2026年10月8日木曜日

癒される秋の夕焼けと野良猫たちの長い影

癒される秋の夕焼けと野良猫たちの長い影

 商店街のはずれに、古い石の階段がある。

十月の終わりに近いその日、私は仕事帰りに、いつもと違う道を選んだ。理由は特にない。ただ、駅を出たときの空が、あまりにもやわらかな橙色をしていたから。まっすぐ家に帰るのが、少しもったいなく思えたのだ。

階段をのぼりきると、小さな空き地に出た。

町が一望できる場所だった。瓦屋根の波の向こうで、太陽がゆっくりと沈んでいく。空は上のほうから、藍、紫、桃色、そして燃えるような茜色へと、絵の具をにじませたように変わっていた。冷たくなりはじめた風が、枯れ草の匂いを運んでくる。

そこに、猫たちがいた。

最初に目に入ったのは、白い足先をした茶トラだった。コンクリートの低い塀の上で、前足をきちんとそろえて座っている。その隣には、灰色のサバトラ。少し離れた草むらには、黒と白のぶち猫が背中を丸めていた。

三匹とも、同じ方向を向いていた。

沈む夕日のほうを。

私はベンチに腰をおろし、鞄を膝に置いた。猫たちは、私に気づいたはずなのに、逃げなかった。ちらりとこちらを見て、すぐにまた夕日へ視線を戻す。まるで「ここは皆の場所だから、好きに座りなさい」と言われたようで、思わず小さく笑ってしまった。

影が、長かった。

夕日が低くなるにつれて、猫たちの影は地面を這うようにのびていく。小さな体からは想像もつかないほど長く、細く、石畳の上をすうっと走って、私の足もとにまで届いた。

茶トラの影は、ぴんと立った耳の形まで、はっきりしている。サバトラの影は、ゆらゆらと尻尾の先だけが揺れていた。ぶち猫の影は、草の間に溶けて、どこまでが猫でどこからが夕闇なのか分からない。

そして私の影も、その隣にあった。

猫たちの影と、私の影が、地面の上で並んでいる。

それだけのことなのに、胸の奥がふっとゆるんだ。

今日は、朝からうまくいかないことが続いていた。メールの返信に手間取り、会議では言葉が空回りして、昼食を食べそびれた。小さな疲れが、気づかないうちに肩の上に積もっていたのだと思う。

けれど、長い影たちを眺めていると、そんなものはどれも、夕暮れの空に薄く溶けていくような気がした。

やがて、サバトラが塀からひらりと降りた。

音もなく着地して、のびをひとつ。それから私のほうへ数歩近づいて、ベンチの脚のそばで立ち止まった。距離は、手をのばしても届かない、ちょうど半歩ぶん。

「触ってもいいよ」とも「触らないでね」とも言わない、絶妙な距離だった。

私は、手をのばさなかった。

代わりに、静かに呼吸をした。猫と同じ速さで、ゆっくりと。

野良猫というのは、不思議な生き物だと思う。誰にも飼われていないのに、誰よりも自分の居場所を知っている。明日のごはんの保証もないのに、夕日をこんなにも落ち着いて眺めている。

私はいつから、明日のことばかり考えて、今日の空を見なくなったのだろう。

太陽の縁が、ゆっくりと屋根の向こうに触れた。

空の茜色が、いちばん深くなる。

遠くの商店街から、豆腐屋のラッパの音が、細く聞こえてきた。どこかの家の窓から、夕飯の湯気の匂いがただよう。自転車のベルが一度鳴って、子どもの笑い声が坂道を下っていく。

町のすべてが、一日の終わりを、やさしく受け入れているようだった。

茶トラが、あくびをした。

大きく口を開けて、目を細めて、それからゆっくりと丸くなる。ぶち猫もいつのまにかサバトラの隣に寄り添って、三匹は、ひとつのあたたかな塊みたいになった。

影はまだ、のびていた。

けれど夕日が沈みきるにつれて、少しずつ、少しずつ、薄くなっていく。長い影が空と地面の境にほどけて、夜の色に混ざっていく。

最後の光が消えたとき、空には一番星が出ていた。

私はベンチから立ちあがった。猫たちは、もう私を見なかった。けれどそれが、不思議と寂しくなかった。きっと彼らにとって私は、夕日を一緒に見た、ただの通りすがりの誰かなのだ。

それでいい、と思った。

階段をおりながら、一度だけ振り返った。薄闇の中で、塀の上に小さな三つの影が、寄り添って並んでいた。

秋の夕暮れは、短い。

けれど、その短さの中に、一日分のやさしさが、ぎゅっと詰まっている。

帰り道、ポケットの中の手が、朝よりも少しだけ、あたたかかった。

夕焼けも、猫たちの長い影も、明日にはもう同じ形では会えません。だからこそ、ふと見上げた空の色を、今日だけの宝物としてそっとしまっておきたいと思うのです。

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