2026年10月10日土曜日

茜色の空と波打ち際にのびる光の道と黒猫の後ろ姿

 


その日、仕事を終えて外へ出ると、空がいつもより少しだけ高く見えた。

理由もなく足が海のほうへ向いた。ポケットに手を入れたまま、堤防沿いの道をゆっくり歩く。潮の匂いが風に混じって、髪をやわらかく揺らしていく。

砂浜に降りる階段の途中で、ふと足が止まった。

空が、茜色だった。

燃えるような赤ではない。熟した柿の色にも、遠い灯りの色にも似た、あたたかい色だ。その色が水平線のあたりから空いっぱいに広がって、上のほうでは薄い紫に溶けている。雲のふちだけが金色にほどけていた。

波打ち際まで歩いていくと、足もとの砂がしっとりと冷たい。寄せては返す波の音が、一定のリズムで耳をなでていく。

その波の上に、光の道がのびていた。

沈みかけた夕日から、まっすぐこちらへ。水面がきらきらと細かく揺れて、まるで誰かが一本の金色の道を敷いてくれたみたいだった。波が寄せるたびに道は少し形を変えて、それでも消えずに、ずっと足もとまで続いている。

しばらく、何も考えずに眺めていた。

今日あったことも、明日のことも、ぜんぶ波が遠くへ連れていってくれる気がした。

そのときだった。

少し先の砂浜に、小さな影があるのに気づいた。

黒猫だった。

光の道の正面、波が届くか届かないかの場所に、背中をこちらに向けてすわっている。夕日を浴びた毛並みの輪郭が、うっすらと金色に縁取られていた。しっぽはきちんと前足にそろえられて、耳だけがときどき、波の音を拾うように小さく動く。

どこから来たのだろう。首輪はない。けれど、慌てた様子も、人を探す様子もなかった。ただ静かに、同じ空と同じ光の道を見つめている。

その後ろ姿が、なんだかとても満ち足りて見えた。

何かを欲しがるでもなく、誰かを待つでもなく、ただ今この時間をそのまま受けとっている背中だった。

私は少し離れた場所に腰を下ろした。砂が思ったよりもあたたかくて、一日の疲れがすこしずつ抜けていく。猫は振り返らない。けれど、私がそこにいることは、きっとわかっているのだと思う。

波が寄せる。引いていく。

光の道が、ゆっくりと細くなっていく。

空の茜色は少しずつ深くなって、水平線の近くでは、赤と橙と紫が静かに混じり合っていた。

やがて、黒猫がすっと立ちあがった。

伸びをひとつして、砂の上を数歩進む。それから、いちど光の道のほうを見つめて、ゆっくりと歩きはじめた。夕日に向かって、小さな足跡を砂浜に残しながら。

遠ざかっていく黒い背中が、茜色の空にくっきりと浮かんでいた。

私はその姿を、見えなくなるまで見送った。

夕日が水平線に触れて、光の道がふっと消えたとき、不思議と寂しさはなかった。空にはまだ、あたたかい色が残っている。

立ちあがって、膝の砂をはらった。

帰り道の足取りは、来たときよりも少し軽かった。

背中だけで語るような静けさが、胸の奥にいつまでも灯っていたからかもしれない。

また疲れた日には、ここへ来よう。

茜色の空と、波打ち際にのびる光の道。

そして、あの小さな後ろ姿に会えるかもしれない場所へ。

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