その日は、いつもより少しだけ早く仕事が終わった。
駅を出ると、空がやけに広く見えた。見上げると、西の端から東の端まで、薄く溶いた茜色がゆっくりと流れている。ビルの谷間に沈みかけた夕日が、雲の縁だけをほんのり金色に縁取っていた。
いつもなら、まっすぐ家に向かう。スマートフォンを片手に、最短の道を、少し急ぎ足で。
けれどその日は、なぜか足が違う角を曲がった。
細い路地だった。古い板塀の続く道で、どこかの家から夕飯の煮物の匂いが流れてくる。自転車のベルの音が遠くで鳴って、すぐに静かになった。歩くたびに、靴底の音がやさしく響く。
路地を抜けた先に、小さな公園があった。
ブランコが二つ。色の褪せた滑り台。それから、背の低い鉄棒と、ぽつんと置かれた木のベンチ。地図にも載っていないような、本当に小さな公園だった。何年も通ってきた道のすぐ裏側に、こんな場所があったなんて。
ベンチの背もたれに、茜色の光が斜めに落ちていた。
私は、吸い寄せられるようにそこへ腰を下ろした。鞄を膝の上に置いて、ふうっと息を吐く。思っていたより、肩に力が入っていたらしい。吐いた息と一緒に、一日分の何かが、空へほどけていく気がした。
ブランコの鎖が、風にかすかに揺れている。キィ、と小さく鳴る。誰も乗っていないのに、まるで誰かがそっと遊んでいるみたいに。
そのときだった。
足元で、ふわりと何かが触れた。
見下ろすと、黒猫がいた。
夕暮れの光を吸い込んだような、深い黒。艶やかな毛並みの端だけが、茜色に透けて、ほんのり赤みを帯びている。まん丸の瞳は、琥珀を溶かしたような色をしていた。
「にゃあ」
猫は短くそう言うと、私の足首にすりっと頬を寄せ、何事もなかったようにベンチの端へ飛び乗った。そして、くるりと丸くなる。まるで、ここは自分の指定席だと言わんばかりに。
私は、思わず笑ってしまった。
「先客がいたのね」
猫は目を細めただけで、返事はしなかった。けれど、尻尾の先がゆらりと一度だけ揺れた。それが、「どうぞ」の合図のように思えた。
私たちは、並んで空を見た。
茜色は、ゆっくりと深くなっていく。橙から朱へ、朱から薄い紫へ。雲の影が長く伸びて、公園の砂場に、やわらかな模様を描いた。遠くで、夕方を知らせるチャイムが鳴る。誰かが「ごはんよー」と呼ぶ声がする。
何も考えなかった。
明日の予定も、返しそびれたメッセージも、ほんの少し胸に残っていた小さなざらつきも、この時間だけは、遠くに置いておけた。
ただ、猫の背中が、呼吸に合わせてゆっくり上下するのを眺めていた。それだけで、心の奥のほうが、じんわりと温かくなった。
忙しい毎日の中で、私たちはつい「意味のあること」ばかりを探してしまう。役に立つこと。効率のいいこと。けれど本当に心を救ってくれるのは、こんなふうに、何の役にも立たない時間なのかもしれない。
空の色が、茜から群青へ移りはじめたころ、黒猫がすっと立ち上がった。
伸びをして、ひとつあくびをして、ベンチからひらりと降りる。そして一度だけ、こちらを振り返った。琥珀色の瞳が、暮れかけの光の中で、小さく光った。
「にゃ」
それが「じゃあね」なのか、「また明日」なのかは、わからなかった。
猫の黒い影は、板塀の向こうへ、音もなく溶けていった。
私はもう少しだけ、ベンチに座っていた。ブランコの鎖が、また小さくキィと鳴った。
立ち上がると、さっきより足取りが軽かった。
帰り道、振り返ると、小さな公園は、群青の空の下で静かに佇んでいた。茜色はもう、空の端にほんのわずかに残っているだけだ。
けれど、胸の中には、確かにあの色が灯っていた。
いつもの帰り道を、ほんの少しだけ曲がってみる。それだけで、世界はこんなにもやさしい顔を見せてくれる。
茜色の空と、小さな公園と、黒猫。
それは、疲れた心にそっと寄り添ってくれる、ささやかで、とびきり贅沢な時間だった。
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