十月の終わりが近づくと、夕方の光は急に色を変える。
夏のあいだ白っぽかった空が、いつのまにか蜜柑色になり、その端のほうから、うすい紫がじわじわと滲んでくる。仕事を終えて帰ってきた私は、鍵を開けるより先に、ベランダのほうへ目をやった。
そこには、いつもの場所に、いつもの背中があった。
メインクーンのモカ。五歳のオスで、体重は六キロを超える。ふさふさの尾は、座っているだけで床に長く流れる。茶と灰色が混ざった毛並みは、夕日を浴びると、まるで燃える落ち葉のように見えた。
「ただいま」
声をかけると、モカは振り返らずに、尻尾の先だけをぱたりと動かした。
返事としては、それで十分だった。
私は上着を椅子に掛け、湯を沸かして、温かいほうじ茶を淹れた。マグカップを両手で包むと、指先からゆっくり熱が上ってくる。サッシを少し開けると、秋の空気が部屋へ入ってきた。冷たいのに、どこか甘い。乾いた草と、遠くの誰かの夕飯の匂いが混じっていた。
ベランダには、小さな椅子がひとつ置いてある。
去年の秋、なんとなく買ったものだ。座ってみたら思いのほか居心地がよく、それからは、夕方になるとここで過ごすのが習慣になった。
腰を下ろすと、モカが私の足元へ、のそりと移動してきた。
彼は大きい。その大きな体で、遠慮なく、ぴったりとくっついてくる。ふわふわの毛が足首にあたり、重さと温かさが、じんわり伝わってきた。
空では、雲が茜色の縁取りをしている。
向かいの屋根の上を、鳥の群れが横切っていった。ひとつの生き物みたいにうねりながら、薄紫の空へ吸い込まれていく。モカの耳が、その方向へくるりと向いた。瞳は琥珀色で、夕日が映って、小さな炎のように揺れている。
「きれいやなあ」
思わず独り言が出た。
モカは、ごろごろと喉を鳴らした。メインクーンは、鳴き声が小鳥のように高いと聞くけれど、モカは「ぷるる」と短く鳴くことが多い。今も、ぷるる、と一度だけ言って、私の膝に前足をかけた。
抱き上げると、ずしりと重い。
けれど、この重さが、私は好きなのだ。一日のうちに溜まった、言葉にならない疲れのようなものが、この重みの中へ、すうっと溶けていくような気がする。
今日は、少しだけ嫌なことがあった。
大きな失敗ではない。ただ、うまく説明できなくて、言い返せなくて、帰り道ずっと、頭の中で言い直していた。そんな、小さな棘のような出来事だった。
でも、夕焼けの前に座っていると、その棘が、少しずつ丸くなっていく。
空は、人の都合など気にしない。今日がどんな日だったとしても、同じ時刻になれば、同じように赤く染まる。その変わらなさが、不思議と、心を支えてくれる。
モカは私の腕の中で目を細め、ゆっくりまばたきをした。
猫のゆっくりしたまばたきは、「安心している」という合図だと、どこかで読んだことがある。私も、それに応えるように、ゆっくりまばたきを返した。
ほうじ茶は、いつのまにか、ぬるくなっていた。
それでも、おいしかった。
やがて太陽が、ビルの向こうへ沈んでいった。
空の赤は深い葡萄色に変わり、東のほうから、一番星が顔を出す。街の窓に、ぽつぽつと明かりが灯り始めた。誰かの家の夜が、ひとつずつ始まっていく。
肌寒くなってきて、私はモカを抱いたまま立ち上がった。
部屋に入る前に、もう一度だけ、空を振り返る。
残り火のような光が、地平線のあたりに、細く、静かに残っていた。
「また明日も、見られるかな」
腕の中のモカが、ぷるる、と答えた。
それが「うん」なのか、「ごはんはまだか」なのかは、わからない。けれど、どちらでもいいと思った。
窓を閉めると、部屋の中は、ほんのりと温かかった。
秋の夕焼けと、ベランダと、大きな猫。
それだけで、一日はちゃんと、いい日になる。
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