夕方の五時を少し過ぎたころ、その部屋の窓は、いつもより少しだけ大きく見えた。
窓辺には、古い木のテーブルがひとつ。その上に、三毛猫が丸くなっている。名前はミケ。白と茶と黒がまだらに混ざった背中が、傾いた陽の光を受けて、やわらかく縁取られていた。
窓の外では、空がゆっくりと色を変えはじめている。
はじめは、熟した柿のような茜色だった。ビルの屋根の端を、ほんのり燃やすみたいに染めている。その上には、薄い桃色がにじみ、さらにその上へ、まだ昼の名残をとどめた淡い水色が、息をひそめるように残っていた。
ミケは片目だけを開けて、その空をちらりと見た。それから、また目を閉じた。見飽きているわけではないのだろう。毎日同じ時間に、同じ窓から、違う空を見ている。その贅沢を、猫はたぶん、いちばんよく知っている。
私は湯のみを両手で包んで、窓から少し離れた椅子に座っていた。お茶はもう、ぬるくなっている。けれど、飲み干してしまうのが惜しくて、ひとくち、またひとくちと、時間を引き延ばすように口に運んでいた。
部屋の電気は、つけていない。
つけなければ、夕暮れはずっと部屋の中まで入ってきてくれる。そんなことを、いつからか私は信じている。
茜色が、少しずつ深くなっていく。
橙は赤みを帯び、赤は紫へと溶け、紫のむこうから、青がにじみ出てくる。空の絵の具を誰かが水で伸ばしているみたいに、境目はどこにもない。どこまでが夕方で、どこからが夜なのか、指でなぞっても決して見つけられない。
ミケの耳が、ぴくりと動いた。
遠くで、踏切の音がしている。カン、カン、カン、と。それが止むと、どこかの家の台所から、味噌汁の匂いがかすかに流れてきた。一日の終わりの匂いだ。
ミケは前足をそろえて、ゆっくりと伸びをした。小さな爪が、テーブルの木目をほんの少しだけ引っかく。そして、体をまた丸め直すと、今度は長い尻尾を鼻の先に乗せて、深く、深く息をついた。
その息の音が、あまりに穏やかで、私まで肩の力が抜けてしまった。
思えば今日は、朝から少し急いでいた。返事をしなければならないメッセージ、終わらせたかった用事、頭の中でぐるぐる回っていた「ちゃんとしなきゃ」。そのどれもが、この窓の前では、不思議なくらい遠くにあった。
空は、もう茜色をほとんど手放していた。
地平線のあたりにだけ、燃えさしのような橙がひとすじ残っている。その上は、深い藍。さらにその上は、群青。高いところから順に、夜がそっと降りてくる。
一番星が、ひとつ。
ガラスの向こうで、針の先ほどの光が、静かに灯った。
ミケはもう、まどろみのいちばん深いところまで降りていったらしい。まぶたは重く閉じ、ひげがときどき小さく震える。夢の中で、何かを追いかけているのかもしれない。蝶か、あるいは、ずっと昔に見た光の粒か。
窓ガラスには、群青の空と、眠る猫と、湯のみを持った私の影が、うっすらと重なって映っていた。
部屋の中と外が、ひとつの絵になっている。
私は思う。
幸せというのは、きっと大きな出来事のことではないのだ。空の色が変わっていくのを、急がずに眺められること。そばで、誰かが安心して眠っていること。ぬるくなったお茶を、それでも美味しいと思えること。
そういう、名前のつかない時間のことなのだと。
やがて、空は完全な群青になった。
茜は、もうどこにもない。けれど、消えたわけではない。明日の夕方、またこの窓の向こうで、何事もなかったように燃えはじめるのだろう。
ミケが、小さく寝言のような声を出した。
「にゃ」
それは、おやすみの挨拶のようにも、今日という日へのお礼のようにも聞こえた。
私は湯のみをそっとテーブルに置いて、立ち上がった。電気はまだ、つけない。
もう少しだけ、この群青の中にいたかった。
窓辺では、三毛猫が、夜のはじまりの色に包まれて、静かに寝息を立てている。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
PR
コータのAmazonページへ
コータのAIイラスト、Xページへ
コータのユーチューブページへ
よろしければ、
のぞいてみてください

0 件のコメント:
コメントを投稿