秋の朝の林道は、音が少ない。
遠くで鳥が一声鳴いて、それきりだった。足もとの落ち葉は夜露を含んで、踏んでもほとんど音を立てない。吐く息はまだ白くならないけれど、空気は冷たくて澄んでいて、胸の奥までまっすぐ入ってくる。
林道に入ってしばらく歩くと、道の脇に白い花が揺れていた。
シラヤマギクだ。細い茎をすっと伸ばし、小さな白い花びらを広げている。派手さはないのに、木漏れ日を受けると、花びらのふちがほんのり光って見える。木々の影が濃い道の脇で、そこだけ小さな灯りがともっているようだった。
しゃがんで花を眺めていると、かさり、と音がした。
顔を上げると、道の少し先に猫がいた。
大きな猫だった。ふさふさの長い毛は、茶と黒と白がやわらかく混ざり合っていて、首のまわりには立派なたてがみのような毛が広がっている。耳の先には房のような毛がぴんと立っていた。メインクーンだ、と思った。
猫は逃げなかった。琥珀色の目でこちらをじっと見て、それから、急ぐでもなく、ゆっくりと近づいてきた。
大きな体なのに、足音がしない。落ち葉の上を、まるで雲の上を歩くように進んでくる。やがてシラヤマギクの手前で立ち止まると、ふう、と鼻をひくつかせて、花の匂いを確かめた。白い花が、猫の鼻先でふわりと揺れた。
「いい匂い?」
そう聞いてみたけれど、猫は振り向かない。ただ、長いふさふさの尻尾を、ゆらりと一度だけ動かした。返事のつもりなのかもしれない。
猫は花のそばの、日だまりのいちばん暖かそうな場所にどっかりと腰を下ろした。前足をそろえ、背筋を伸ばして、林道の向こうを眺めている。まるで、この道の番人のようだった。
私も少し離れた倒木に腰かけて、同じ方向を眺めてみた。
木々の葉は、まだ緑が残るものと、黄色くなりかけたものとが入り交じっている。その隙間から、斜めに光が差し込んで、空気中の細かな粒をきらきらと照らしていた。風が吹くたび、シラヤマギクが一斉にうなずく。猫の毛も、風に撫でられて、さわさわと波打った。
ふと、最近の自分の毎日を思い出した。
予定を詰めて、通知に追われて、気づけば「ちゃんと休む」ことが一番後回しになっていた。何かをしていないと落ち着かなくて、立ち止まると、置いていかれるような気がしていた。
でも、この猫は何もしていない。
ただ座って、風を感じて、光を浴びている。それだけで、ちゃんとそこに「いる」。
それはなんだか、とても堂々として見えた。何かを成し遂げなくても、生産的でなくても、日だまりに座っているだけで、この朝の林道は完成している。そんなふうに思えた。
しばらくして、猫が大きなあくびをした。ぴんと立った耳の房毛が揺れて、小さな牙がちらりと見える。それから、のっそりと立ち上がり、ひとつ伸びをして、また林道の奥へと歩き出した。
数歩進んだところで、猫は一度だけ振り返った。
琥珀色の目と、目が合った。
「ついてきてもいいよ」と言われた気がして、私は思わず立ち上がった。
猫のあとを、ゆっくり歩く。道の両脇には、シラヤマギクの白い花が、ぽつり、ぽつりと続いていた。猫の尻尾が、前を行く道しるべのように揺れている。
急がなくていい。どこかへ着かなくてもいい。
落ち葉の道を一歩ずつ踏みしめるうちに、頭の中でずっと鳴っていたざわざわした音が、いつのまにか静かになっていた。
林道の先には、やわらかな光が満ちていた。
秋の朝、白い小さな花と、大きなやさしい猫。それだけで、心はこんなにも静かになれる。そんな一日の始まりだった。
この林道の静けさと、シラヤマギクの白、そしてメインクーンのゆったりとした歩み。どれも、頑張りすぎた心をそっとほどいてくれる秋の贈りものでした。
もしお疲れを感じる日があれば、近くの小さな道を歩いて、道ばたの花に目をとめてみてください。きっと、あの猫のように、ただそこにいるだけでいい時間が見つかるはずです。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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