駅から歩いて二十分、舗装が途切れたところから先は、草の匂いの道になる。
その日、私は仕事の疲れを持て余したまま、ふらりと遠回りをしていた。スマートフォンの通知は鞄の底に沈めた。秋の午後の光は、夏の鋭さをすっかり手放して、蜂蜜を薄めたような色をしている。
野原は、道の先でひらけていた。
背の高い草のあいだに、白い花が点々と浮かんでいる。ノダケだ。小さな花が集まって傘のように広がり、その上を風がゆっくりと撫でていく。茎の途中にはほのかに紫がかった色が差していて、遠くから見ると、野原全体が淡い霞をまとっているようだった。
私は道端の石に腰をおろした。
しばらくは何も考えなかった。考えないでいられることが、こんなにありがたいとは知らなかった。
そのとき、ノダケの傘がひとつ、不自然に揺れた。
風ではない。風は右から吹いているのに、揺れは左から右へ、ゆっくりと近づいてくる。私は息をひそめて見守った。白い花の波がかき分けられ、やがて、ひょこりと小さな頭が現れた。
猫だった。
淡い茶色の毛に、白いくつ下をはいたような足。ふわりと丸い顔の下から伸びる体は、びっくりするほど短い脚で支えられている。マンチカンだ、と思った。
猫は草のなかで立ち止まり、私をじっと見た。琥珀色の目だった。警戒しているというより、ここは自分の庭なのだけれど、あなたはお客さんですか、と尋ねているように見えた。
「お邪魔してます」
思わず声に出すと、猫は短くひとつ、鼻を鳴らした。それから、短い脚をちょこちょこと動かして、ノダケの茎のあいだをまっすぐに歩いてきた。
背の高い草に隠れては現れ、隠れては現れる。そのたびに、白い花の傘がふわりと揺れる。まるで、草の海を小さな舟が進んでくるみたいだった。
猫は私の足もとまで来ると、石のまわりを一周して、それから当たり前のような顔で、私の隣の日だまりに丸くなった。
触れてもいいのか分からず、私はそっと手の甲を差し出した。猫は少しだけ鼻先を近づけ、確かめるように匂いをかいで、それから頬をこすりつけた。ひんやりした秋の空気のなかで、そこだけが驚くほど温かかった。
遠くで、鳥が鳴いた。
ノダケの花の上を、小さな虫が行ったり来たりしている。傾きはじめた日差しが、草の穂先を金色に縁どっていく。猫の背中は、呼吸にあわせてゆっくりと上下していた。
ふと、胸のなかで固まっていたものが、ほどけていることに気づいた。
今日の失敗も、言えなかった言葉も、明日の予定も、なくなったわけではない。ただ、この野原の広さのなかでは、どれもずいぶん小さく見えた。猫は何も言わない。慰めも、助言もしない。ただそこにいて、温かい。それだけのことが、どんな言葉よりも効いた。
どれくらい時間が過ぎただろう。
空の端が、柿の実の色に染まりはじめた。風が少し冷たくなって、ノダケの白が、夕暮れの青に溶けていく。
猫が不意に顔を上げた。耳がぴくりと動く。遠くのほうから、誰かを呼ぶような声が聞こえた気がした。この子の帰る家が、この野原の向こうにあるのかもしれない。
猫は立ち上がり、ぐうんと背中を伸ばした。短い脚で、それでもしっかりと土を踏みしめて。それから一度だけ私を振り返り、琥珀色の目を細めると、白い花の海のなかへ歩いていった。
ノダケの傘が、ひとつ、またひとつ、静かに揺れる。
その揺れが見えなくなるまで、私は石に座ったまま見送っていた。
立ち上がると、膝のあたりに草の種がいくつもついていた。払い落とそうとして、少し迷って、そのままにした。
帰り道の足取りは、来たときよりずっと軽かった。鞄の底のスマートフォンは、まだ沈めたままにしておいた。
秋の野原には、名前を知らなくても、そっと人を休ませてくれる場所がある。白い花と、風と、短い脚で歩いてくる小さな隣人と。
そんな午後が、誰の日常にも、ひとつくらいあっていい。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
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