商店街のはずれに、古い石の階段がある。
十月の終わりに近いその日、私は仕事帰りに、いつもと違う道を選んだ。理由は特にない。ただ、駅を出たときの空が、あまりにもやわらかな橙色をしていたから。まっすぐ家に帰るのが、少しもったいなく思えたのだ。
階段をのぼりきると、小さな空き地に出た。
町が一望できる場所だった。瓦屋根の波の向こうで、太陽がゆっくりと沈んでいく。空は上のほうから、藍、紫、桃色、そして燃えるような茜色へと、絵の具をにじませたように変わっていた。冷たくなりはじめた風が、枯れ草の匂いを運んでくる。
そこに、猫たちがいた。
最初に目に入ったのは、白い足先をした茶トラだった。コンクリートの低い塀の上で、前足をきちんとそろえて座っている。その隣には、灰色のサバトラ。少し離れた草むらには、黒と白のぶち猫が背中を丸めていた。
三匹とも、同じ方向を向いていた。
沈む夕日のほうを。
私はベンチに腰をおろし、鞄を膝に置いた。猫たちは、私に気づいたはずなのに、逃げなかった。ちらりとこちらを見て、すぐにまた夕日へ視線を戻す。まるで「ここは皆の場所だから、好きに座りなさい」と言われたようで、思わず小さく笑ってしまった。
影が、長かった。
夕日が低くなるにつれて、猫たちの影は地面を這うようにのびていく。小さな体からは想像もつかないほど長く、細く、石畳の上をすうっと走って、私の足もとにまで届いた。
茶トラの影は、ぴんと立った耳の形まで、はっきりしている。サバトラの影は、ゆらゆらと尻尾の先だけが揺れていた。ぶち猫の影は、草の間に溶けて、どこまでが猫でどこからが夕闇なのか分からない。
そして私の影も、その隣にあった。
猫たちの影と、私の影が、地面の上で並んでいる。
それだけのことなのに、胸の奥がふっとゆるんだ。
今日は、朝からうまくいかないことが続いていた。メールの返信に手間取り、会議では言葉が空回りして、昼食を食べそびれた。小さな疲れが、気づかないうちに肩の上に積もっていたのだと思う。
けれど、長い影たちを眺めていると、そんなものはどれも、夕暮れの空に薄く溶けていくような気がした。
やがて、サバトラが塀からひらりと降りた。
音もなく着地して、のびをひとつ。それから私のほうへ数歩近づいて、ベンチの脚のそばで立ち止まった。距離は、手をのばしても届かない、ちょうど半歩ぶん。
「触ってもいいよ」とも「触らないでね」とも言わない、絶妙な距離だった。
私は、手をのばさなかった。
代わりに、静かに呼吸をした。猫と同じ速さで、ゆっくりと。
野良猫というのは、不思議な生き物だと思う。誰にも飼われていないのに、誰よりも自分の居場所を知っている。明日のごはんの保証もないのに、夕日をこんなにも落ち着いて眺めている。
私はいつから、明日のことばかり考えて、今日の空を見なくなったのだろう。
太陽の縁が、ゆっくりと屋根の向こうに触れた。
空の茜色が、いちばん深くなる。
遠くの商店街から、豆腐屋のラッパの音が、細く聞こえてきた。どこかの家の窓から、夕飯の湯気の匂いがただよう。自転車のベルが一度鳴って、子どもの笑い声が坂道を下っていく。
町のすべてが、一日の終わりを、やさしく受け入れているようだった。
茶トラが、あくびをした。
大きく口を開けて、目を細めて、それからゆっくりと丸くなる。ぶち猫もいつのまにかサバトラの隣に寄り添って、三匹は、ひとつのあたたかな塊みたいになった。
影はまだ、のびていた。
けれど夕日が沈みきるにつれて、少しずつ、少しずつ、薄くなっていく。長い影が空と地面の境にほどけて、夜の色に混ざっていく。
最後の光が消えたとき、空には一番星が出ていた。
私はベンチから立ちあがった。猫たちは、もう私を見なかった。けれどそれが、不思議と寂しくなかった。きっと彼らにとって私は、夕日を一緒に見た、ただの通りすがりの誰かなのだ。
それでいい、と思った。
階段をおりながら、一度だけ振り返った。薄闇の中で、塀の上に小さな三つの影が、寄り添って並んでいた。
秋の夕暮れは、短い。
けれど、その短さの中に、一日分のやさしさが、ぎゅっと詰まっている。
帰り道、ポケットの中の手が、朝よりも少しだけ、あたたかかった。
夕焼けも、猫たちの長い影も、明日にはもう同じ形では会えません。だからこそ、ふと見上げた空の色を、今日だけの宝物としてそっとしまっておきたいと思うのです。
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