雨は、朝からずっと降っていた。
傘を打つ音が、いつもより少しだけやさしく聞こえる。十月の雨は、夏の通り雨とは違って、急ぐ様子がない。街道から一本入った細い路地を、私は濡れた落ち葉を踏みながらゆっくり歩いていた。
どこへ行くあてがあったわけではない。ただ、休日の予定を埋めなければいけない気がして、家にいると落ち着かなかっただけだ。
路地の突き当たりに、その家はあった。
黒ずんだ木の格子戸、軒先に吊るされた小さな行灯、苔むした石畳。ひさしの下に、手書きの木札がひとつ、ぽつんとかかっている。
「珈琲 ひとやすみ」
古民家を改装したカフェらしい。戸に手をかけると、からりと乾いた音がして、中から珈琲豆を焙煎する香ばしい匂いが流れてきた。
「いらっしゃいませ。濡れませんでしたか」
奥から出てきた女主人は、白髪をゆるく結んだ穏やかな人だった。タオルを一枚差し出してくれる。その気づかいだけで、肩にこもっていた力がふっと抜けた。
通されたのは、縁側に面した座敷の席だった。
ガラス戸の向こうに小さな庭がある。濡れた石灯籠、雨粒を受けて揺れる紅葉、苔の上を転がっていく水玉。雨の日でなければ見られない景色が、額縁に収まったように広がっていた。
柱時計が、ゆっくりと時を刻んでいる。
ほかの客はいない。聞こえるのは雨の音と、湯が沸く小さな音だけ。
ふと、足元に何かがふれた。
見ると、一匹の黒猫が私の足首に頬をすり寄せていた。艶のある毛並みに、琥珀色の丸い目。しっぽの先だけが、少しだけ曲がっている。
「この子ね、雨の日になると必ず誰かのそばに行くんですよ」
女主人が珈琲を運びながら、笑って言った。
「名前は、くろ。そのまんまでしょう」
くろは私の顔をじっと見上げたあと、当然のような顔で座布団の隣に丸くなった。招かれたのは私のほうなのに、迎え入れてもらったのは、あの猫のほうだったのかもしれない。
運ばれてきた珈琲は、深い茶色の湯気を立てていた。ひと口含むと、苦みの奥にやわらかな甘さがある。添えられた小さな焼き菓子は、栗の風味がした。
「秋ですねえ」
そう言って女主人は、また奥へ戻っていった。
私はカップを両手で包んだ。指先からじんわりと熱が伝わってくる。雨の日の冷えた体に、それがどれほどありがたいか、久しぶりに思い出した気がした。
いつからだろう。
予定がない時間を、「無駄」と呼ぶようになったのは。
何かをしていないと不安で、休みの日でさえ、役に立つことや意味のあることを探してしまう。けれどこの座敷には、意味のあるものなんて何ひとつない。ただ雨が降って、猫が眠っていて、珈琲が冷めていくだけだ。
それなのに、胸の中がこんなに静かだ。
くろが、小さく喉を鳴らし始めた。
ごろごろ、ごろごろ。
雨音と重なって、それは不思議な子守唄のように聞こえた。私は背中を柱にあずけ、縁側の向こうの庭を眺めた。紅葉の葉から、雫がひとつ落ちる。もうひとつ、落ちる。
どれくらいそうしていただろう。
気づくと、窓の外の雨が少しだけ細くなっていた。雲の切れ間から、うすい光が庭の苔を照らしている。濡れた葉の一枚一枚が、小さな灯りのように光っていた。
「また、雨の日にいらしてくださいね」
帰り際、女主人はそう言って、傘を持った私を戸口まで見送ってくれた。足元では、くろがしっぽを揺らしている。曲がった先が、ちょこんと左右に動いた。
路地を戻りながら、私は一度だけ振り返った。
行灯のやわらかな灯りの下、格子戸の隙間から、琥珀色の目がこちらを見ていた。
雨はまだ降っている。けれど来たときよりも、傘を打つ音はずっとやさしかった。
秋雨の日は、少しだけ立ち止まってもいいと、世界が許してくれる日なのかもしれない。
あなたにも、雨宿りのできる場所はありますか。
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もしまだ見つかっていないなら、次の雨の日、知らない路地をひとつ曲がってみてください。そこには、黒猫が待っているかもしれません。

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