午後三時を少し過ぎたころ、窓の向こうで空がゆっくりと色を落としていった。
最初のひと粒は、ベランダの手すりに小さく弾けた。続いて、ぽつ、ぽつ、と間をあけて落ちてくる。やがてそれは細い糸のように連なり、街じゅうの屋根や路面をやさしく撫でる音に変わった。
雨だ。
私は読みかけの本にしおりをはさみ、湯気の立つマグカップを両手で包んだ。ほうじ茶の香ばしさが、雨の匂いと混じり合って部屋に広がっていく。
「ミャ」
足もとから、短い声がした。
見下ろすと、マンチカンのモカが、いつもの短い脚をちょこんと揃えてこちらを見上げている。琥珀色の目は、まるで「ねえ、聞こえる?」とでも言いたげだった。
「うん、降ってきたね」
そう答えると、モカは満足そうにしっぽをひと振りして、窓辺へてとてとと歩いていった。
窓辺には、ひざ掛けを折りたたんだだけの、小さな特等席がある。モカはそこへ、ぴょん、と跳び乗ろうとして、いつものようにほんの少しだけ迷い、それから「えいっ」と体を持ち上げた。短い脚でも、気持ちだけはいつも全力だ。
ひざ掛けの上に収まると、モカはくるりと一度まわって、丸くなった。
窓ガラスを、雨粒が斜めに滑り落ちていく。ひとつ、またひとつ。小さな粒が途中で出会って、合わさって、少し大きくなって、また流れていく。モカの目は、その行方を一粒ずつ追っていた。耳がときどき、ぴくりと動く。
部屋の明かりは、あえて一つしかつけていない。暖色のスタンドライトがつくる、橙色の丸い光。その輪の中にいると、外の灰色の世界が、どこか遠い物語のように思えてくる。
雨音には、不思議な力があると思う。
大きな声で慰めてくれるわけでも、答えをくれるわけでもない。ただ、一定のリズムでそこにいてくれる。それだけで、胸の奥で絡まっていた小さな糸が、ひとつずつほどけていく。
今日の私は、少し疲れていた。大きな出来事があったわけではない。ただ、気づかないうちに肩に積もっていたものがあったのだと思う。それが、この雨音を聞いているうちに、静かに溶けていった。
私はソファに腰を下ろし、膝にブランケットをかけた。
しばらくすると、窓辺から小さな気配が近づいてきた。
とすん。
膝の上に、あたたかい重みが乗る。
「来たの?」
返事の代わりに、モカは喉の奥でごろごろと低い音を鳴らし始めた。雨音と、ごろごろと、マグカップから立ちのぼる湯気。三つの音と匂いが、部屋の中でゆるやかに重なっていく。
指先で、耳のうしろをそっと撫でる。モカは目を細めて、さらに深く丸くなった。やわらかな毛並みの下から、とくん、とくん、と小さな鼓動が伝わってくる。
この子は、今日も生きている。
私も、今日も生きている。
そんな当たり前のことが、雨の日のぬくもりの中では、ふしぎなほど尊いことに思えた。
外では、雨が少し強くなったようだった。遠くで傘をさした人が急ぎ足で通り過ぎていく。けれど、この部屋の中だけは、時間の流れ方が違う。急がなくていい。何かを成し遂げなくてもいい。ただ、ここにいればいい。
ふと、モカが顔を上げた。
窓の外を見て、もう一度、私を見る。
「ミャ」
それは「ありがとう」にも、「もう少しこのままで」にも聞こえた。もちろん本当のところは、猫にしか分からない。けれど私は、そのどちらでも嬉しかった。
「うん、もう少しこのままでいようね」
そう囁くと、モカは安心したように、ゆっくりと瞼を閉じた。
雨は降り続けている。
夕方が近づいて、窓の外の灰色が、少しずつ藍色に溶けていく。
やがて、部屋のスタンドライトの橙色だけが、世界でいちばん確かなものになった。
膝の上のぬくもりと、窓を打つやさしい音。
それだけで、今日という一日は、じゅうぶんに満ちている。
私はもう一度、マグカップを口もとへ運んだ。冷めかけたほうじ茶は、それでもやっぱり、やさしい味がした。
雨の日は、きらいじゃない。
こうして、あたたかい誰かと過ごせるなら。
あとがき
雨の日は、どこか出かけにくくて、気持ちも沈みがちになります。けれど、ほんの少し見方を変えるだけで、そこには「ゆっくりしていい日」という贈り物が隠れているのかもしれません。
温かい飲み物と、小さな灯りと、寄り添ってくれる誰か。それだけで、雨音は最高のBGMになってくれます。
次の雨の日は、窓辺に座って、ただ雨音に耳を澄ませてみませんか。
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