ、しっぽの先がほんの少し、ぴくりと動いた。
それで十分だった。
太陽が少しずつ高くなって、土手の草がいっそう温かくなる。わたしの肩の力も、いつのまにか抜けていた。頭のなかを占めていた心配ごとは、風車の羽根に乗って、遠くへ運ばれていくようだった。
どれくらい、そうしていただろう。
気がつくと、猫たちはみんな目を細めて、うとうとしていた。茶トラは丸くなり、灰色の猫は仰向けでお腹を見せ、子猫はいつのまにか黒猫の背中にもたれて眠っている。
わたしはそっと立ち上がった。起こさないように、足音を殺して。
土手の上から振り返ると、秋晴れの空の下、日だまりのなかに小さな猫たちの影が寄り添っていた。その向こうで、風車はまだゆっくりと回っている。
歩き出すと、さっきより足取りが軽かった。
特別なことは、何も起きなかった。ただ空が青くて、風が気持ちよくて、猫たちがそばにいた。それだけの朝だ。
けれど、そんな朝が、きっとわたしをもう一度、前に歩かせてくれる。
遠くの風車は、今日も変わらず回っている。
野良猫たちは、今日も変わらず日だまりのなかにいる。
そしてわたしは、また明日もこの道を歩こうと思った。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
PR
コータのAmazonページへ
コータのAIイラスト、Xページへ
よろしければ、
のぞいてみてください

0 件のコメント:
コメントを投稿