夕方の四時を過ぎると、窓辺の光が少しずつ金色に変わっていく。
その変化に、いちばん先に気づくのはいつもモチだった。
モチは、短い足のマンチカンだ。白と薄茶のまだら模様の毛並みで、歩くたびに丸いお尻がぽよぽよと揺れる。昼間は日だまりで丸くなり、夢の中でときどき前足をぴくりと動かしている。それが四時を過ぎると、ぱちりと目を開けて、ゆっくりと伸びをする。
そして玄関の前に座り、私の顔をじっと見上げるのだ。
「……行くの?」
そう聞くと、モチは「にゃ」と短く答える。それは、毎日の約束の合図だった。
ハーネスをつけて外に出ると、空気はもう昼の熱を手放していた。ひんやりとした風の中に、どこかの家の夕ごはんの匂いが混じっている。味噌汁だろうか。焼き魚だろうか。モチは鼻をひくひくさせて、そのひとつひとつを丁寧に確かめながら歩いていく。
短い足でとことこと、けれど迷いなく。
住宅街を抜けて、川沿いの土手へ続く坂道にさしかかったとき、モチがふいに立ち止まった。
空を見上げている。
つられて顔を上げた私は、思わず息をのんだ。
西の空が、茜色に染まっていた。
燃えるような赤ではなく、柔らかく溶けたような、あたたかな色だ。その茜色の上には薄紫の雲が長くたなびき、さらに上へ目をやると、空は少しずつ群青へと沈んでいく。ひとつの空の中に、一日の終わりがぜんぶ詰まっていた。
モチは小さな体をまっすぐにして、じっとその空を見つめている。茜色の光が、まだら模様の毛先をほんのり染めて、まるで体のまわりに薄い炎をまとっているみたいだった。
「きれいだね」
声をかけても、モチは振り向かない。ただ、尻尾の先がゆっくり左右に揺れていた。機嫌のいいときの、あの揺れ方だ。
猫に、空の美しさがわかるのだろうか。
そんなことを考えて、すぐに苦笑いした。わかるかどうかなんて、きっとどうでもいいのだ。モチは今この瞬間を、全身で味わっている。それだけで十分だった。
土手の道を、また二人で歩き出す。
川面には空の色がそのまま映り込んで、水の流れに合わせて、茜色がゆらゆらと形を変えていた。どこかで犬の散歩をしている人が、ゆるやかに会釈をしてくれる。モチを見て「かわいいですね」と目を細め、モチは知らん顔で、道端のススキの穂に鼻先を近づけている。
ススキが風に揺れて、さらさらと音を立てた。
秋の夕暮れの音だ、と思った。
私は一日の中で、いくつもの小さなことを抱えて歩いてきた。終わらなかった仕事のこと、うまく言えなかった言葉のこと、明日の予定。それらが胸のあたりでごちゃごちゃと絡まっていたはずなのに、気づけば、少しずつほどけている。
モチの隣を歩くと、いつもそうなのだ。
急がなくていい。立ち止まってもいい。空が綺麗なら、ただ見上げればいい。短い足の小さな猫が、毎日それを教えてくれる。
土手のベンチに腰を下ろすと、モチはぴょんと膝に乗ってきた。ずしりとした、あたたかな重み。丸くなって喉を鳴らし始めると、ごろごろという小さな振動が、膝からお腹へ、お腹から胸へと静かに伝わってくる。
茜色の空は、ゆっくりと色を深めていった。
雲の縁が金から桃色へ、桃色から薄紫へ。やがて一番星が、遠くの空にぽつりと灯る。
「帰ろうか」
そう言うと、モチは名残惜しそうに空をもう一度だけ見上げて、それからするりと膝を降りた。
帰り道、街灯がぽつぽつと灯り始める。モチの影が、長く細く、足元にのびている。短い足のはずなのに、影の中ではなんだか少し背が高くて、それがおかしくて、私は一人で笑ってしまった。
家に着くと、モチは玄関で小さく「にゃあ」と鳴いた。今日も楽しかったよ、と言っているような声だった。
ごはんの用意をしながら、ふと窓の外を見る。空はもうすっかり夜の色になっていたけれど、私の胸の中には、あの茜色がまだほんのり残っていた。
明日もきっと、四時を過ぎたらモチが目を開ける。
そして玄関の前に座って、私を見上げるのだろう。
夕暮れの散歩は、一日の終わりに、私と小さな猫がそっと交わす約束だ。
茜色の空の下を、丸いお尻を揺らしながら歩く背中を、私はこれからも、いちばん近くで見ていたいと思う。
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