山の空気は、麓よりも半歩だけ先に冬を知っているらしい。
バスを降りた途端、頬に触れた風がひんやりとしていた。ここから山寺の入口までは、細い道をしばらく歩く。道の両側では、紅葉が赤や橙や、ところどころ黄金色に染まっていて、空を見上げると、葉と葉のあいだから秋の光がこぼれていた。
足もとには、昨夜の雨を吸った落ち葉が重なっている。踏むと、さく、さく、と小さな音がした。急ぐ理由はどこにもなかったので、私はその音を数えるように、ゆっくり歩いた。
やがて、山門の脇に、古い石段が現れた。
苔むした石段だった。
何百年も、誰かの足を受け止めてきたのだろう。一段一段が、まんなかだけ少し丸くへこんでいる。そのへこみを縁取るように、深い緑の苔がびっしりと広がり、そこへ紅葉が一枚、また一枚と降りていた。緑の上の赤は、絵の具で置いたみたいに鮮やかなのに、不思議と目に優しい。
私は石段の下で、しばらく立ち止まった。
静かだった。
鳥の声が遠くで一度だけ鳴いて、あとは、風が枝を揺らす音と、どこかで水の滴る音だけ。耳が、普段どれだけ余計な音を拾い続けているのかを、思い知らされるような静けさだった。
そのときだった。
石段の中ほど、いちばん苔の厚いあたりに、小さな黒い影が座っているのに気づいた。
黒猫だった。
艶のある毛並みが、木漏れ日を受けて、ところどころ青く光っている。金色の目が、まっすぐこちらを見ていた。逃げる様子はない。かといって、近づいてくるわけでもない。ただ、そこにいて、私が来るのを待っていたような顔をしていた。
「こんにちは」
小さな声で言ってみた。
黒猫は、まばたきをひとつした。ゆっくりと、長いまばたきだった。猫がそうするのは、安心している印だと、どこかで聞いたことがある。
私は、ひと段、石段を上がった。
猫は動かない。
もうひと段、上がった。
猫は、喉の奥で、ごろ、と小さく鳴いた。
苔の上に降りた紅葉が、風に揺れて、猫の背中にひらりと乗った。猫はそれを気にもせず、尻尾の先だけをぱたん、と動かす。その仕草があまりにも堂々としていて、私は思わず笑ってしまった。この石段の主は、きっとこの子なのだ。私は、お邪魔している客にすぎない。
石段に、そっと腰を下ろした。
苔はしっとりと湿っていて、少し冷たかった。それでも、座ってみると、石の底のほうに、昼間の光のぬくもりがほんのり残っているのがわかった。
隣に、黒猫が寄ってきた。
触れるか触れないかの距離。毛先から、ほのかに日向の匂いがした。
ふたりで、同じ方向を見ていた。
石段の上には、山寺の本堂の屋根が、紅葉の向こうにわずかに見える。瓦の上にも、赤い葉が積もっていた。どこかで、鐘の余韻のような、低い音がかすかに響いた気がしたけれど、それは風の音だったのかもしれない。
ここへ来る前の私は、頭のなかがずっと、落ち着かなかった。やらなければならないことが、順番待ちの列をつくって、胸のあたりでざわざわしていた。
でも、いつのまにか、そのざわめきは、紅葉の落ちる音に混じって、遠くへ流れていった。
ひとひらの葉が、猫の鼻先に降りた。
猫がくしゃみをして、私はまた笑った。
笑ったあとの静けさは、来たときよりも、少しだけやわらかかった。
陽が傾いて、山の影が石段に伸びはじめるころ、私はゆっくり立ち上がった。
「そろそろ行くね」
黒猫は、見送るでもなく、引き止めるでもなく、さっきと同じ場所で丸くなった。苔の緑と、紅葉の赤と、黒い毛並み。その三つの色が重なった景色を、私はもう一度だけ振り返って、目に焼きつけた。
石段を下りきったところで、風がひとつ吹いた。
紅葉が、さらさらと降った。
その音は、さっきよりも、少しだけ優しく聞こえた。
山寺の秋は、何も語らない。ただ、苔むした石段と、散りゆく紅葉と、そこに座る一匹の黒猫が、「急がなくていいよ」と、黙って教えてくれる。
そんな午後を、また胸の奥にそっとしまって、私は帰りのバスへと歩き出した。
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