朝の六時を少し過ぎたころ、町はまだ眠たそうに目をこすっていた。
家の裏手から延びる小道は、舗装もされていない細い土の道だ。両脇には背の低い草が並び、その先端に昨夜の露がひとつずつ残っている。歩くたびに、靴の裏でしっとりとした土が小さく鳴った。
空気は、少し冷たい。けれど、その冷たさが嫌ではなかった。肺の奥まですうっと入ってきて、夜のあいだに溜まっていたものを静かに押し出してくれるような、そんな朝の空気だった。
小道の途中に、古い石の塀がある。苔がまだらに張りつき、ところどころ角が丸くなっている。いつからそこにあるのか、誰に聞いても「さあ、ずっと前からやろ」と笑うだけだ。
その塀の上に、あの子はいた。
メインクーン。大きな体に、たっぷりとした長い毛。背中は灰色と茶色の縞がゆるやかに混ざり合い、首のまわりの毛は、まるで小さな襟巻きを巻いているみたいにふくらんでいる。耳の先には、ちょんと筆で描いたような毛束がのぞいていた。
まだ、動かない。塀の上で前足をそろえて、じっと東の空を見ている。
私も足を止めた。
山の稜線の向こうが、ゆっくりと白んでいく。灰色だった空に、薄い金色が一筋にじんで、それが少しずつ幅を広げていく。雲の縁が、ふちどられたように光りはじめた。
やがて、最初の日差しが、小道の端から端までをすべるように渡ってきた。
草の露が、いっせいにきらめいた。
ひとつひとつが小さな灯りになって、道ぞいに並ぶ。足もとから遠くまで、光の粒が続いている。思わず息を止めてしまうほど、静かで、まぶしい景色だった。
そのとき、塀の上のメインクーンが、ゆっくりと立ち上がった。
日差しがちょうど、その背中に届いたところだった。長い毛の一本一本が、金色の縁取りをまとって、ふわりと光る。猫は前足を前へ前へと滑らせ、お尻を高く持ち上げ、背中をしなやかに反らせた。
のびをしているのだ。
ぐうっと、ぐうっと。体の端から端まで、朝の光を余すことなく受け取るように、時間をかけて伸びていく。尻尾の先までぴんと張りつめて、ふるっと小さく震えた。
そして、大きなあくび。
ピンク色の舌がちらりと見えて、牙がのぞいて、それからゆっくり口が閉じる。目を細めて、満足そうに、ふうと鼻から息を抜いた。
その一連の動きがあまりにのびやかで、私はつい、自分の肩まで持ち上げて、一緒にのびをしてしまった。
腕を上げると、背中のほうで、ぽきりと小さな音がした。
猫がこちらを見た。
琥珀色の、まるい目だった。驚くでもなく、警戒するでもなく、「ああ、おはよう」とでも言うように、ゆっくりと一度だけまばたきをする。
私も、ゆっくりまばたきを返した。
猫と同じ速さで目を閉じて、同じ速さで開く。それだけのことなのに、胸のあたりがふっとゆるんで、あたたかいものが広がっていくのが分かった。
昨日までの私は、朝が少し苦手だった。
やらなければいけないことを数えているうちに、一日がはじまる前から疲れてしまう。そんな朝が、ずいぶん続いていた。
けれど、この小道に立っていると、数えるものが何もなくなる。ただ、光があって、露があって、塀の上に猫がいる。それだけで、朝はもう十分に満ちていた。
メインクーンは塀からひょいと降りて、小道の真ん中へ歩き出した。
大きな体のわりに、足音はほとんどしない。ふさふさの尻尾を高く掲げて、日なたの帯の中をゆうゆうと進んでいく。光を踏むたびに、毛並みが金色に波打った。
私は少し離れて、そのうしろをついていった。
小道の先には、小さな祠がある。朝いちばんの日差しがそこに届くころ、猫は決まって、祠の前の平らな石の上に腰を下ろす。そこが、あの子の特等席なのだろう。
案の定、猫は石の上でくるりと一回りして、ぺたりと座った。
そして、目を閉じた。
日差しを浴びて、ほんのり暖まった毛の香りが、風にのって少しだけ届く。干したての布団みたいな、やさしい匂いがした。
遠くで、鳥が鳴きはじめる。最初はひとつ、それからふたつ、みっつ。小道の両側の草むらが、ざわざわと目を覚ましていく。町のほうからは、どこかの家の雨戸を開ける音が聞こえた。
朝が、ほんとうにはじまったのだ。
私は祠の前で、猫のとなりに少しだけ距離をおいて立ち、同じ方向を向いた。山の向こうから、太陽が顔を出しきるところだった。
まぶしくて、目を細める。
すると、となりの猫も、同じように目を細めていた。
何も言わず、何も求めず、ただ同じ光のなかに並んでいる。それだけの時間が、どうしてこんなにも心をほどいてくれるのだろう。
しばらくして、私は静かに「ありがとう」とつぶやいた。
猫は目を閉じたまま、耳だけをぴくりと動かした。
帰り道、小道の露はもうずいぶん乾いていた。光の粒は消えてしまったけれど、不思議と、さっきより足取りは軽かった。
振り返ると、石の上の猫は、日なたのなかでまた大きくのびをしていた。
朝の小道は、今日もやさしい。
そして私は、明日もまたここへ来ようと思った。
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