2026年10月20日火曜日

癒される秋の紅葉の山寺と苔むした石段と黒猫

癒される秋の紅葉の山寺と苔むした石段と黒猫

 山の空気は、麓よりも半歩だけ先に冬を知っているらしい。

バスを降りた途端、頬に触れた風がひんやりとしていた。ここから山寺の入口までは、細い道をしばらく歩く。道の両側では、紅葉が赤や橙や、ところどころ黄金色に染まっていて、空を見上げると、葉と葉のあいだから秋の光がこぼれていた。

足もとには、昨夜の雨を吸った落ち葉が重なっている。踏むと、さく、さく、と小さな音がした。急ぐ理由はどこにもなかったので、私はその音を数えるように、ゆっくり歩いた。

やがて、山門の脇に、古い石段が現れた。

苔むした石段だった。

何百年も、誰かの足を受け止めてきたのだろう。一段一段が、まんなかだけ少し丸くへこんでいる。そのへこみを縁取るように、深い緑の苔がびっしりと広がり、そこへ紅葉が一枚、また一枚と降りていた。緑の上の赤は、絵の具で置いたみたいに鮮やかなのに、不思議と目に優しい。

私は石段の下で、しばらく立ち止まった。

静かだった。

鳥の声が遠くで一度だけ鳴いて、あとは、風が枝を揺らす音と、どこかで水の滴る音だけ。耳が、普段どれだけ余計な音を拾い続けているのかを、思い知らされるような静けさだった。

そのときだった。

石段の中ほど、いちばん苔の厚いあたりに、小さな黒い影が座っているのに気づいた。

黒猫だった。

艶のある毛並みが、木漏れ日を受けて、ところどころ青く光っている。金色の目が、まっすぐこちらを見ていた。逃げる様子はない。かといって、近づいてくるわけでもない。ただ、そこにいて、私が来るのを待っていたような顔をしていた。

「こんにちは」

小さな声で言ってみた。

黒猫は、まばたきをひとつした。ゆっくりと、長いまばたきだった。猫がそうするのは、安心している印だと、どこかで聞いたことがある。

私は、ひと段、石段を上がった。

猫は動かない。

もうひと段、上がった。

猫は、喉の奥で、ごろ、と小さく鳴いた。

苔の上に降りた紅葉が、風に揺れて、猫の背中にひらりと乗った。猫はそれを気にもせず、尻尾の先だけをぱたん、と動かす。その仕草があまりにも堂々としていて、私は思わず笑ってしまった。この石段の主は、きっとこの子なのだ。私は、お邪魔している客にすぎない。

石段に、そっと腰を下ろした。

苔はしっとりと湿っていて、少し冷たかった。それでも、座ってみると、石の底のほうに、昼間の光のぬくもりがほんのり残っているのがわかった。

隣に、黒猫が寄ってきた。

触れるか触れないかの距離。毛先から、ほのかに日向の匂いがした。

ふたりで、同じ方向を見ていた。

石段の上には、山寺の本堂の屋根が、紅葉の向こうにわずかに見える。瓦の上にも、赤い葉が積もっていた。どこかで、鐘の余韻のような、低い音がかすかに響いた気がしたけれど、それは風の音だったのかもしれない。

ここへ来る前の私は、頭のなかがずっと、落ち着かなかった。やらなければならないことが、順番待ちの列をつくって、胸のあたりでざわざわしていた。

でも、いつのまにか、そのざわめきは、紅葉の落ちる音に混じって、遠くへ流れていった。

ひとひらの葉が、猫の鼻先に降りた。

猫がくしゃみをして、私はまた笑った。

笑ったあとの静けさは、来たときよりも、少しだけやわらかかった。

陽が傾いて、山の影が石段に伸びはじめるころ、私はゆっくり立ち上がった。

「そろそろ行くね」

黒猫は、見送るでもなく、引き止めるでもなく、さっきと同じ場所で丸くなった。苔の緑と、紅葉の赤と、黒い毛並み。その三つの色が重なった景色を、私はもう一度だけ振り返って、目に焼きつけた。

石段を下りきったところで、風がひとつ吹いた。

紅葉が、さらさらと降った。

その音は、さっきよりも、少しだけ優しく聞こえた。

山寺の秋は、何も語らない。ただ、苔むした石段と、散りゆく紅葉と、そこに座る一匹の黒猫が、「急がなくていいよ」と、黙って教えてくれる。

そんな午後を、また胸の奥にそっとしまって、私は帰りのバスへと歩き出した。

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