夜と朝のあいだには、名前のついていない時間がある。
その朝、わたしは目覚ましが鳴るよりずっと早く目を覚ました。理由はよくわからない。ただ、カーテンの隙間から差し込む光が、いつもより白くて静かだった。コートを羽織って外に出ると、空気は冷たく澄んでいて、吸い込むと胸の奥まで洗われるようだった。
足は自然と海のほうへ向いた。
坂道を下りきると、防波堤の続く小さな港に出る。昼間は釣り人や自転車の音でにぎやかな場所だけれど、この時間は誰もいない。聞こえるのは、遠くで一度だけ鳴いた鳥の声と、自分の靴音くらいだった。
海は、凪いでいた。
風がぴたりと止んで、水面は薄い絹を張ったように動かない。空の色がそのまま海に溶けていて、どこまでが空で、どこからが海なのか、水平線がほとんど見えなかった。淡い桃色と、やわらかな水色と、ほんの少しの金色。そんな色を、海はひとつも逃さずに映していた。
「朝凪」という言葉を、わたしはそのとき初めて、景色として理解した気がした。
防波堤の上をゆっくり歩いていると、少し先に、小さな丸いものが見えた。
最初は、誰かが置き忘れたクッションかと思った。近づいてみると、それは三毛猫だった。
白と黒と茶色が、まるで絵の具をそっと混ぜたように入り混じっている。その猫は、コンクリートの上でくるりと身体を丸め、尻尾を鼻先に添えて、静かに眠っていた。背中の毛の先が、昇りはじめた朝日にほんのり透けて、あたたかそうな金色にふちどられている。
わたしは足を止めた。起こしてしまわないように、息まで小さくした。
猫は片目だけを細く開けて、わたしを見た。
驚くでもなく、逃げるでもなく、「ああ、あなたか」とでも言うような顔で、ゆっくりとまばたきをした。そしてまた目を閉じた。
その様子があまりにも自然で、あまりにも満ち足りていて、わたしは思わず笑ってしまった。
「ここ、いい場所だね」
小さな声でそう言って、わたしは少し離れたところに腰を下ろした。コンクリートはひんやりしていたけれど、不思議と嫌ではなかった。目の前には、動かない海。隣には、丸くなった三毛猫。
しばらくのあいだ、わたしたちは何もしなかった。
波は、ほとんど音を立てなかった。岸壁にときどき触れる水が、ちゃぷ、と小さく鳴るだけ。遠くの漁船が、のんびりと白い筋を引いて進んでいく。その筋もやがて、海に溶けるように消えていった。
思えば最近のわたしは、ずっと急いでいた。
朝は時計を見ながら支度をして、電車では画面を見つめて、夜は夜で、明日のことを考えているうちに眠ってしまう。景色を「見る」ことはあっても、「眺める」ことはずいぶんしていなかった。
この猫は、きっと毎朝ここにいるのだろう。誰に急かされることもなく、誰に何を証明する必要もなく、ただ日向を選んで、丸くなっている。
それでいいのだと、猫の背中は言っている気がした。
やがて、太陽が水平線の上に顔を出した。海がいっぺんに金色にほどけて、猫の毛並みも、わたしの手の甲も、同じ光に包まれた。ひとすじの光の道が、沖からまっすぐ防波堤まで伸びてくる。
猫がもぞもぞと動いて、前足をぐんと伸ばし、小さくあくびをした。
ピンクの舌が、ちらりと見えた。
それから猫は立ち上がり、ひとつ大きく伸びをすると、わたしの前を通りすぎて、ゆうゆうと防波堤の向こうへ歩いていった。振り返りもしない。その潔さが、なんだか清々しかった。
ひとり残されたわたしは、猫がいた場所にそっと手をのせてみた。
そこには、まだほんのりと、ぬくもりが残っていた。
立ち上がって、もう一度だけ海を見る。朝凪の海は、さっきよりも少しだけ明るくなって、静かに、静かに、一日のはじまりを待っていた。
帰り道、足取りは来たときよりずっと軽かった。
特別なことは、何も起きていない。ただ、凪いだ海を眺めて、猫と同じ時間を過ごしただけ。それなのに、胸の奥のざわざわしていたものが、すっかり凪いでいた。
癒しというのは、探しに行くものではなくて、こうして不意に、そっと隣に座っていてくれるものなのかもしれない。
もしあなたの毎日が、少し急ぎ足になっているなら。
早起きした朝に、海の見える場所へ行ってみてください。運がよければ、丸くなった三毛猫が、静かな朝をわけてくれるはずです。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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