一 帰り道
駅を出ると、夜の空気がひやりと頬に触れた。
つい先週まで、帰り道の風にはまだ昼間の熱が少し残っていたのに、今夜はもう違う。肩のあたりに、季節がひとつ進んだ冷たさがある。
商店街の灯りがひとつ、またひとつと後ろへ遠ざかっていく。シャッターの下りた八百屋の前を通り、自動販売機の青白い光を横目に過ぎて、住宅街へ続く細い道に入った。
そのときだった。
ふわり、と甘い匂いが鼻先をかすめた。
足が自然に止まった。顔を上げても、暗がりの中に花の姿は見えない。ただ、どこかの庭の向こうから、淡い橙色の気配だけが夜の空気に溶けて流れてくる。
金木犀だ。
盛りはもう過ぎている。ひと雨ごとに小さな花は落ちて、道の端にはオレンジ色の粒が散っていた。それでも匂いだけは、最後のひと息みたいに、夜の底にやさしく残っている。
深く吸い込むと、胸の奥でかたく結ばれていたものが、少しだけほどけた気がした。
二 残り香という贈り物
今日は、なんだか長い一日だった。
大きな失敗をしたわけではない。ただ、細かな「ちょっとした疲れ」が、一日じゅう静かに積もっていった。返しそびれたメッセージ。うまく言葉にできなかった会議での一言。画面を見つめすぎて重くなった目の奥。
そういうものが肩にのって、歩くたびにほんの少しずつ、ずしりと響いていた。
でも、金木犀の残り香の中に立っていると、その重さがふっとやわらぐ。
不思議なものだ。花が咲いているあいだは、誰もが気づいて、うれしそうに立ち止まる。「いい匂いだね」と言い合って、スマートフォンを向ける人もいる。
けれど、花が終わりかけたあとの匂いに気づく人は、きっとそう多くない。
盛りを過ぎたものが、それでも静かに差し出してくれるやさしさ。派手ではないけれど、疲れた夜にはちょうどいい。
ゆっくり息を吐いて、また歩き出した。
三 角を曲がると
家まであと少し。最後の角を曲がると、小さな門灯のあかりが見えてくる。
そして、そのあかりの下に、あの子がいる。
玄関先の、石でできた低い段。そこにちょこんと座って、背筋を伸ばして、じっとこちらを見ている三毛猫。
白と茶と黒がまだら模様に混ざった毛並みが、門灯に照らされてやわらかく光っていた。
わたしの足音に気づいたのだろう。猫は耳をぴくりと動かすと、「にゃ」とも「みゃ」ともつかない、短い声を出した。
おかえり、と言ってくれたのだと思う。たぶん。
「ただいま。待っててくれたの?」
そう声をかけると、猫は立ち上がって、しっぽをゆらりと高く持ち上げた。その先が、小さなクエスチョンマークのようにくるんと曲がっている。
寒くなかったのだろうか。いつからここにいたのだろう。
そんなことを考えながら近づくと、猫はわたしの足首にするりと体をすり寄せてきた。
あたたかい。
毛並みの奥に、一日分の日なたの記憶みたいなぬくもりが残っている。
四 ふたつの香り
しゃがみこんで、そっと背中をなでた。
猫は目を細めて、のどをごろごろと鳴らし始める。その音が、夜の静けさの中に、やさしく響いた。
ふと気づいた。
猫の毛並みから、ほんのりと金木犀の香りがする。
きっと庭先の、あの花の下をくぐってきたのだろう。小さな花粒が、毛の先にいくつかくっついていた。わたしはそれを、指先でそっと取ってあげた。
橙色の、米粒みたいな小さな花。
手のひらにのせると、夜の中で、そこだけぽっと灯りがともったように見えた。
金木犀の残り香と、猫のぬくもり。
どちらも、派手な贈り物ではない。けれど、一日の終わりに、これ以上のものがあるだろうか。
五 玄関の扉をひらく
鍵を取り出して、扉に差し込む。かちゃり、と小さな音がした。
猫は当然のような顔をして、わたしより先に玄関へすべりこんでいく。
「ちょっと、お先にどうぞって言ってないんだけど」
笑いながらそう言うと、猫は振り返って、まるでこう返すみたいに瞬きをした。
――遅かったじゃない。
靴を脱いで、明かりをつける。台所でやかんに水を入れて、火にかける。猫はもう、お気に入りのクッションの上で丸くなっていた。
窓を少しだけ開けると、遠くから、金木犀の匂いがかすかに届いた。
湯気がのぼる。お茶のやさしい香りと、夜風にまじる花の残り香が、部屋のなかで静かに混ざりあう。
猫のごろごろという音が、小さな波のように、ずっと続いている。
六 夜がふけていく
湯のみを両手で包みながら、わたしは思った。
季節はこうして、毎年ちゃんとめぐってくる。花は咲いて、散って、それでも香りだけは少しのあいだ残っていく。
そして、帰る場所には、待っていてくれる誰かがいる。
それだけで、一日のどんな疲れも、そっと報われてしまう。
猫がうすく目をひらいて、わたしを見た。三色の毛並みが、あかりの中でやわらかく息をしている。
「おやすみ」
小さくつぶやくと、猫は満足そうにもう一度目を閉じた。
窓の外では、秋の夜がしずかに深まっていく。金木犀の最後の香りが、月のない空へ、ゆっくり溶けていった。
金木犀の香りに気づく夜は、きっと、少しだけ心に余裕がある夜です。もしこの秋、帰り道でふっとあの匂いに出会えたなら、足を止めて、深く息を吸ってみてください。待っていてくれる誰かの顔も、そっと思い浮かぶかもしれません。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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