その谷には、秋のはじめにだけ道ができる。
バスを降りて、沢の音を頼りに細い小道を下っていく。杉の木立を抜けると、急に空が開けて、谷間いっぱいに青紫の花が揺れていた。カリガネソウだ。
花の形は、雁が羽を広げて飛んでいるようにも、小さな帆掛け舟が並んでいるようにも見える。名前の由来は、その姿からだという。谷を渡る風が吹くたび、舟の群れがいっせいに帆を傾けて、静かな海を進んでいくみたいだった。
私は適当な岩に腰をおろし、水筒の蓋をひらいた。湯気といっしょに、ほうじ茶の香ばしさが立ちのぼる。沢の水音。遠くで鳴く鵯の声。それだけで、胸の奥にたまっていたものが、少しずつ底のほうへ沈んでいくのがわかった。
そのときだった。
花のあいだから、ふわりと大きな影が現れた。
最初は、枯れ草の束が動いたのかと思った。けれどそれは、ゆったりと尻尾を持ち上げて、まっすぐこちらへ歩いてくる。銀色がかった茶トラの長い毛、耳の先にはちょんと立った飾り毛、そして肩のあたりに、獅子のような豊かなたてがみ。
メインクーンだった。
それも、とびきり立派な。
「……こんなところに、どうして」
思わずそう声をかけると、その猫は「くるる」と、見た目に似合わない小さな声で鳴いた。大きな体から出るには、あまりにも控えめで、あまりにもやさしい声だった。
猫は私の足もとまで来ると、ためらいもなく、どさりと腰をおろした。毛先にカリガネソウの花粉をうっすらとまとって、背中が青紫に霞んでいる。
そっと手を伸ばす。指先が毛の中に沈んでいく。思っていたよりずっとやわらかくて、秋の日差しをたっぷり吸いこんだ布団のような、あたたかい匂いがした。
猫は目を細めて、ごろごろと喉を鳴らした。その低い音は、沢の水音と重なって、谷のどこか深いところから響いてくる、ひとつの調べのようだった。
どれくらいそうしていただろう。
日がゆっくり傾いて、谷の斜面が金色に染まりはじめた。カリガネソウの青紫は、夕方の光を受けて、さっきよりも深く、静かな色になる。ひとつひとつの花が、小さな灯りをともしたみたいだった。
メインクーンは、いつのまにか私の膝の上に前足をかけて、遠くの稜線を眺めていた。大きな瞳に、茜色の空が映っている。
何を考えているのだろう。きっと、何も考えていないのだと思う。ただ、風を感じて、光を浴びて、そこにいる。それがこんなにも満ち足りたことだと、この猫は黙って教えてくれていた。
私はずっと、何かを急いでいた気がする。
次の予定、次の返事、次の目標。気づけば、足もとに咲く花の名前さえ、ゆっくり眺めたことがなかった。
でも今は、ここにいる。花の舟が揺れ、沢が歌い、膝の上には温かな毛のかたまりがある。
それだけで、十分だった。
やがて日が山の端に隠れ、谷に薄い青が降りてきた。猫はすっと立ち上がり、ひとつ大きく伸びをして、私の顔をじっと見た。それから、くるりと背を向けて、花の海の中へ歩き出す。
尻尾の先が、カリガネソウの帆のあいだに、ゆらゆらと見え隠れした。
私はその背中が見えなくなるまで、静かに見送った。
帰りのバスの時刻が近づいていた。立ち上がると、膝のあたりに、銀茶色の毛が数本ついている。払い落とそうとして、手が止まった。
もう少しだけ、このままでいよう。
谷を振り返ると、青紫の花々が、夕闇のなかでまだほのかに揺れていた。帆を立てた小さな舟たちが、静かな夜の海へ漕ぎ出していくように。
秋の谷間で出会った大きな猫は、きっと、あの花を守る谷の番人だったのだと思う。
そう思うと、帰り道の足取りは、不思議なほど軽かった。
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