2026年10月9日金曜日

癒される癒される秋の灯台のある岬とメインクーンという猫

癒される癒される秋の灯台のある岬とメインクーンという猫

 

その岬には、もう誰も灯りを頼りにしなくなった灯台が、ひとつだけ立っていた。

白い塔の塗装は潮風に少しずつ剥げて、てっぺんの硝子は、秋の空をそのまま映している。船は今では遠くの港に灯りを見つけるから、この灯台が本当に光る夜は、年に数えるほどしかない。それでも岬へ続く細い道は、いつも誰かが踏みしめたように、ススキの間にうっすらと続いていた。

私がその岬を訪ねたのは、十月のはじめの、よく晴れた午後だった。

仕事が立て込んで、頭の中が散らかった紙みたいになっていた。何を考えても端がめくれて、うまくまとまらない。電車に揺られているうちに、ふと「海の見える、いちばん端っこまで行ってみよう」と思った。理由はそれだけだった。

バスを降りて、潮の匂いのする坂道をのぼる。

ススキの穂が、傾きかけた日の光を受けて金色に揺れていた。足元ではコオロギが短く鳴いて、その音は、風が吹くたびに遠くなったり近くなったりした。

岬の先に着くと、視界がぱっと開けた。

海は、秋のそれだった。夏のように眩しくなくて、少しだけ青が深い。水平線はくっきりしているのに、どこかやわらかい。波は岩にぶつかって白くほどけ、また静かに引いていく。その繰り返しを眺めているだけで、胸の奥でめくれていた紙の端が、ゆっくりと平らになっていくのが分かった。

灯台の足元には、古びた木のベンチがひとつ置かれていた。

腰を下ろそうとして、私は気づいた。

ベンチの端に、大きな猫がいた。

メインクーンだった。

毛は長く、背中から尾にかけて、茶と灰色と黒がまじりあった渋い縞が流れている。耳の先には、ふさりとした飾り毛。胸元の毛は、風にそよぐたびに、小さな波のように揺れた。体はずいぶん大きくて、座っている姿は、まるで小さな獅子のようだった。

猫は私をちらりと見ただけで、驚きもせず、逃げもしなかった。

琥珀色の目を細めて、またゆっくりと海のほうへ顔を向ける。

「ここ、あなたの席ですか」

そう声をかけると、猫は返事の代わりに、尻尾の先をひとつだけ、ぱたんと動かした。許可が出たのだと勝手に解釈して、私はベンチの反対の端に腰を下ろした。

ふたりのあいだには、猫一匹ぶんのちょうどいい距離があった。

しばらく、どちらも何も言わなかった。

言わなかった、というのは正確ではない。猫のほうは最初から何も言う気はなさそうで、私のほうは、言葉を探すのをやめたのだ。

波の音。ススキのこすれる音。遠くでカモメが一度だけ鳴いた。

海風がひんやりと頬を撫でていく。けれど、背中には、まだ昼の名残の陽だまりがあたたかく残っていて、そのふたつが混じりあって、ちょうどいい温度になっていた。

ふと隣を見ると、猫は目を閉じていた。

ごろごろ、という低い音が、かすかに聞こえる。

その音は、波の音と不思議なほど調子が合っていた。寄せては返す海のリズムに、猫の喉の音がそっと重なる。どちらが先に鳴りはじめたのか、もう分からない。

私は、膝の上で握りしめていた両手が、いつのまにかほどけていることに気づいた。

肩に入っていた力も、どこかへ流れていったらしい。

それから、どれくらい時間が経ったのだろう。

太陽は少しずつ傾き、海の色が、青から薄い金色へと変わりはじめていた。水平線のあたりが、うっすらと茜色に染まっていく。灯台の白い壁も、ほのかにオレンジ色を帯びて、ずっと昔からそこにあった古い絵のように見えた。

猫が、ゆっくりと立ち上がった。

大きく伸びをして、背中を弓なりにそらせる。それから、ベンチからひらりと降りて、灯台の入口のほうへ歩いていった。ふさふさの尻尾を、旗のようにまっすぐ立てて。

扉の前で、猫は一度だけ振り返った。

「来るなら来い」と言っているのか、「もう帰る時間だ」と言っているのか、私には分からなかった。ただ、その琥珀色の目には、静かで穏やかな光が宿っていた。

灯台の古い扉の隙間から、猫はするりと中へ消えていった。

きっと、あの猫にとっては、ここが家なのだろう。

誰にも頼りにされなくなった灯台を、毎日の寝床にして、毎日海を眺めて暮らしている。それはなんだか、とても豊かな暮らしのように思えた。役目を終えた場所で、役目などなくても、ただそこにいていい猫がいる。

帰り道、私はもう一度だけ振り返った。

夕暮れの空の下で、灯台は静かに立っていた。

その日、灯りがともることはなかった。けれど私の胸のなかには、小さな、あたたかな灯りがひとつ、確かにともっていた。

散らかっていた頭の中は、いつのまにか、きれいに片づいていた。

バス停へ向かう坂道で、ススキが風にそよいで、さらさらと鳴った。まるで「またおいで」と言ってくれているようだった。

秋の岬には、いまも灯台が立っている。

そしてその足元のベンチには、きっと今日も、大きなメインクーンが座っている。

波の音に、喉の音を重ねながら。

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