峠のバス停を降りると、空気の色が変わった。
街の秋は、金木犀の香りと一緒に始まる。けれどここの秋は、音から始まるらしい。風が草を渡っていく、さらさらという長い音。それ以外には、ほとんど何も聞こえなかった。
小道を抜けると、視界がひらけた。
銀色の穂をつけたススキの海のなかに、淡い紫の小さな点が、ぽつり、ぽつりと浮かんでいる。ヤマラッキョウだった。細い茎の先に、丸い花がひとつ。近づいて見ると、小さな星をいくつも束ねたような花で、風が吹くたびに、ふわりと頭を揺らしていた。
名前のわりに、ずいぶん控えめな花だと思った。ラッキョウと聞いて思い浮かべるものとは、まるで違う。派手に咲くわけでもなく、誰かに見つけてもらうのを待つわけでもなく、ただ秋の草原のなかで、静かに色を灯している。
私はその場にしゃがんで、しばらく花を眺めていた。
ここへ来るまでの日々は、あまり余裕がなかった。気づけば、スマートフォンの画面ばかり見ていて、空の高さを思い出すことさえ忘れていた。だから今日は、予定を何も入れずに、いちばん朝早いバスに乗ったのだった。
そのときだった。
草の向こうで、何かが動いた。
ススキの穂が、すっと割れる。そこから現れたのは、一匹の黒猫だった。
艶のある毛並みが、午前の光を吸い込んで、深い夜の色をしている。琥珀色の目が、まっすぐにこちらを見ていた。逃げる気配はない。かといって、近づいてくるわけでもない。草原の主が、見慣れない客人を品定めするように、じっと私を見ている。
「おじゃましています」
思わず、声に出していた。
黒猫は、ゆっくりとまばたきをした。それから、何事もなかったように歩き出した。しっぽをぴんと立てて、ヤマラッキョウの間を、ひょい、ひょいと抜けていく。黒い体のまわりで、淡い紫の花が揺れた。夜と夕暮れの境目の色が、真昼の草原に、そっと置かれたようだった。
私は立ち上がって、少し離れてついていった。
猫は、草原の真ん中あたりで足を止めた。そこだけ、陽だまりのように光がたまっている。猫はそこへ座り込むと、前足をそろえて、背筋を伸ばした。そして、遠くの山並みを見つめはじめた。
その横顔があまりに穏やかで、私も隣の岩に腰を下ろした。
風が吹く。ススキが鳴る。ヤマラッキョウが揺れる。黒猫のひげが、わずかにそよぐ。
時間という言葉が、いつの間にか遠くへ行ってしまっていた。
ふと、思った。
私はこれまで、癒しとは「何かを手に入れること」だと思っていた。いい景色を写真に収めること。おいしいものを食べること。何かを足していくことで、心は満たされるのだと。
けれど、この草原には、足すものが何ひとつない。
ただ風があって、花があって、黒猫がいる。それだけで、胸の奥の硬くなっていたところが、ゆっくりとほどけていく。足すのではなく、引いていくことで、やっと聞こえてくる音があるのだと、そのとき初めて知った。
黒猫が、ふいにこちらを向いた。
琥珀色の目が、細くなる。小さく、ひとつ鳴いた。
それは挨拶のようにも、「もう少しここにいればいい」という許しのようにも聞こえた。
私は、うなずいた。
太陽が少しずつ高くなり、草原の影が短くなっていく。ヤマラッキョウの紫は、光の角度が変わるたびに、少しずつ違う色を見せた。朝は薄く、昼は澄んで、きっと夕方には、赤みを帯びるのだろう。
帰りのバスの時間が近づいて、私は静かに立ち上がった。
黒猫は、もう私を見ていなかった。陽だまりのなかで、丸くなって目を閉じている。まるで、最初からそこにいる風景の一部だったように。
峠への小道を戻る途中、一度だけ振り返った。
銀の穂の海に、淡い紫の点々が浮かんでいる。そのなかに、ちいさな黒い影がひとつ。
風が、背中をそっと押してくれた。
胸のなかには、さっきまでなかった静けさが、確かに残っていた。
秋の草原は、何も語らない。けれど、立ち止まった人にだけ、ちゃんと何かを渡してくれる。
そう思いながら、私はバス停へと歩いていった。
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