縁側の戸を少しだけ開けると、秋の夕方の匂いがすっと入ってきた。
乾いた土と、どこかの家の焚き火のかすかな煙。そして、庭の隅から届く、澄んだ草の香り。
庭の奥には、紫苑が咲いている。人の背丈を少し超えるほどの高さに、細い茎をすうっと伸ばして、淡い紫の小さな花を空いっぱいに散らしている。夏の花たちが静かに退場したあとの庭で、この花だけが、秋の舞台に立つ順番を待っていたみたいに見えた。
「ミルク、おいで」
呼ぶと、縁の下の日だまりから、短い脚がちょこちょこと現れた。マンチカンのミルクだ。胴体は長くて、脚は短い。歩くたびに、小さな足音がぽてぽてと縁側の板を鳴らす。
ミルクは僕の横を通りすぎて、庭へ降りた。
夕暮れの光は、もう昼の白さを手放していた。西の空が柔らかな橙色に溶けて、その色が庭の隅々まで薄く塗り広げられている。紫苑の花びらは、その光を受けて、紫というより、ほんのり桃色を含んだ不思議な色に染まっていた。
ミルクは紫苑の根もとで立ち止まり、ゆっくりと顔を上げた。
見上げる先には、風に揺れる花の群れがある。ミルクの目には、あれはきっと巨大な森みたいに見えているのだろう。短い脚で見上げる世界は、僕が知っているものとは、少し違う景色のはずだ。
ふわり、と風が吹いた。
紫苑の茎がいっせいにしなって、花がさわさわと音を立てた。ミルクは耳をぴくりと動かし、目を細める。それから、何かに納得したように、ぺたん、と土の上に座りこんだ。
そのまま、前足をそろえて、丸い背中を夕日に向ける。
しっぽが、一度だけ、ゆっくり左右に揺れた。
僕は縁側に腰をおろして、湯のみを両手で包んだ。熱いお茶の湯気が、夕方の空気にほどけていく。
何もしない時間というのは、案外むずかしい。
いつもの僕なら、手のひらの小さな画面をのぞきこんで、誰かの言葉や、流れていくニュースを追いかけているところだ。けれど今日は、不思議とそんな気にならなかった。目の前で、猫が座っていて、花が揺れていて、空の色が少しずつ変わっていく。それだけで、一日分の景色としては、もう十分すぎるくらいだった。
ミルクが、ふとこちらを振り向いた。
琥珀色の目が、夕日を映してきらりと光る。何か言いたそうに、小さく「ん」と鳴いた。
「どうした? きれいやな、って?」
返事の代わりに、ミルクはもう一度ゆっくりまばたきをした。猫のゆっくりしたまばたきは、安心している証拠だと、どこかで聞いたことがある。僕もまねをして、ゆっくりとまばたきを返した。
それだけのやりとりなのに、胸の奥のほうが、じんわり温かくなる。
空の橙は、やがて薄紫へと移りはじめた。紫苑の花の色と、空の色が、ほとんど同じになる。庭全体が、ひとつの淡い紫の中に沈んでいくようだった。
遠くで、どこかの家の夕飯の支度の音がする。包丁の音、水の音、窓の開く音。町じゅうが、一日の終わりにむけて、少しずつ息を整えている。
ミルクは、いつのまにか身体を丸めていた。
短い脚をきゅっとたたんで、鼻先をしっぽの付け根にうずめて、小さな丸いかたまりになっている。背中が、呼吸にあわせて、ゆっくり上下していた。
紫苑の影が、そのうえに長く伸びる。花の影が、猫の背中で、やさしく揺れる。
僕は、湯のみを置いた。
こういう景色を、ずっと覚えていられたらいいのに、と思う。写真に撮ることはできても、このときの空気までは、持ち帰れない。夕方の匂いも、花の揺れる音も、ミルクの小さな寝息も。
だから僕は、ただ見ていることにした。
まばたきの回数さえ惜しいような気持ちで、庭と、花と、猫を、目の奥にゆっくり焼きつけていく。
やがて、一番星が空にあらわれた。
紫苑の花のすき間から、小さな白い光が、ひとつだけのぞいている。
ミルクが、眠ったまま、ふにゃ、と小さく鳴いた。夢の中でも、この庭にいるのかもしれない。
「また明日も、ここでくつろごうな」
そうささやくと、しっぽの先が、ほんの少しだけ動いた。
秋の夕暮れは、短い。
けれど、その短さの中に、一日でいちばんやさしい時間が、ちゃんと詰まっている。背の高い花の下で、まるくなる猫。それを眺めながら、冷めかけたお茶をすする、僕。
そんな何でもない夕方が、いちばん贅沢なのかもしれない。
紫苑は、今日も静かに揺れている。
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