秋の午後、町のはずれの野原へ続く細い道を歩いていました。
風はやわらかく、空は高く澄んでいて、足もとの草からは乾いた土と日なたの匂いがします。ススキの穂が銀色に揺れる中で、ふと視線が止まりました。草の間に、小さな赤い点がぽつぽつと、まるで誰かが糸の先に灯りをともしたように浮かんでいたのです。
吾亦紅でした。
細く長い茎の先に、小豆ほどの暗い赤の花穂がちょこんと乗っています。花びらはなく、小さな粒がぎゅっと集まっただけの控えめな姿です。それでも、広い野原の中でその赤だけが、静かに、けれどはっきりと秋を主張していました。
しゃがみこんで、そっと指先で花穂に触れてみます。風が吹くたびに、吾亦紅はおじぎをするように揺れました。
そのときです。
少し先の草むらで、何かが動きました。
黒い猫でした。
夜をひとさじ溶かしたような真っ黒な毛並みに、金色の目。猫は野原のまんなかで、ぴたりと足を止めていました。何かを探しているのか、それとも風の音を聞いているのか。ぴんと立てた耳だけが、ときどき小さく動きます。
私は息をひそめて、その様子を眺めていました。
黒猫の目の前には、一本の吾亦紅が立っていました。猫はじっとその赤い花穂を見つめています。鼻先をそっと近づけて、においを確かめるように、ほんの少しだけ顔を傾けました。
吾亦紅が揺れます。猫の髭も揺れます。
野原を渡る風が、ふたつの小さなものを同じようにくすぐっていきました。
どれくらいの時間が過ぎたのでしょう。五分だったのか、もう少し長かったのか。時計を見ればわかることなのに、そのときの私はなぜか確かめたくありませんでした。
ふだんの私は、いつも何かに追われています。次の予定、返さなければいけない連絡、終わっていない用事。頭の中はいつも少しだけ急ぎ足で、立ち止まることが下手になっていました。
けれど、この野原では誰も急いでいません。
吾亦紅は、ただ風に揺れています。黒猫は、ただ立ち止まっています。立ち止まることに理由なんていらないのだと、その背中が教えてくれているようでした。
やがて、黒猫がゆっくりと振り返りました。
金色の目と、私の目が合います。
逃げるでもなく、近づくでもなく、猫は少しのあいだ私を見つめていました。それから、ふいっと興味を失ったように前を向き、尻尾をひとふりして、草のあいだへ歩き出していきました。
ススキの穂が揺れて、黒い背中が見えなくなります。
あとに残ったのは、風と、吾亦紅と、私だけでした。
もう一度しゃがんで、小さな赤い花穂を見つめます。
派手な花ではありません。写真映えするような大輪でも、遠くから人を呼ぶような香りがあるわけでもありません。それでも、気づいた人にだけそっと秋を手渡してくれる、そんな花なのだと思いました。
夕方が近づいて、野原の色が少しずつ金色に傾いていきます。吾亦紅の赤も、光を受けて深みを増していました。
帰り道、何度か振り返りました。
あの黒猫はもう見えません。それでも、草の揺れる音のなかに、まだどこかで立ち止まっているような気がしました。
忙しい毎日のなかで、ときどき思い出したいと思います。
小さな赤い花穂と、野原で立ち止まっていた黒猫のことを。
そして、立ち止まることは、決して遅れることではないのだということを。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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