十月の終わりの夜は、昼間のざわめきをぜんぶ洗い流したあとのような静けさをしていた。
窓の向こうでカラカラと小さな音がする。サッシに前足をかけた黒猫の「ヨル」が、こちらを振り返って短く鳴いた。外に出たい、という合図だ。
「寒いよ」
そう言いながらも、私は膝掛けを肩にかけて立ち上がる。ヨルがこの時間にベランダへ出たがるのは、夜が深くなって空気がすっかり澄んだ日に決まっていた。
窓を開けると、ひんやりした空気が頬をなでていった。夏の夜にまとわりついていた湿り気はもうどこにもなくて、吸いこむたびに胸の奥がすうっと冷たくなる。遠くの街の音さえ、薄いガラス越しのようにきれいに輪郭を持って聞こえてきた。
ヨルは迷いのない足取りで、いつもの場所へ歩いていく。ベランダの手すりのすぐ下、植木鉢の横にぴたりと置かれた古いクッション。そこが彼女の特等席だ。黒い体はほとんど夜に溶けていて、金色の目だけが二つ、小さな灯りのように浮かんでいる。
私は隣に腰をおろし、ヨルの視線の先を追った。
空には、思っていたよりずっとたくさんの星があった。
街の明かりに負けて、普段は数えるほどしか見えない空だ。それなのに今夜は、冷えた空気がひとつひとつの光を磨いたみたいに、細かな星までくっきりと瞬いている。東の空には、オレンジがかった明るい星がゆっくりと昇ってきていた。
ヨルは動かない。背筋をまっすぐに伸ばして、顎をほんの少し上げたまま、星空を見つめている。ときどき耳だけがぴくりと動くのは、どこか遠くで鳴く虫の声を拾っているのだろう。尻尾は足もとにくるりと巻かれて、先だけがゆっくり、ゆっくりと揺れていた。
「何が見えてるの」
小さな声で聞いてみる。もちろん返事はない。かわりにヨルは、ほんの一瞬だけこちらに顔を向けて、ゆっくりとまばたきをした。猫のまばたきは「安心している」の合図だと、どこかで聞いたことがある。私もゆっくり、まばたきを返してみた。
それだけで、今日一日の疲れが少し軽くなる。
思えば今日は、朝からばたばたとした一日だった。急ぎの連絡に追われて、昼ごはんは立ったまま済ませて、帰りの電車ではスマートフォンの画面ばかり見ていた。空を見上げたのなんて、いつ以来だろう。
なのにこうして座っていると、あんなに大事に思えていたあれこれが、すこしずつ遠くへ引いていく。星の光は何年も、何十年も前に旅立ったものだと聞く。そんな長い時間をかけて届いた光の下で、今日の小さな慌ただしさを抱えている自分が、なんだかおかしくて、ありがたかった。
ふいに、膝のあたりにやわらかな重みがのった。
ヨルが体を寄せてきたのだ。ひんやりした毛並みの奥に、小さな体温がある。私が膝掛けの端を持ち上げると、彼女は当然のような顔でその中にもぐりこみ、丸くなった。喉の奥から、ごろごろと低い音が聞こえてくる。
澄んだ夜の空気の中で、その音だけがあたたかかった。
指先でそっと背中をなでると、毛の一本一本が夜気で冷えているのがわかる。それでも、なで続けているうちに、手のひらにじんわりとぬくもりが戻ってきた。ヨルの目は星空を見つめたまま、少しずつ細くなっていく。
遠くで電車の走り去る音がした。どこかの家の窓が閉まる小さな音もした。夜が深まるにつれて、世界の音はひとつずつ眠りについていくようだ。
流れ星は、ひとつも見えなかった。
けれど、それでよかったのだと思う。願いごとを探さなくても、今夜はもう十分にたりていた。冷たい空気と、数えきれない星と、膝の上の小さな重み。それだけで、胸の中がしんと満たされている。
どれくらい経っただろう。
気がつくと、ヨルはすっかり眠っていた。星を見ているうちに、そのまま夢の中へ歩いていってしまったのかもしれない。黒い小さな体が、規則正しく上下している。
私は起こさないように、そっと膝掛けを整えた。
見上げた空では、さっきのオレンジ色の星が、少しだけ高いところまで昇っていた。
秋の夜は長い。もう少しだけ、このまま。
澄んだ空気を深く吸いこんで、私は静かに目を閉じた。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます
PR
コータのAmazonページへ
コータのAIイラスト、Xページへ
コータのユーチューブページへ
よろしければ、
のぞいてみてください

0 件のコメント:
コメントを投稿