2026年10月8日木曜日

癒される秋の青空と屋根の上の黒猫

癒される秋の青空と屋根の上の黒猫

 朝、窓を開けると、空がびっくりするほど高かった。

夏の空は、分厚い雲を抱えて低く構えていたように思う。それがいつの間にか、ひとつ息を吐いたみたいに遠くへ退いて、どこまでも澄んだ青だけを残している。ひんやりした風が、カーテンをやわらかく揺らした。

マグカップを両手で包んで、ベランダに出る。

向かいの家の屋根の上に、黒いものが丸まっていた。

猫だ。

瓦の上、ちょうど朝日がいちばん先に当たる場所で、黒猫は前足を胸の下にたたんで、じっと空を見ていた。艶のある毛並みが光を吸い込んで、背中のあたりだけほんのり茶色く透けている。秋の日差しを、ひと粒残らず集めているみたいだった。

私に気づいたのか、猫はゆっくりとこちらを向いた。金色の目が、一度だけ細くなる。

挨拶をされたのだと思うことにした。

「おはよう」

小さな声で言うと、猫は返事の代わりに、ふわあ、と大きなあくびをした。それから、まるで何も用事などないという顔で、また空へ視線を戻す。

私も同じ方向を見上げた。

白い雲が、ひとつだけ浮かんでいる。ちぎった綿のような、頼りない形をしていた。それがゆっくり、ゆっくり、屋根の向こうへ流れていく。急ぐ理由なんてどこにもないのだと、教えてくれているようだった。

思えば、こんなふうに空を見上げるのは久しぶりだった。

最近は、足元ばかり見ていた気がする。スマホの画面、駅の階段、締め切りの数字。顔を上げる余裕もないまま、季節だけが勝手に進んでいた。金木犀の香りがしていたことにも、きっと一度も気づかなかった。

それなのに、空はずっとここにあったのだ。

黒猫は、屋根の上で器用に体を伸ばした。ぐうっと背中を丸め、前足をそろえて、また丸くなる。その一連の動きが、あまりにも自然で、あまりにものんびりしていて、見ているだけで肩の力が抜けていく。

風が吹いた。

どこかの庭から、乾いた落ち葉の音が聞こえる。遠くで、自転車のベルが軽やかに鳴った。洗濯物を干す音。誰かが玄関先を掃く、ささやかな箒の音。

世界は、こんなにも静かに動いている。

猫はそのどれにも動じず、屋根の上で、ただ青空の下にいた。「いま」という時間を、いちばん上手に使っているのは、きっとこの子なのだろう。

マグカップのお茶が、少しぬるくなっていた。

それでも私は、もう少しだけここにいることにした。ベランダの手すりに肘をついて、空と、屋根と、黒い背中を、ぼんやり眺める。

しばらくして、猫がふいに立ち上がった。

屋根の端まで歩いていき、軽やかに隣の塀へ飛び移る。しなやかな尻尾が、青い空を背景に、一本の線みたいに揺れた。そして一度だけ振り返って、金色の目で私を見た。

「また、ここにおいで」

そう言われた気がした。

猫の姿が見えなくなったあとも、屋根の上には、あたたかな日だまりが残っていた。

私は大きく息を吸い込む。

秋の空気は、少し冷たくて、少し甘い。

今日はきっと、いい一日になる。根拠なんてないけれど、澄んだ青空と、屋根の上の黒猫に会えた朝なのだから、そう信じてみてもいいと思った。

空は高く、風はやさしく、季節はちゃんと、ここにある。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます

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