峠のふもとに、古い石垣に沿ってゆるやかに曲がる小道がある。
九月の終わりの朝、わたしはその道を、あてもなく歩いていた。
空気はひんやりと澄んでいて、夏の名残りはもうどこにも見当たらない。かわりに、道の両側から細い枝がしなやかに伸びていた。萩だった。
赤紫の小さな花が、枝いっぱいに連なっている。風が通るたび、花はひとつ、またひとつと、ほどけるように地面へこぼれていった。道は薄紅色の花びらで、そっと縁取られていた。
足を止めると、音がなかった。
遠くで鳥が一声だけ鳴いて、それきり。枝の揺れる、かすかな衣ずれのような音だけが、耳の奥に残る。
そのとき、石垣の上で、なにかが動いた。
三毛猫だった。
白と茶と黒が、水彩絵の具をにじませたように混ざり合った、小柄な猫。石の上に座り、尾をくるりと足もとに巻いて、まっすぐこちらを見ている。琥珀色の目は、逃げるでも、近づくでもなく、ただ「いるね」と言っているようだった。
わたしも、声をかけなかった。
しばらくして、猫はふいと視線をそらし、石垣からひらりと降りた。着地の音は、ほとんどしなかった。
そして、歩き出した。
萩のトンネルの下を、ゆっくりと。
一歩ごとに、肉球が花びらを踏む。踏まれた花びらは少し沈んで、猫が通りすぎたあと、風に押されてまた浮かんだ。尻尾の先が、低く垂れた枝に触れる。そのたび、花がぱらぱらと降って、背中の斑模様に、薄紅色の点がいくつも散った。
猫は、気にするそぶりもない。
急ぐ理由なんて、最初からないのだ。
わたしは、少し離れて、その後ろを歩くことにした。
追いかけるのではなく、同じ道を、同じ速さで。
不思議なもので、猫の歩幅に合わせていると、自分の呼吸まで静かになっていく。胸の奥にずっと居座っていた「あれもこれも、やらなくちゃ」という声が、花びらの下に、ひとつずつ沈んでいくようだった。
道が曲がる。
曲がった先で、ふいに視界がひらけた。朝の光が斜めに差し込んで、萩の花が、内側から灯りをともしたように光っている。
猫は、その光の中で立ち止まり、ちらりと振り返った。
目が合った。
猫は、小さく、まばたきをした。ゆっくりと、一度だけ。
それが、あいさつだったのか、ただの癖だったのか、わたしにはわからない。けれど、胸のあたりが、ふわりとあたたかくなった。
やがて猫は、道の脇の生け垣のすき間へ、するりと消えていった。
あとには、萩の花と、静けさだけが残った。
わたしは、しばらくそこに立っていた。
足もとには、猫が歩いたあとの、見えない道がある気がした。
秋は、いつも少しだけ寂しい顔をしている。でも、こんなふうに、こぼれる花びらの下を、のんびり歩く背中を見かけると、その寂しさまで、やさしいものに思えてくる。
帰り道、わたしは歩幅をほんの少しだけ小さくした。
肩に、薄紅色の花びらがひとつ、乗っていた。
払わずに、そのまま歩いた。
季節が静かに通りすぎていく音を、今朝は、ちゃんと聞けた気がしたから。
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